聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/10/11 マタイ伝6章5~9節「祈りのプレゼント」ニューシティカテキズム41

2020-10-10 12:36:12 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/10/11 マタイ伝6章5~9節「祈りのプレゼント」ニューシティカテキズム41

 前回「私たちは何を祈るべきですか?」という問いに「イエスご自身が私たちに教えた祈りを含めて、神のみことば全体がどう祈るべきか導き、祈りの言葉を示し導きます」と学びました。「イエスご自身が私たちに教えた祈り」それが「主の祈り」です。その事を確認するのが、今日の「ニューシティカテキズム」第四十一問です。

第四十一問 主の祈りとは何ですか?
答 天にいます私たちの父よ。
御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。
御心が天で行われるように地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。

 「ニューシティカテキズム」では「主の祈り」についてはこう確認するだけです。一つ一つの項目を詳しく見ていくことはせず、次の42問からは「御言葉」のテーマになります。ですから、今日も、主の祈りの丁寧な解説はしません。一つ一つ丁寧に見ていけば、きりが無いぐらい、これは素晴らしい祈りです。そして、その祈りを私たちが味わって祈れることは、本当に素晴らしい幸いです。「主の祈り」は主イエス・キリストが私たちに下さった祈りのプレゼントです。
 そうです。今でも世界中の教会が、世界中のキリスト者が、それぞれの言葉で、毎週、毎日、「主の祈り」を祈っています。私たちが「主の祈り」を祈る時、それは世界中の人々の祈りの輪に加わっている。数え切れない多くの人たちの祈りの伝統に、私たちも入ったのです。そう思うだけでもワクワクしませんか。「天にいます私たちの父よ」と祈る時、この「私たち」はこの会堂にいる人たちや、ここには見えない、でも、ここで「主の祈り」を祈っている方々とも、そして、日本や世界や、歴史上の何億というキリスト者とともに「私たちの父よ」と祈っているのです。その人たちとともに「私たち」と祈る特権が与えられたのです。一つの神を「私たちの父」と呼ぶ、強いつながりに入れられました。世界には、言葉や肌の色や国籍で違いがあります。
 文化や伝統で衝突したり戦争さえしたりしています。「あいつと俺たちは違う」っていう言葉が強く当たり前にあります。「主の祈り」は、そんな世界で、バラバラだった人たちを「私たち」と一つにするのです。言葉も通じない、肌の色も違う、好きな食べ物や、音楽の趣味も全然合わない、そういう人たちを、イエス・キリストは、神を「私たちの父」と呼ぶ、一つの家族としてくださいました。ですから、私たちは「自分だけ」の祈りはしません。自分さえよければ、という祈りではなく、周りの人、違う人、敵や知らない人も含めて祈ります。勿論、自分のために祈っていいのです。私のためにも、多くの人が祈ってくれているのです。私のために、「私たちの」と、一緒に祈ってくれている大勢の人を覚えて遠慮無く自分のためにも祈り、周りの人やすべての人のためにも祈るのです。

 しかし、その「私たち」のための祈りの前に「主の祈り」は
「私たちの父」
のために祈ります。

御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

 この「御名」とは、天の父、あなたのお名前ということです。「御国」とは、天の父、あなたが王である国、ということです。「御心」とは、天の父、あなたの願い、お考え、あなたの喜ばれることが、ということです。この世界を作られたのは神です。それなのに、この世界の中に生かされている人間が、神様を忘れ、自分が王になろうとして、神様を礼拝するのも、自分の願いを叶えてもらうため、というちぐはぐなことが起きているとしたら、それは一番の問題です。
 主イエスは「主の祈り」を教えるに先立って、自分を見せびらかしたり、長々と祈ってやっと聞いてくれるような神だと思ったりするような勘違いをしないように教えられました。神を小さく、自分の方が大きく考えたままでは、祈りは始まりません。だから、「主の祈り」は、私たちの名前や思いよりも、まず天の父の「御名が聖なるものとされますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」と祈るのです。その事で、私たちは自分が神様に成り代わってしまう愚かさから救い出されるのです。
 そして、後半は「私たちの」と繰り返します。
私たちの日毎の糧…
私たちの負い目…
私たちに負い目のある人たち…
私たちを試みにあわせないで…
 私たちが生きるのに必要なこと、食べ物やすべての必要、また、赦し、誘惑や悪からの守りを祈ります。ここに、私たちにとって本当に必要なことのエッセンスが詰め込まれています。「主の祈り」がなければ、私たちは自分の中に、どんな期待を持っているでしょう。どんな願いを祈ろうとしているでしょう。その願いは正直なもので、大事な願いだとしても、だからこそ、「主の祈り」の大きな願いの中に、自分の願いを置く時に、その願いさえも、新しい目で見ることが出来るようになります。

 主イエスは、私たちにこの祈りをプレゼントしてくださいました。私たちがどう祈れば分からない時も、主の祈りを祈ることが出来ます。とても、祈る言葉が出てこないほど疲れて、気持ちが萎えている時も、主の祈りがあることで、祈りの言葉を唱えることが出来ます。それを味わいながら、ゆっくりと祈りながら、時には言い換えたり、自分の言葉で言い直したり、繰り返したり、思いを挟みながら、祈って良いのです。イギリスの教会の礼拝で、司祭がみんなの前で「御国が来ますように」と祈った後、「主よ、私たちはもうこの祈りを二千年も祈っているのですよ」と言ったそうです。私たちも、主の祈りを祈りながら、そんな言葉を挟んでもいいのです。

 「主の祈り」は、主イエスが私たちに教えてくださった祈りです。神のひとり子イエスが、私たちに「天にいます私たちの父よ」と祈るよう教えてくださったことは計り知れない恵みです。毎日、この祈りを祈りましょう。毎日、沢山の願いや問題や痛みがあります。この世界で、神に向かって「天にいます私たちの父よ」と呼べることの幸せを、そして一緒に祈る大勢の家族がいる喜びを、主の祈りは与えてくれるのです。

「天におられる私たちの父よ、あなたが教えてくださった祈りを祈るとき、どうかその言葉が口先だけの言葉になりませんように。この祈りの願いが、私たちの心からの叫びでありますように。あなたの偉大なる御名のために、主の御国が地上に、また私たちのうちに、来ますように。アーメン」
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