2017/9/10 ハ信仰問答87「もったいない生き方」1コリント6章9-11節
この夕拝では私たちの教会の伝統にある「ハイデルベルグ信仰問答」から信仰の基本をお話ししています。前回からキリスト者の生活についてお話ししています。
問87 それでは、感謝も悔い改めもない歩みから神へと立ち帰らない人々は、祝福されることができないのですか。
答 決してできません。なぜなら、聖書がこう語っているとおりだからです。「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」
この問はとても率直だとも言えます。善い行いが要らないなら、神に悔い改めなくても祝福を下さってもいいではないか、そういう疑問やケチをつける思いは人間の中にあるのだと思います。神が愛の神だというなら、どんな人間をも裁いたりせずに救ってくれればいいじゃないか。人を罰したり、良い人しか天国に入れない神なんて、ひどい神だ。そういう言いがかりをつけてくる人は多いのです。けれども、
「感謝も悔い改めもない歩みから神へと立ち帰らない」
人が祝福だけ願うなんて、矛盾していますね。
「感謝も悔い改めもない歩み」
から
「神へと立ち帰る」。
実はこれが、キリスト教のいう「救い」であり「祝福」であり「ゴール」なのです。ただ自分にとって幸せなものや楽しいこと、したいように生きることが「祝福」なのではありません。神に背を向けたまま、自分に欲しいものだけを神がくれればいいのだ、と思い上がっている。それ自体が本当に惨めな生き方なのではないでしょうか。この世界をお造りになったのは神である主です。イエス・キリストの父なる神です。この神が世界をお造りになり、私たちを造られ、いのちも個性もすべての必要も与え、特別な使命やご計画をそれぞれに与えておられます。その大きな神様のご計画の中に人間がいるのです。そこで人間に与えられたのは、神の栄光を現す、素晴らしい御命令です。本来、善い行いは、神が人間に託してくださった、かけがえのない使命なのです。
けれども人間は神に背いて、神から離れてしまいました。神に感謝もせず、自分の非を認めることも出来ない、惨めな生き方になってしまいました。そして、神に帰る代わりに神ではない色々なものによって自分を満たそうとしています。それが、
Ⅰコリント六9…だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、10盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。
と上げられている例のリストですね。不品行や姦淫は、夫婦ではない相手と、夫婦のような体の関係を持つことです。偶像(神ではないもの)を礼拝するのが偶像礼拝です。男色は、男同士で体と体の関係になること、またそれを商売にするのが男娼です。盗む者、泥棒する者ですし、略奪はもっと強引な奪い取り方です。貪欲は、欲張りで強い欲しがりの思いです。酒に酔う者は、お酒でベロンベロンになって、回りに迷惑をかけるのも顧みない人。偶像は直接神に対する罪ですが、あとはどれも、人を騙したり、人との関係を壊したり、家族を大事にしない事ですね。
「そういう人は神の国を相続することが出来ない」
と言われていますが、この世の国や身近な生活も、こういう行為はお断りであることばかりです。でも、注意して下さい。一度でもそういう事をした人は、神の国に入れない、ということではありません。この直後にこう言われています。
11あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。
これはすごい言葉ですね。このコリントの教会には、以前は、不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼、男色、泥棒、酔っ払い、略奪する者だった人たちが集まっていた。でも、そういう大きな罪を犯したからダメだ、ではありません。そういう人たちがイエス・キリストの救いに与って、聖霊によって洗われ、聖なる者とされた、というのです。素晴らしいですね。でも、先の言葉をもう一度読むと
「だまされてはいけません」
ともありましたね。そしてこのような注意を受ける事自体、この人たちの中に、また不品行をしようかな、男色をしてもいいんじゃないかな、泥棒や大酒も構わないじゃないか。そう考えたり、そうしてしまったりするところがあったのですね。この手紙を書いたパウロは、その人々に言います。
「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」
主イエスの恵みを思い出させます。かつては不品行や好き勝手な生き方をして、関係を壊していた生き方から、私たちの神である主が私たちをきれいにしてくれ、聖なる者としてくださいました。今ここでも、人間関係を壊したり、裏切ったり、欲しがって妬んだりする醜い生き方ではなく、神の子どもとして生活して、回りの人と関わって、家族が育っていくような、そういう歩みを下さるのです。ただ将来天国に行くとか、今何をしても最後には救われるとか、そんなつまらない恵みではなく、今ここで、神の子どもとして、神に対しても人に対しても、誠実で正直で、喜びに満ちた生き方を一歩一歩進むのです。それでもまだ、罪を犯して、騙されて神の子らしからぬ行動をしてしまうような私たちです。でも、そのような私たちをそのままに放り出すのではなく、私たちを何度でも洗い、聖なる者としてくださり、義としてくださる。そこでまた私たちは何度でも立ち上がって再出発が出来ます。そして、回りの人にも、希望や慰めとなることが出来ます。
まだ途中ですけれども、神は私たちにそういう救いの道を、聖とされた者の旅を下さいました。それを押しのけて、「このままでいいのだ、生きたいように生きて何が悪いのだ」と言うのは、神との関係そのものを踏みにじることです。それは全く勿体ない生き方です。神の下さった大きな祝福を蹴りつける台詞です。神への感謝も悔い改めもしないとは、神との関係という救いそのものを拒むことです。神はご自身の子として新しい生き方を下さるというのに、人間の方でそれを拒み、救われたくないと言う。それが神から離れた人間の姿ですね。そういう恵みを踏みにじるような勿体ない生き方ではありません。神が今ここで下さる、感謝と賛美、人に対してもそこに神の国が始まるような、そういう大きな救いの恵みであることを確認したいと思うのです。
「私たちの主は、私たちの欲望が強すぎるどころか、むしろ弱すぎると思っておられるかのようです。私たちは万事に中途半端です。限りない歓喜が約束されているのに、酒や、性(セックス)や、野心に酔い痴れて、浮かれ回っているのですから。まるで海辺で一日を過ごさせてあげようと誘われた子どもが、それがどんなにすばらしいことか想像もつかずに、それより、このままスラム街で泥んこ遊びをしていたいと言い張るようなものです。」(C・S・ルイス、『栄光の重み』)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます