聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/5/24 マタイ伝7章6~11節「マルガリータ」

2020-05-23 09:38:48 | マタイの福音書講解
2020/5/24 マタイ伝7章6~11節「マルガリータ」
 「マルガリータ」と聞いて思い浮かべたのは、カクテルか、ピザのマルゲリータか、マーガレット(ヒナギク)の花や女性でしょうか。美味しいもの、美しい花や女性の名前です。
6聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。
 今日の6節「真珠」がマルガリテースというギリシャ語です[1]。イエスは「聖なるもの」を、「真珠」と言い換えました。「マルゲリータを豚に与えるな」だと、もっと印象が変わります。
 このマタイ5~7章の「山上の説教」は、神の国がどのようなものかをずっと語ります。私たちの心に、天の神を父とする生き方を力強く描き出します。地の塩、世の光として生きる。敵を愛し、迫害する者のために祈る。見せかけを作らず、隠れた所で見ておられる父の前に正直に生きる。思い煩わず、人も自分も裁かない。そういう生き方が「神の国」です。イエスが示している生き方は、決して簡単でも優しくもありません。でもそれは美しい生き方です。真珠のように尊く、輝いている生き方です。それを求めなさい。神の国の民として生きる事を、諦めたり、投げ出したりするな。それが「聖なるものを犬に与えてはいけません。真珠を豚の前に投げてはいけません」と聞こえるのです。あなたがたは、真珠を持っている者だ。もう一歩踏み込むと、私たち自身が「聖なる者」「真珠」と言われているとも言えます。

 話をマルガリータに戻します。カクテルもピザも、真珠みたいだ、とかヒナギクみたいだ、と名づけられたのではなく、もうワンクッションありました。それはマルゲリータという名前の女性なのだそうです。特に、ピザのマルゲリータはイタリアの王妃マルゲリータ[2]に献げられてこの名前で知られるようになった。とても素晴らしい活躍をした王妃で、国民にも人気の高かった王妃だそうです。真珠と呼ばれる女性がいて、その名にちなんだ料理や飲み物が世界に広がったのです。王妃以外にも、子どもに宝石の名前やキラキラネームをつけるのが親です。
王妃マルゲリータ・ディ・サヴォイア=ジェノヴァ

 王妃と言えば、先に6章29節30節でイエスは
「栄華を極めたソロモン」
真珠や金や宝物を身につけたソロモンも、野の花の一つほどには着飾れなかった[3]。神はその野の草以上に、あなたがたに良くしてくださらないことがあろうか、と言われました。また、26節では、天の父にとってあなたがたには大きな価値があるとありました。神は私たちの
「天の父」
となることを厭わず、私たちに養いも装いも惜しみなく喜んで与えてくださいます。その惜しみない恵みに気づいて、私たちも人を尊く見る。祝福する。自分をも他者をも大切にし、神の恵みに支配された生き方を求める。その言葉を聞きながら、「どうせ私なんか、そんな生き方は無理」と投げ出してしまうことを
「聖なるものを犬に与えてはいけません。真珠を豚の前に投げてはいけません」
と言われている。聖なる神は、私たちの父となり、私たちを子どもとして受け入れ、養い、神の国の民として成長させてくださいます。聖なる心を求めるべき価値がある存在、真珠や宝石を持つわが子。先週、徳島の新参者の教職者会で
という賛美を歌いました。私たちは、花を秘めた種や球根。白鳥になる前の「みにくいアヒルの子」です。だから、父なる神の憐れみが私たちの生き方となるように、神の恵みに生きることを、投げ出さず求めなさい。それが6節で、驚くほどの表現で私たちに突きつけられるのです。
 次の7節はもっと明白です。
「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」
 11節では
「良いものを求める」
と言われます。6章31~33節では、何を食べよう、何を飲もう、何を着ようという求めは、神の父としての配慮を知らない異邦人のようだ。あなたがたは神の国と神の義を求めよ、と言われていました。神の国と神の義に優る「良いもの」はありません。それを求めよ、なのです[4]。
 私たちは日本にいながら神の国の民です。神の聖なる恵みに満ちた御支配を信じ、恵みを受けた私たちも人を大切にし、さばかず、祝福するように招かれています。神は私たちを大いに価値がある、わが子と見てくださっています。王や王妃に等しいと、宝や良いものや、美味しいものや笑いを惜しまずに下さっています。その、神の子どもとしての相応しい生き方、「良いもの」、神の国とその義を求めなさい。神が与えたいと願っている、愛する心、赦す心を求めなさい、なのです。だから、次の
12節「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」
と続くのです。
 こういう生き方を求める。神がそのような心を願えと仰り、求めるなら必ず下さると信じて、求めているでしょうか。この良い心を求めましょう。そうしたら、神は時間をかけてでも与えてくださらないことがあるでしょうか。それほどの期待を持って生きて良い。それに気づかされていく時、他にも、願いや求めを何でも躊躇(ためら)わずに祈る大胆さも持てるようになります。その願いそのものが叶わないとしても、もっと大きな私たちは神に愛されている者として生きていくことが出来ます。聖なるもの、真珠、それは私たちのことです。神の宝とされた者です。その価値に相応しい心、自分をも人をも貶めずに愛する生き方を祈り求めましょう。[5]

「私たちを宝石のように愛したもう天の父よ。あなたが私たちを愛し、良いものをくださることを感謝します。真珠や王妃のように私たちを尊び、愛によって飾ろうと、願ってくださる。その恐れ多い言葉に目覚めて、求めさせてください。あなたの願いは、人の思いを超えて大きいのです。栄光の御国への旅路である今ここで、私たちを恵みの器としてください。赦しと愛を信じさせてください。和解と希望を取り次がせてください。感謝と祝福を語らせてください」



脚注:

[1] 7章6節「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。」ここから「豚に真珠」というすっかり日本語になっている諺が生まれました。
[2] マルゲリータ・マリア・テレーザ・ジョヴァンナ王妃(1851-1926)。https://locotabi.jp/kaigaizine/flower-italy

[3] 真珠は旧約の時代にすでに多用されていますから、ソロモンも飾りとしていたことは十分想像できます。ヨブ記28:18「珊瑚や水晶は言うに及ばず、知恵の価値は真珠にもまさる。」、箴言3:15「知恵は真珠よりも尊く、あなたが喜ぶどんなものも、それと比べられない。」、8:11「知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これとは比べられないからだ。」、20:15「金があり、多くの真珠があっても、知識の唇こそ宝の器。」、31:10「しっかりした妻をだれが見つけられるだろう。彼女の値打ちは真珠よりもはるかに尊い。」

[4] これも日本語に定着して、「何でも諦めずに求め続ける」ことを説く時に使われます。しかし、ここでの文脈で言われているのは、神の国と神の義を求める、という一貫したテーマです。

[5] 出エジプト19:5「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」、申命記7:6「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。」、14:2「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。」、26:18「今日、主は、あなたに約束したとおり、あなたが主のすべての命令を守り主の宝の民となること、」、詩篇135:4「主は ヤコブをご自分のために選び イスラエルを ご自分の宝として選ばれた。」、マラキ書3:17「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の主は言われる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」、Ⅱコリント4:7「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」、
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