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渡辺洋介氏  

2024-12-11 17:00:03 | 文化

>朝日新聞デジタル   >ノーベル平和賞とは、日本被団協の功績とは背景にある世界の危機   >朝日新聞社によるストーリー・   >18時間・   

> 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に10日、ノーベル平和賞が授与される。   

>核兵器が生み出されて約80年、核兵器をめぐる世界の状況と日本被団協のあゆみをたどる。   

>■世界になお1.2万発が存在   

> 世界には、今なお12千発以上(退役・解体待ちを含む)の核弾頭が存在している。   

>その源流は、第2次世界大戦末期の19457月、米国がニューメキシコ州で行った史上初の核実験だ。   

> 米国の核開発計画を指揮したのは、今年のアカデミー賞7冠の映画「オッペンハイマー」の主人公となった物理学者、ロバート・オッペンハイマー。   

>核開発の成功を知ったトルーマン米大統領は3週間後、広島と長崎に原子爆弾を投下し、人類は「核の時代」に足を踏み入れた。   

> 戦後、49年にソ連が初の核実験に成功すると、米ソの核開発競争が激化する。   

5060年代には英国、フランス、中国が核保有国に加わった。   

70年には核不拡散条約(NPT)が発効し、米ソ英仏中の5カ国を「核兵器国」と認める代わりに核軍縮の義務を負わせたが、その後も核兵器の数は増え続け、ピークの80年代半ばには計7万発に達した。   

> 一方で、世界中で核戦争への危機感が高まり、80年代には反核の機運も高まっていく。   

>米国のレーガン大統領とソ連のゴルバチョフ書記長は85年、「核戦争に勝者はない」と合意。   

>世界の核弾頭数は80年代半ばから減少に転じ、ゆるやかとはいえ核軍縮が始まった。   

>米ソは87年、中距離核戦力(INF)全廃条約を結んで核兵器の削減に踏み切り、91年に第1次戦略兵器削減条約(START1)も締結された。   

> ただ、東西冷戦が89年に終結すると、今度は「核の拡散」が進む。   

98年にパキスタンが、2006年には北朝鮮が、それぞれ核実験に踏み切った。   

21世紀になり、核兵器削減のペースは鈍っている。   

> 国際情勢が流動化する中、22年からウクライナに侵攻するロシアのプーチン大統領は核使用を示唆する「核の脅し」を繰り返し、232月には米国との新戦略兵器削減条約(新START)の履行停止を決めた。   

> 中東では、事実上の核保有国であるイスラエルと、核開発を進めるイランの対立が深まっている。   

>東アジアでも中国は核兵器を増やし、北朝鮮はミサイル実験を繰り返している。   

>米国も、核兵器数こそ減らしているものの、核の近代化を進める。   

> こうした中でも、核廃絶の動きは粘り強く続けられている。   

17年に核兵器の保有や使用、威嚇を禁じた核兵器禁止条約が採択され、21年に発効した。   

>署名国は100カ国近くになった。   

>他方、自らは核を保有しなくとも「核の傘」に依存する国も数多く存在する。   

>「唯一の被爆国」を自任する日本政府も米国の「核抑止」への依存を深めており、核禁条約のオブザーバーにも参加していない。   

>(渡辺洋介)   

 

「アメリカがあのタイミングで原爆投下して、どれだけ破壊力があるかを世界中に知らしめられたことで、冷戦中の核兵器使用が防がれた。世界の滅亡を避けられたじゃないか。大体、日本は被害者なのか。  

ユダヤ人大虐殺をしたドイツと連盟を組んで、他のアジアの国にもひどいことをしたじゃないか。それでいて第二次世界大戦といったら原爆投下の被害ばかり語るのっておかしくない?  そもそも戦争中っていろんな国がめちゃくちゃひどいことをしたわけだから、日本が、日本が、って核兵器についてばかり言うのはおかしいと思う」 (あるアメリカの学生

 

御尤もですね。日本は加害者ですね。しかし、日本人には意思がない。だから、日本人には加害者意識 (罪の意識) がなくて、被害者意識だけがある。わが国は戦犯が存在しなくて犠牲者ばかりの国ですね。     

唯一の被爆国というのは被害者が被害を語る時の否定されることのない固い論拠であるとだけ考えているのでしょうね。   

日本人には罪の意識がないので悪びれた態度がない。だから、遠慮・ためらいもなく核兵器についてばかりを世界中に大声で言うのですね。これは常に考えられている楽ちんな気休めですかね。     

 

我が国の日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答を出せる編集者が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だが、自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走に迷走を続けて、いつまでたっても国家目標に到達しない。だから、政治はわが国の若者にも夢と希望を与えない。

心ここにあらざれば、視れども見えず。(心が上(うわ)の空の状態では、じっと見ているようでも実際には何も見えていない。精神が集中していないと何もできない事)    

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

 

 

 

 

 

 

 



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