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恥の文化・感じる宗教 1/2

2019-11-30 09:05:04 | 文化

>ルース・ベネディクトが「日本は恥の文化」だと言った。>日本人の恥というのは、人の目だけではなくて、お天道様や御先祖様、そういう大きな世界からの視線の中での恥なのですね。> 単にヘンなことをして、人に見られて恥ずかしいというのではなくて、ご先祖様から生をいただいている私としたことが、こんなバカなことをしてしまって恥ずかしい。>つまり、誰も見ていないけれども、世界視線からは見られていて恥ずかしいことをしてしまったという、より大きな恥の感覚がある。

そうですね。それもあるでしょうね。しかし、’旅の恥はかき捨て’ の方が大きいのではありませんか。日本人にとって、人前で恥をかかせられることは一番恐ろしい。

>それがどんどん縮小していって、経済人や政治家までどんどん縮小していって、また団塊の世代というヤツらが縮小していった(笑)。
> 団塊の世代は本当に世界視線がないですよ。

日本人には世界観がない。非現実・考えの内容は時制のある文章内容として表現される。その内容は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) として表現される。これらの内容は、世界観 (world view) と呼ばれるものである。その三世界は生まれた時には白紙の状態である。だが、年を経るにしたがって誰しもその白紙の状態が気になるものである。そこで、各人がその内容を自主的に埋めて行くことになる。三世界の内容は、何処までも展開可能な状態になっている。思春期になると、言語能力が著しく発達するので、人は ‘考える人’ になる。英米人は英米流の高等教育機関に進学して、自己の世界観を完成する。その段階に従って学士・修士・博士の称号を得ている。自己の世界観の内容を基準にとって現実の内容を批判すれば、その人は批判精神 (critical thinking) の持ち主となる。
英語には時制があるから、英米人には世界観がある。自己の世界観に基づいて現実の内容を批判するので、批判精神がある。
日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。批判精神がない。自己の世界観に基づいて現実を批判することもない。大学に進学しても自己の哲学 (非現実の内容) は作れない。だから、四年間を遊んで過ごさなければならない。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)

>ほら、小学校に入ったときから60人学級とかに詰めこまれて、人口圧がむちゃくちゃあったから、人の目しか見えない。>団塊の世代の教授たちには、教授会の前の晩に作戦会議をやって多数派工作をしたりすることに燃えてる人も結構いますよ。>私の世代は恥ずかしくてそんなことできないけど。>要するに、多数派につくことが正義。

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク) 

>向こう側の神仏に見られている私の正義ではなくて、この100人の中でいかに多数派を取るかという、株主総会みたいな正義なのです(笑)。

衆愚政治ですね。

> 団塊の世代で大きな世界視線が失われてしまいましたが、今の子たちはもう一回それを回復する力があると私は思っています。>単線的な世界観がもう骨にも肉にも血にもなっちゃったのが団塊の世代だとすれば、今の子たちは日本が右肩上がりの状況を一度も知りませんから、逆に社会が複線であるということをわかってくれる素地がある。> 教育者や経済人も、早く団塊の世代に引退してもらって、より心のある人間がトップに立ったほうがいい。>でも、その後で今度はどういうビジョンが語れるのかが問題になってきます。

世界観のない日本人にビジョンを語らせるのは難しいでしょうね。歌詠みなら得意でしょうがね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」


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