2017/10/1 使徒の働き九章1-25節「目からウロコが落ちる話」
この「サウロ」が後に使徒パウロとなりました。サウロというのはユダヤ人としての名前で、イスラエルの初代の王サウルから取ったもの。王と同じ名前です。パウロとはラテン語の名前で外国では使いやすい名前だったのでしょうが、その意味は「小さい」なのです。サウルからパウロへ、王から小さい者へ。その大変化が起きたのが、将にこのイエスとの出会いでした[1]。
1.ダマスカス途上で
八章の最初はサウロという青年が先頭に立ってエルサレム教会への大迫害が始まったという記事でした。八章の大半がピリポの二つの活躍を伝えていましたが、九章はまた戻り、サウロの迫害の続きを記します。サウロはキリストの弟子たちを脅かし、殺意に燃えました。更にエルサレムから200km北上したダマスカスに行って、見つけた信者を逮捕してエルサレムに連れ戻す権限をもらうのです[2]。しかしまもなくダマスカスという所で、天からの光に打たれて彼は地に倒れます。天からの光、サウロを倒すほどの光、そして不思議な天からの声です。
4…「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
信仰篤い彼は今自分を打ち倒し、声をかけたのが「主」なる神だと思いました。しかし
「なぜわたしを迫害するのか」
と言われて、訳が分からなかったのでしょう。そこで、
5彼が、「主よ。あなたはどなたですか」
というちょっとこんがらがった質問を言うのです。すると聞こえたお答えは
…「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
サウロは目が見えなくなり、同行していた人々に手を引かれて、ダマスカスに入ります。その後三日間、彼は目が見えず、何も食べずにいた、というのです。この三日間、彼は何を考えていたのでしょうか。食欲も失せるほどの混乱か、罪の悔い改めの断食だったのか[3]。しかし、そうした事は殆ど聖書は記しません。サウロの言葉自体、この五節の短い一言だけです。むしろダマスカスにいたアナニヤと主のやり取りの方が詳しいのです。迫害者サウロのために祈ることに最初アナニヤは抵抗しました。そして、21節ではサウロの変貌ぶりに驚いた人々の言葉が詳しく伝えられます。サウロがイエスに出会って弟子となったということは本当に驚くべき事でした。驚くほど素晴らしいというより、俄には受け入れがたいほど常識外れでした。その事を改めて念頭に置きながら、今日はサウロの側から、来週は教会の側からお話しします。
2.「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」
イエスのこのお言葉は、サウロの生き方をひっくり返してしまう内容でした。サウロは主を恐れ、主のために律法に従って生きてきた人です。そして、田舎町ナザレの出で最後は十字架につけられて殺されたイエスを、神の子だ、主のキリストだ、復活して今も生きておられる、と信じるキリスト者、弟子たちはけしからん、神を冒涜しているとしか思えませんでした。だから、主への熱心からキリスト者を迫害してきたのです。天からの声は、そのサウルの考えが間違っていて、イエスは本当に生きておられ、神の子であり、主である動かぬ証拠でした。イエスは主であり、そう信じているキリスト教会の証しは正しかった、ということになります。
当然そのキリスト教会を迫害し、亡き者にしようと手段を選ばずダマスカスまで来た自分の行動、これまでの熱心が完全に間違っており、むしろ自分こそは神の敵、ひどい暴漢だった、という事にもなります。パウロは今の今までの自分の価値観、正義感を崩されたわけです。
でも、それだけではありません。彼が間違った熱心からキリスト者たちを迫害していたことを主は
「わたしを迫害するのか」
と言われます。ご自身を名乗るに際して
「わたしは、あなたが迫害しているイエス」
と名乗られます。イエスの宣教の邪魔をしたとパウロを非難するのではないのです。「突き詰めて言えばイエスに刃向かうことになるのだぞ」と、言わば言いがかりをつけているのではありません。本当にイエスは、弟子への迫害をご自身への暴力として受け止められるのです。人間の逮捕や拷問や処刑、追放や逃亡や難民生活、喪失や不安や恐怖やトラウマを、イエスご自身が味わい、ともに苦しみ、痛み、悲しんでおられる。
マタイ二五40「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」[4]。
こう言われるお方なのですね。サウロは主に刃向かっていたとは思っていませんでした。彼は、主が卑しくなり苦しみの十字架で自分たちのために死んでくださったなんてとんでもない冒涜を言うキリスト者は殺して当然、ひどい目に遭わせても良いと思っていました。しかし主はそのような苦しむ者、小さな者、生きる価値もないように思う者と一つになり、その苦しみをご自身に引き受けられるお方です。サウロの信仰では「神は冒涜を赦さない、神聖不可侵の神」でしたが、主は「人とともに苦しむイエス、謙りを厭わないイエス」でした。
更に、そのように勘違いしてキリスト者もイエスをも迫害してきたサウロに、主は罰や呪いや断罪をしたでしょうか。怖しい間違いを責め、償いを求めたでしょうか。いいえ、主はわざわざサウロと出会い、彼のために新しい道を示し、教会の交わりに加えてくださったのです[5]。
3.目からうろこのようなものが
サウロが三日間、真っ暗な中、何も食べずに祈りながら過ごした末に、アナニヤが来て、彼に手を置いて祈ってくれました。彼は先に
「この人がどんなひどいことをしたか」
と言ったのに17節では
「兄弟サウロ」
と呼びます。社交辞令や教会用語ではなく、文字通りの心からの呼びかけとして「兄弟」と言われた。すると、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになりました。日本語の「目から鱗が落ちる」はこの聖書の言葉から来た言い回しです[6]。本当に鱗が落ちたわけではなく、鱗のような物がです。その正体は何か分かりませんが、でも主は、パウロの目から何かが落ちるのを見せて、サウロの一新を力強く見せてくださったのでしょう。それは、サウロのためでなく、サウロの変化を躊躇ったアナニヤや回りの人間のためにも、主が彼の驚くべき生まれ変わりを見せてくださったしるしです。
「使徒の働き」一三章以降はサウロ中心に世界宣教が展開します。新約聖書には彼の手紙が十二通もあり、キリスト教教理は彼抜きには語れません。でもそれを「サウロが立派な働きをするから主も彼を救ったのだ」と考えると台無しです。パウロは手紙で言うのは、かつては神の教会を迫害し、神の敵となっていた自分が福音に仕えていることこそ恵みの証しだ。最も小さな自分が神に受け入れられ、キリストを宣べ伝えている事に、神の福音の奥義が雄弁に物語られている、ということです[7]。この15節で主はサウロを
「わたしの名を運ぶ、わたしの選びの器」
と言われます。主の名を運ぶに相応しいのは曇りなく輝くような器だろうと思いませんか。しかし主はサウロという敵、教会を傷つけてきた者、どうしようもなく暗い過去を持つ者こそ器に選ばれる方です[8]。神の恵みを知らない者、正しいと思い込んで間違っている人間を兄弟として受け入れる交わりに加えて、目から鱗が落ちる人生を下さる主です。アナニヤにとっても、敵のサウロに主が働かれ、生き方が全く変わるのを見ることは恵みでした。主はパウロだけでなく当時の教会も今の私たちの目も開いてくださいます。聖書を通し、交わりを通し、様々な恵みを体験して、聖霊は私たちが恵みを見えるよう導いてくださいます。その時、私たちは自分を立派そうに見せることも止め、欠けや傷がある自分に向き合えるようになります。他の人をも、邪険に扱って良い存在と見なさず、主に対してするように接するようになる。主は私たちに出会って、そのような新しい生き方に招きつつ、ともに歩んでくださる主なのです。
「教会の敵であったサウロの回心に、私たちの信仰の指針を示してくださり、感謝します。私たちもあなたの恵みの力で、新しくしてください。間違った正義感や良心から自由にしてください。あなたは私たちの苦しみをともにされ、この世界の痛みを担い、罪の和解のために命を差し出してくださいました。どうぞそのあなたの眼差しを私たちにも与えてください」
Rubens, Conversion of St. Paul
2017/10/01 Acts 9:1-25 A Story That Scales Drop From Eyes
Here Saul, later Paul the apostle, met Jesus to be changed, from a man with the name of the king to a man with a name which means “little, small”, from an enemy to a living witness for Jesus.
- Toward Damascus
Acts 8 began to record the first hard persecution by Saul, though 8:4-40 has other stories by Phillip. Acts 9 follows again along the persecution. Saul was an enthusiastic persecutor against all Christians (vv. 1-2). He went up to Damascus, 200km from Jerusalem, to take them back again to Jerusalem! But a sudden light from heaven knocked down him to the earth and he heard a voice (v. 4). “Saul, Saul, why do you persecute me?” He relayed, “Who are you, Lord?” (This is a really strange question, isn’t it?)
We can just imagine and guess his straggle in heart, especially three days in silence, darkness and no food (v.9). But Bible tells nothing about his psychology but just one line from his mouth. Acts focuses more in shock of all Christians, as of Ananias who is main speaker in this chapter, as same as of the people at amazement in v. 21. This conversion is so wonder-ful.
- “Jesus whom you persecute” This line from heaven was complete reversal for Saul’s life.
- Jesus of Nazareth, whom Saul and main people believed just a poor and dead man, is true God the Lord. He is living. Saul was totally wrong.
- Saul’s action toward Christian church was evil. He acted as an enemy against God and truth. His value, his sense of justice, was to be overturned. His passion did all crimes.
- Saul was persecuting Jesus. Christ suffers when his beloved was suffering. It doesn’t mean “any sin is more serious, when it is done against Christ”. Rather, any sin against a little person for you is received by God who created and loves the small one. Jesus, the Son of God has com-passion with every person under persecution, refuge, violence, and grief. See Mat 25:40. Saul believed “God is the one untouchable”, but Jesus is the one who is with us.
- Furthermore, Jesus didn’t punish Saul the enemy but lead him into a brand new life. His justice knows no revenge, but recovery by coming toward enemies by Himself.
- Something like scales from his eyes: Me kara Uroko ga Ochiru.
When Ananias came to pray for Saul with his hands on his head, Ananias called Saul “brother”. After this fellowship, something like scales dropped from his eyes. (This is one of phrases in Japanese from the Bible). We are never sure what it really was. That was a symbol for them around him; Saul was truly and wholly changed even though how unbelievable it was!
Later, he will be a main person in Acts; his mission and theology is essential for all Christian. But never say “that’s the reason why God saved him, for he was an extraordinary minister.” He himself confesses, in 1 Cor. 15:8-10; Eph. 3:7-11; 1Tim. 1:13-16, “I, once the enemy against Christ and now the servant in Him, is the evidence for His grace to show how the secret of Gospel is. His “instruments” (v.15) is not of gold, but of cray: we have our weakness and past, our misunderstanding, and sins. Church is a community to receive any person in Christ as brothers and sisters. We are on the way in the story that scales in our eyes have been dropping out on by Holy Spirit. We don’t have to show us “good Christians” because we are saved as us just like who we are; receive one another as them just like they are and Jesus is with them in deep love.
Lord, thank you for this wonderful story of You met Saul, that gives us amazing insight. Please make us renew, take out all “scales” from our eyes. Break our wrong “justice” or “conscience” or “judgement”. We praise you for you are suffering with us, receive all pains in the world, and offeres your life in the cross for a reconciliation for sinners. Make us sight of You to see everyone around us.
[1] この出来事の重要性は、二二3-16と二六4-18で繰り返されていることからも明らかです。またそこにある相違点は、出来事の字義的な事実性以上に、そこで語られているメッセージを聞き取ることを念押ししているようです。
[2] ダマスカスに多くのキリストの弟子たちがいると聞いたからでしょうか。
[3] ウォルター・ワンゲリン『小説「聖書」 使徒行伝』(仲村明子訳、徳間書店、2000年)は、使徒の働きの優れたノベライズです。この中では、サウロの回心も前後を実にリアルに描いていますので、一読の価値ありです。ワンゲリンの想像では、サウロの同行者たちは熱心な仲間であっただけに、サウロの目が見えなくなったとき、旧約聖書では、視力を奪われるのは神の裁きに他ならないはずだと、サウロを見限って去って行ってしまいます。また、弟子のアナニヤと、「まっすぐ」に住んでいたユダとの関係も、切なくもリアルに描いています。
[4] 全文はマタイ二五章31-46節「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。32そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、33羊を自分の右に、山羊を左に置きます。34そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。35あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、36わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』37すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。38いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。39また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』40すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』41それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。42おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、43わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』44そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』45すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』46こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」
[5] サウロの考えでは、神を冒涜するキリスト者は迫害してひどい目に会わされて当然。しかしキリストは、すべてのひどい目に会わされるものの苦しみをご自身に受け止められるとともに、その迫害者を苦しめて罰するより、その迫害者を新しく神の器とされ、他者のために苦しむものに変えられる。自分を迫害する者のためにも祈り、赦し、その救いを願うこと。単に、敵味方が入れ替わるだけでなく、その姿勢、関わり方、反対への対処そのものが全く異質になる。それは、パウロ自身の価値観・人格の一新でもある必要がある。「正しい」を拠り所とする生き方から、神の招き、恵み、愛に押し出される生き方へ。自分の間違い、失敗、罪を認め、他者の限界、弱さ、苦しみをも裁かない生き方へ。
[6] 『広辞苑』では「(新約聖書の使徒言行録9章から)あることをきっかけとして、急にものごとの真相や本質が分かるようになる。」とあります。
[7] Ⅰコリント十五章8-10節「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。9私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。10ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」、エペソ三章7-11節「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。8すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、9また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。10これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、11私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。」、Ⅰテモテ1章13-16節「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。14私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。16しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」
[8] パウロ自身この言葉を用いて、「土の器」と後に言うのです。Ⅱコリント四6-7「「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。7私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」
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