>もともと「戦争をする」という重要な事をお上が決めたとき、それすら十分な検討はなかったからです。
日本人とっては、検討という仕事は難しいですからね。
> 増税の問題に象徴されるように、権力は常に民主主義の敵であり、それに対する警戒心と、自立の心を持つことが求められるのに、小さくはエコポイントから禁煙運動、クールビズ、節電まですべてのことをお上からの指令で動く社会ができあがっています.
声なき国民は待ちの姿勢ですね。
> 安保条約締結の時、民主主義の危機が来たと感じた日本人は正常だったのでしょう。>今では「減税公約、増税実施」について民主主義の危機と感じる日本人が少なくなりました。>どこに丸山真男の弟子が居るのでしょうか?
彼の影響力は微々たるものでしたね。
> 丸山真男の領域では、思想は思想だけでは意味が無いだけではなく、それが社会的運動までには発展しなくても少なくとも論壇では大いに語られ、それが社会に影響を及ぼさなければ何の意味もありません.
日本人には意思がない。意思のあるところに方法 (仕方) がある。日本人は、仕方がないから無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱。
>東大には法学部があるのか、政治学者が存在するのかと疑わしくなります.
政治に関する考えは、政治哲学になる。日本人は、思考を停止している。だから、日本人には政治哲学がない。
>このような現状を考えると、日本には「政治学」というのは無いのではないかと思います。
政治学は、政治哲学に関する究明ですね。それはわが国では想定外になっています。日本人は、無哲学・能天気だからです。
>学問というのは積み重ねていくものですから、丸山真男ぐらいの人が体系化し、打ち立てた「日本の政治学の基本」は事態の変化によって容易には変わらないはずですし、現代の東大の政治学、日本の中枢の政治学が彼の学問から大きく変化しているなら、政治学という名前を使わずに「政治評論」と呼ぶべきでしょう。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
> 現代の東大教授がくずれたのは、ヨーロッパのワインを飲みたいこと、勲章をもらいたいからとは思いますが、丸山は戦争中、すでに大学の教員だったときに召集令状が来ても、将校になるのを断り二等兵として出征し脚気にかかりました。
丸山真男は信念の人ですね。
>我が身より魂を大切にするその思想的一貫性を思い出して欲しいものです。
理想と現実の間の葛藤が人生ですね。
‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)
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>以上です。
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