2017/1/29 「詩篇 心から神に歌う」詩篇一一一篇
毎月一回、聖書の六六巻から一つの書をお話ししています。今月は、聖書同盟の聖書通読表で詩篇一一一篇が今日の箇所になっていますので「詩篇」を取り上げましょう。聖書をパッと広げると真ん中にあるのが詩篇です。一五〇篇もある長い本ですので、開きやすいでしょう。この詩篇の素晴らしさを改めて知って、是非皆さんの毎日に詩篇を親しく読んでほしいのです。
1.詩篇一一一篇 ハレルヤの詩篇
今日の詩篇一一一篇をじっくりと読むと、ここでは主への感謝と、主の御業への賛美が力強く歌われています。また、過去の歴史において実際になされた出来事を思い起こして、主に信頼することの確かさを歌い上げています。とても楽観的で、信頼に満ち、敬虔で、神への疑いは全くありません。曇りなく、神への賛美を歌い上げています。最後の、
10主を恐れることは、知恵の初め。これを行う人はみな、良い明察を得る。
は、詩篇でありながら、次の「箴言」のようにさえ思える格言的な響きがあります[1]。この詩篇一一一篇から一一八篇までは「ハレルヤ詩篇」と呼ばれるひとまとまりで「ハレルヤ」(主(ヤハ)を誉め称えよ)という言葉が特徴になります。主を誉め称え、その御業を賛美する色彩が強い詩が続いて並べられていくのです。主の御名を賛美するようにと呼びかける詩。それも詩の形で、イメージ豊かに、リズミカルに、私たちの心を目覚めさせるような言葉遣いでです。これもまた詩篇に特徴的な素晴らしさです。詩篇の中には、このような美しい詩が沢山あります。また、詩篇には私たちの信仰を励まし、慰めてくれるような美しい言葉が沢山あります。皆さんも詩篇に愛唱している言葉があるという方がいらっしゃるでしょう。また、礼拝においても、招詞や交読で、詩篇の言葉を使うことは、教会の初期から始まっていた大事な伝統です。詩篇がキリスト教会を育ててきた、と言っても過言ではありません[2]。
しかし、かといって、詩篇にはそのような恵みや明るい言葉ばかりがあるわけではありません。むしろ、こういう確信や勝利感に満ちた詩は要所要所で柱をなしつつ、それ以外の詩が多いのです。詩篇を読み進めるならば、このような神への純粋な賛美の言葉に励まされ、慰められ、教えられる事もある一方、ドキッとするような毒々しい言葉も出て来ますね。この前にある一〇九篇はどうでしょう。
6どうか、悪者を彼に遣わしてください。なじる物が彼の右に立つようにしてください。
7彼がさばかれるとき、彼は罪ある者とされ、その祈りが罪となりますように。
8彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、
9その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように。
と以下続いていくのです。こういう「呪い」の詩篇[3]や「嘆き」の詩篇[4]もあります。むしろ、感謝や賛美や嘆きや知恵と分類していくと、詩篇に一番多いのは「嘆き」の詩篇だそうです[5]。
2.嘆き、復讐、呪いも赤裸々に
詩篇には、明るく美しい信仰の言葉ばかりではなく、涙や悲しみ、不安や恐れなど様々な感情が出て来ます[6]。私たちの心に浮かぶ赤裸々な心情が出て来ます。人生に起こり得る不条理や闘いなど様々な出来事が想定されているのです。私たちが読んで戸惑い、目を背けて素通りして、綺麗な言葉だけにして済ませたい。そういう言葉の方が詩篇には多いのです。詩篇そのものが私たちにとってのチャレンジです。私たちの信仰理解を、斬新な形で改めてくれます。
勿論、詩篇の激しい呪いの言葉は、私たちに人を呪うことを勧めているわけはなく、私たちのうちにある復讐心を正当化するわけではありません[7]。しかし、聖書はそういう復讐を求めずにはおれないような出来事がないとか、そんな出来事が起こっても絶対怒ったりせず平安で賛美をして相手を赦しなさい、とも言いません。神を信じる者にも、ひどい出来事は降りかかるし、心を打ちのめされて、嘆いたり叫んだりせずにはおれない出来事も起きる、ということです。私たちは、神を信じていれば、神が健康や幸せや生活を守り、願いを叶えてくださると思いたいのです。信仰があれば、貧乏や裏切りや災害に遭わず、病気や笑いものになることもない。そう思っているつもりはなくても、どこかでそう思っています。そして、そういう時に引き起こされる自分の中の怒りや被害者意識、不公平感、妬みや孤独といった「負の感情」も見つめたくないし、認めたくないのです。そんな恥ずかしい思いには蓋をして、明るく信仰的に振る舞って、神も音便に事を運んでくださればいいのに。そんなぐらいに思うのです。[8]
しかし、詩篇は嘆きや呪いや怒りを祈ります。それも、実に強烈に、遠慮なく、神にぶちまけています。負の感情に蓋をして腐らせて、心が全部臭くなって爆発する前に、自分自身を神に差し出しているのです[9]。詩篇の詩人は、神の前で「敬虔な信仰者」であろうとはしませんし、自分の負の感情を「罪」として悔い改めることで解決しようともしません。そうした感情をあるがままに正直に神に差し出しています。詩篇は神を信じる人にも、病気や災難、暴力や恥がふりかかる事実を示しますし、その時に人の中に沸き起こる負の感情があることもストレートに伝えています。そして、そのような思いをありのままに祈り、神に訴えて祈ることが出来る事にこそ、神の民のユニークさがあると気づかせてくれるのです。
3.「心を尽くして」
イエス・キリストご自身、詩篇を歌われ引用されましたが、ルカ二四44でこう言われます。
…わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する…
詩篇にはイエスのことが書いてあって、それが全部成就したというのです。詩篇とイエスは結びついています。詩篇を読めば、イエスがもっと分かるのです。率直な所、今日の詩篇一一一篇のような力強い詩と、一〇九篇のような呪いの詩が隣り合わせにあることに私たちは戸惑わないでしょうか。この当惑は私たちの人生そのものが、単純に割り切れないもの、当惑と確信とが入り混じっている事実に通じています。詩篇は、主の御業の偉大さやその憐れみ深さも、実際にこの世界に働いていることを知っています。だからこそ、世界で悪がはびこっている現状を赤裸々に嘆いています。イエスの十字架の死は、まさにそのような賛美と嘆きでした。イエスは十字架の上でも、詩篇の言葉で祈られましたが[10]、私たちにも本当に深く、心からの神への叫びや、真実な祈りを捧げる関係をそこで下さいました。今日の詩篇一一一篇にも、
1ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝しよう。直ぐな人のつどいと集会において。
2主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。[11]
とあります。口先での感謝や祈りや賛美から、心を尽くして主に感謝するようにと詩篇は私たちを招いてくれます。主の御業がどれほど偉大で、喜ばしいか。その事実を生き生きと教えてくれもします。同時に、それとは全く違う真っ暗な現実と、そこからの嘆きも聞こえます[12]。こういう詩篇を、主は私たちに与えてくださいました。主が、私たちに祈りを下さるのです。詩篇は、祈りは主が下さることと、それがどれほど豊かな心からの交わりであるかの証しです。
考えてみて下さい。主は祈りを詩の形で下さいました。堅苦しい挨拶文でもなく、仰々しく美辞麗句を連ねる畏まった賛辞でもありません。主は、川辺の果樹や羊の群れや大空や涙など、身近なイメージを用いた歌を下さいました。主は、聖書に詩篇という素晴らしい詩集を入れてくださいました。イエスは詩篇が描く豊かな信仰を、ご自身の生涯において、豊かに示されました。そして、そのような涙と希望の混じった信仰を私たちにも下さり、更に加えて
「主の祈り」
まで下さいました。私たちは詩篇を字面通りなぞるだけではなく、心から神に祈る者とされるのです。詩篇を読み、それが私たちの祈りであって、私たちの嘆きも喜びも願いもそこにあることに気づき、神に結ばれた心を新しく豊かにされる。詩篇にはその恵みがあります。[13]
「主よ。詩篇を通して、あなた様が私たちに見せてくださる信仰の世界が豊かで、命に満ちたものであり、あなたがどれほど私たちを知っておられるかを教えられます。小さく冷えた、貧しい祈りを、いいえ、どう祈れば良いか自体分からずに戸惑う私たちを、主が下さった詩篇の贈り物によって広くし熱く燃やして、あなた様の恵みを、正義を、御業を求めさせてください」
[1] この一一一篇と一一二篇は対になっており、どちらも「アルファベット詩」の構造を取っています。
[2] マルチン・ルターは詩篇を「小聖書」と呼びました。
[3] 呪いの詩篇はこの他に、三五篇など。
[4] 有名な嘆きの詩篇は、八八篇。
[5] 「人間としての極限状況で起こる出来事は、わたしたちに都合のよい平静な状態を脅かし崩壊させるものですが、それこそがわたしたちの中に激しい感情を満たし、力強い言葉を生み出すものであることが、多様な方法で示されています。このように、詩編は殆どの場合、わたしたちが生活の中で経験したことに強いられて、情熱を込めて力強く聖なる方へと語りかけるようになったという出来事を、反映しているのです。」W・ブルッゲマン『詩篇を祈る』(日本キリスト教団出版局、吉村和雄訳、2015年)二八-二九ページ。
[6] 「わたしはこの書物を魂のあらゆる部分の解剖図と呼ぶのを常として来た。なぜならば、あたかも鏡に写すようにその中に描写されていない人間の情念は、ひとつも存在しないからである。さらに言うならば、そこにおいて聖霊はあらゆる苦悩、悲哀、恐れ、疑い、望み、慰め、惑い、そればかりか、人間の魂を常に揺り動かす気持の乱れを生々と描き出している。聖書のほかの部分に含まれているのは、神がそのしもべらに命じて、われわれに宣べ伝えせしめられたもろもろの教えである。しかし、ここにおいて預言者たちは神に語りかけつつ、その内的心情のすべてを打ち明け、その限りにおいて、われわれひとりびとりに自分自身を反映するようにと呼びかける。あるいはむしろ、そのように導く〔という方がよいかも知れない。〕それはわれわれにつきものの弱さ、また、われわれのうちに満ち溢れているもろもろの悪徳が、ひとつとして隠れたままで残ることのないためである。」カルヴァン『詩篇注解1』六-七ページ。
[7] まして、教会やキリスト者が他のグループや敵を呪って罰する事が正義だと考えるのではありません。
[8] 祈りは「神の御意志に一致する事のために、キリストの御名によって、私たちの罪の告白と神のあわれみへの感謝に満ちたお礼を添えて、神に私たちの願いをささげることです。」(ウェストミンスター小教理問答98)です。願いを神の間に置いてしまうのです。願ってもいないことを並べ立てることでもなければ、願っていることは自分の願いとして握りしめていることでもない。詩編の赤裸々な祈りはそれを示してくれる。
[9] 怒りも表出されている。怒っても罪を犯してはならないし、怒りは罪に根ざし、罪を産むことは多い。しかし、怒りを抑え込み、憎しみがないふりをしても、何の解決にもならない。怒りを祈りの中に持ち込むことで、彼らは憤怒や憎悪をコントロールし、神の前に生きることが出来る。神を忘れた故に怒り、神のようにふるまうのではなく、神を神とし、自分は神ではないことを弁えつつ、自分の中にある怒りを神にぶつけて、謙っているのである。カインの轍を踏まないのである。
[10] 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」は、詩篇22篇1節の引用です。ただし、そのままの引用ではなく、イエスの状況によって、新しく言い換えられています。
[11] 「この二節の主題が、英国ケンブリッジ大学キャベンディッシュ記念研究所の玄関に彫り込まれていると聞きます。幾つもの科学的発見を世界に発表した同研究所のモットーと。」小畑進『詩篇講録(下)』(いのちのことば社、2007年)六七九ページ。
[12] ブルッゲマン「詩編はわたしたちに対して、次のことを断言しています。つまり、わたしたちが祈り、礼拝する時、自分自身の人生の旅路の持つ深みを悪く考えたり否定したりはしないようにと、期待されているのだということを。むしろわたしたちは、それを隠し立てせず、信頼をもって差し出すことを期待されているのであって、それ故にそれは聖なる方に向かって力強い言葉で情熱的に語りかけられるものとなり得るのです。もしわたしたちが、この、語られていることと人生との経験との間の結びつきに、真実に注意深くあるならば、自分とはまったく違う状況の中にいる兄弟や姉妹と一緒に、ひとつの祈りを祈っている自分自身を見出すでしょう。これらの他の人たちの言葉はわたしたちのものとは少し違うニュアンスを持っているかもしれませんが、しかし彼らもまた自分の人生の中で、逆境で方向を見失い、新境地でそれを再び見出すという生々しい体験をしているのです。それ故に彼らも、元気さを取り戻して聖なる方に語りかけられるこの声に、自分たちの声を合わせるのです。」、四五ページ。
[13] 「イスラエルの共同体が集まって祈りをささげる時に、その言葉、その声、その原動力を与えたのは詩編そのものだったのであり、詩編こそが預言者たち、「知恵文学」の人々、歴史書の著者たちを生み出し、それらを形作ったのである。まず詩編が最初に存在したのであって、預言者たちはそのあとに続いたのである。祈りという内面的な行為が宣教という外的行為に先行するのである。」ユージーン・ピーターソン『牧会者の神学』五五ページ。彼の力強い「詩編論」は、同書四九-五七、六八-八三ページを参照。
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