2016/12/25 マタイ二章1~12節「幼子を拝んだ」
クリスマス、おめでとうございます。私たちのために救い主がお生まれになりました。その素晴らしい出来事を伝えるために、当時のエルサレムに現れたのが、遠く東の国からやって来ました博士たちでした。神は常に意外なこと、人間の常識や私たちの予想を超えたことをなさるお方ですが、このクリスマスの出来事も、それを知らせた役者たちも全く意外なものでした。
1.東方の博士たち
ここに出てくる
「東方の博士たち」
がどこから来た誰なのか、詳しいことは分かりません。古くは「賢者」とか「王」と表現され、新共同訳聖書では「占星術師」と訳されるように「星占い」「魔術師」という意味もある言葉です。身分の高い人で、学識も豊かな人でしょう。東方が、パルティア国[1]のことを指すとも考えられますが、パルティアは広すぎて、そのどこから来たのかも分かりません。そもそも、「博士たち」と言えば三人と思い込んでいますが、聖書のどこにも三人とは書かれていません。もっと大人数だったという言い伝えもありますし、身分の高い人には大勢の従者が付き従っていたはずだ、と言う人もおられます。
いずれにしても、この謎だらけの博士たちがエルサレムに現れたのは衝撃的な出来事だったことは想像できます。どこから来たにせよ、東方の遠くから、何ヶ月も旅をしてきたのでしょう。色々な犠牲もあったでしょうに、それでも彼らはここまでやって来て、言うのです。
マタイ二2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
博士たちはどんな星を見たのでしょうか。また、それが「ユダヤ人の王」の星だとか、その方がお生まれになったしるしだとはどうして確信できたのでしょう[2]。様々な不可解は尚更、彼らがその「ユダヤ人の王」を拝むためだけに、東方からの長い旅をしてきた不思議を引き立てます。それだけでも、エルサレムに住む人々には強烈なインパクトだったでしょう。しかし、
3それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
当時「王」と呼ばれていたヘロデ大王は
「ユダヤ人の王」
という言葉に敏感に反応しました。自分の立場が危ないと思ったのです。また東方の博士たちの期待や礼拝に、妬みや劣等感も覚えたのかもしれません。そしてヘロデ王は早速、博士たちに協力する形を取りながら、その王の抹殺を画策します。ユダヤ人の王の生まれる場所を学者たちに尋ね、秘かに星を見た時間を聞き出します。そうして、博士たちを送り出しつつ、自分にその場所を教えてくれるよう頼みます。それは、後に明らかになるように、見つけたら拝むためどころか殺すためでした。しかし、こんな狂った王ヘロデの支配下にいたエルサレム中の人々も、王と同様に
「恐れ惑った」
というのですね。ユダヤ人の王、素晴らしい王様の到来に喜んだのではなかったのです。
2.一番小さく
エルサレムの人々の思いを、マタイは
「王と同様であった」
と記します。生まれる町がベツレヘムだと回答することが出来た宗教家たちも「では自分たちも行きましょう」とは言わず仕舞いでした[3]。なぜでしょうか。その答は、彼ら自身の答の中に感じ取れるかも知れません。
6『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
ベツレヘムの町は、わざわざ
「決して一番小さくはない」
と言われるように、小さな、取るに足りない村でした。そのような小さな村が、キリストの出身地となる、というのです。これはこの時だけではありません[4]。この先にも、イエスがいつも低くなり、小さい者を大切になさり、
「最も小さい者のひとり」
を大事にされることが、マタイの福音書には繰り返して書かれているのですね。五章から七章の、有名な「山上の説教」の始まりも、
「心の貧しい者は幸いです。天の御国は彼らのものだから。」
という言葉です。心の貧しい者、小さい者、田舎者、余所者…そういう者の所に、ユダヤ人の王であるキリストはおいでになります。エルサレムや王の宮殿、豊かで綺麗で華やかな場所ではありません。低い者、顧みられない所、貧しく、悲しみや痛みの覆っている場所に、キリストはおいでになって、そこに天の御国を始めてくださるのです。
もしキリストが、軍馬か天馬にでも跨がってヘロデを打ちのめす、そういう颯爽としたヒーローのような現れ方をする、というなら、人々はもっと単純な反応をしたかもしれません。でも、そうではありませんでした。キリストは、小さく卑しくなられました。その礼拝をしに来たのも、神の民の正統な代表者ではなく、異邦人の怪しい博士たちです。だから彼らは戸惑ったのでしょう。キリストの誕生は、喜びより恐れや戸惑いを引き起こしました。既成の人間社会の根底を揺るがせるような出来事でした。私たちが思い描く幸せとか豊かさをひっくり返す革命的な登場でした。この予想外の神の低さ、革命的な無力な登場に人は戸惑い抵抗します。しかし、その抵抗や目論見の後に、神はひょっと希望を輝かせて待ち構えて下さるのですね。
9彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
3.幼子を見、ひれ伏して拝んだ
エルサレムから出て来た博士たちを、再び現れた東方で見た星が、幼子の所まで導いてくれました[5]。思いもかけない導きがありました。神の御支配が、意外な形で確かにありました。
10その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
11そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
ひれ伏し拝んで、尊い宝物を献げて、翌日には帰って行きました。神がすべてを導かれて、私たちを祝福してくださるとは、私たちの願いや憧れが何でも不思議に叶えられる、という意味ではありません。博士たちは、願いごとをしたり、魔法の道具を戴いたりするために来たのではないのです。将来の王がお生まれになった。やがて全て低い者、悲しむ者、罪人を治めてくださる。なんと有り難いことか。しかも、都エルサレムではなく、最も小さいと言いたくなるようなベツレヘムの片隅でおられた。そのお姿にますます有り難がって、衣が汚れるのも厭わずにひれ伏して、拝んだ。その一途な姿に、礼拝の原点というものを見る気がするのです[6]。
イエス・キリストは王としてお生まれになりました。でも、まだヘロデや人間的な歪んだ力のほうが強いように見える現実があります。私たち自身、豊かさや安全に憧れます。悲しみや障害、面倒や失敗は避けたり隠したり、遠ざけたがります。そうした予定外のものがあると、神なんか何だ、クリスマスなんて気分じゃないとふて腐れるのです。クリスマスが示すのは、そのような問題がある世界にこそ、イエスは来られ、働かれ、恵みで治めたもう、という約束です。私が自分で自分の心を治めきれず、愛やあわれみから離れた思いに囚われていようとも、本当の王であるキリストは弱い姿をとってそこにおられます。小さな星を輝かせたり、この上ない喜びに踊る心を下さいます。今はまだ、恵みの神ならぬものに囚われている私たちも、このイエスこそ王であることに希望を持てます。なぜならイエスこそ、王であって、私たちを恵みによって治めてくださる方だからです。この方以外の何者も、世界や私たちを支配してはいません。この幼子イエスが今私たちを治め、この方の恵みがすべての人間の営みを新しくするのです。クリスマスはそのような約束です。そのような不思議を本気で信じるのが私たちです。なぜなら、博士たちが持ってきたのは、まさにそんな信じがたい話だったのですから。[7]
「小さな町にお生まれになった主よ。あなたのなさることは本当に意外です。私たちの人生もあなた様は意外な形で導かれ、人の浅はかな思いを覆し、更に力強い喜びへと招き入れてくださいます。御降誕を祝いつつ、恐れ惑わず、あなた様の御支配を心から受け入れさせてください。イエスの深い憐れみが全てを新しくする日を待ち望み、あなた様の証しをさせてください」
[1] 広辞苑より「パルティア【Parthia】 (1)古代西アジアの王国。イラン系遊牧民の族長アルサケスが、前3世紀中葉セレウコス朝の衰微に乗じて、カスピ海の南東岸地方に拠って独立。226年(一説に224年)ササン朝に滅ぼされた。中国の史書では、安息国と記す。アルサケス朝。パルチア。(前238頃~後226) (2)前1世紀~後1世紀頃、現在のアフガニスタン南部・東部、パキスタンを支配していた王朝。」
[2] ここには、旧約時代の最後に「バビロン捕囚」によりイスラエルの民がバビロンに連れて行かれ、逆にユダヤ人としてのアイデンティティを確立し、聖書(旧約聖書)正典の編纂と教育を行うようになった歴史が絡んでいるのでしょう。バビロニア帝国が、ペルシャ帝国に駆逐されて、捕囚の民の一部が帰還した後も、大半は東方に住み続けました。聖書のタルムードも「バビロニヤ・タルムード」が成立するぐらい、ユダヤ教の中核的研究が続くのです。こうした影響で、東方の博士たちが、<ユダヤ人の王であり世界の平和の主がやがておいでになる>との預言に触れていたことは十分考えられますし、最も筋の通った説明として想定できます。
[3] 明らかにこの態度は、次に彼らが登場する三7、五20(「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」)、九3、そしてそれ以降、裁判や十字架へと至っていく伏線を予感させています。
[4] 例えば、この二章の最後に出てくるのも、キリストがガリラヤのナザレという田舎で過ごされたことであり、23節では彼が「ナザレ人」と呼ばれることも聖書の預言の成就だと言われています。ナザレ人という言葉が出てくる、というよりも、田舎者として馬鹿にされ蔑まれるという事でしょう。
[5] この記述からすると、東方で見た星は、この時点で再び現れて、彼らを照らしたというつながりです。旅の間中ずっと彼らを導いてエルサレムにまで来たわけではありません。同時に、その星は、東方で見た星と同じ星だと同定できる特徴がありましたし、最後のこの9節では彼らを導いてくれたのです。これが、ベツレヘムの方向で、彼らが教えられたベツレヘムまで旅をする間、ずっと先にあったのか、あるいは、ベツレヘムへの情報がなくとも星が彼らを不思議にも先導したのか、は定かではありません。しかし、マタイはここで、星が先導した、という表現をしています。
[6] 新共同訳聖書は「占星術の学者たち」と訳しています。「占い師」という意味にはキリスト教信仰からすると抵抗も感じますが、占い師や異教徒よりも自分たちの方が正しいと思い上がっている神の民が、意外な人から本当に大切な信仰の姿を教えられて、ガツンとやられる、というのも聖書には頻出するモチーフです。
[7] ボンヘファー「これらのことはすべて、ひとつの「言い回し」の問題なのであろうか。美しい、敬虔な言い伝えの牧歌的な誇張なのであろうか。-そうではない。これを単なる言い回しとしてしか理解しようとしない人は、わざとそうしているのであって、その人は、ほんとうは、アドベントを今までと同じように、異教的に、自分は決してアドベントの出来事に参与せずに、祝いたいだけなのである。われわれにとって、これは、決して言い回しの問題ではありえない。なぜなら、すべてのものの主であり、創造主である神御自身が、ここで、小さな者となったのであり、この世のみすぼらしさの中に歩んで来たのであり、われわれのうちで無力な幼子となったのだからである。そしてさらに、これらすべてのことが、われわれを美しい物語で感動させるために起こったのではなく、<神が人間的な高みにあるすべてのものを撃ち砕き、その価値を無にし、低いところに神の新しい世界を造ろうとしている>ということをわれわれに気づかせ、そのことにわれわれが驚き、われわれが喜ぶようになるために起こったのだからである。」(『主のよき力に守られて』、625ページ)
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