2019/9/8 Ⅰコリント11章23~26節「食卓への招待」はじめての教理問答137~140
教会の大事にする儀式、「聖礼典」についてお話ししています。先週まで、「洗礼式」についてお話しして来ました。今日は「聖餐式」についてお話しします。
問137 聖餐式では、どのようなしるしが用いられますか?
答 パンを食べぶどう酒を飲み、イエスさまの苦しみと死を思いおこすというしるしが用いられます。
問138 パンはなにを表しますか?
答 わたしたちの罪のために犠牲となったキリストの肉を表します。
問139 ぶどう酒はなにを表しますか?
答 わたしたちの罪のために流されたキリストの血を表します。
聖餐式は、パンとブドウ酒をいただくことを通して、イエス・キリストが苦しみを受けて死なれたことを思い起こすのです。先に読まれたⅠコリント11章の通りです。
Ⅰコリント11:23主イエスは渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」25食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。
イエスは、十字架にかかる前の晩、食事の席でパンを裂き「これはあなたがたのためのわたしのからだです」と言われ、ぶどう酒の入った杯も取って「この杯は、わたしの血による新しい契約です」と言われて、これからも弟子たちがイエスの死を覚えながら、パンを裂いて食べ、杯を分けて飲むようにと命じたのです。
この絵をみて分かるように、パンと言っても、お煎餅みたいです。当時は今のようにフワフワなパンはありませんし、ましてこの時のお祭りでは、膨らまないまま焼く「種なしパン」でした。そして、それをイエスは手で裂いて、一人一人に違う形のパンを渡したのです。でもそれが、イエスの死を表しました。まもなくイエスは十字架にかかります。釘や槍でイエスの体は傷つけられました。それ以上に、イエスはご自分のいのちを私たちに与えてくださったのです。一つのパンを裂いて分けるように、イエスはご自分を私たちに与えてくださいました。イエスは私たちに命を下さいます。今私たちが生きているのも、神の御業ですし、神は私たちに、ただ生きるだけでなく、豊かな命を下さる方です。いいえ、神ご自身の命によって、私たちを生かしてくださるのです。イエスが私たちを愛して、ご自身の命を与えてくださいました。私たちが罪の報いとして死に向かって進んでいたのを、イエスは私たちのために自らが死ぬことによって、引き受けてくださいました。パンは、イエスが私たちのために死んでくださった十字架の記念です。また、私たちが本当にイエスからいのちを戴けることを、パンを取って食べて味わうことで実体験させて戴くのです。そして、自分一人だけではなく、私たちがお互いに、一つのパンを分け合う仲間、イエスという一人のお方の救いに与る、一つの仲間であることを覚えるのです。その事を覚えさせたくて、イエスは聖餐式を定めてくださいました。尊い御自身を、薄っぺらいパンに託して、これがわたしのからだだ、わたしを覚えて、これを行いなさい、と言われたのです。
もう一つは葡萄酒の杯でした。私たちの教会では、ぶどう酒(ワイン)ではなく、葡萄ジュースを使います。イエスの時代、ワインは水代わりの薄いものでした。水をそのまま飲む方がお腹を壊すので、ぶどう酒で殺菌したものを使っていたのだそうです。ですからイエスが「わたしの血による新しい契約です」と仰ったのも、今のような酔っ払うお酒ではないし、高級なワインで盛り上がったのでもありません。ところが、教会ではワインはイエスの血を表す恭しいものなのだから、と高級な葡萄酒を造る技術を開発して、どんどんアルコールの強いお酒が造られるようになっていきました。一方で、葡萄はすぐに発酵してしまうので「葡萄はワインにしかならない」とずっと考えられていました。でも礼拝には子どももいます。お酒に弱い人、アルコール依存症の方もいます。そういう人にはワインは困ります。「アルコールなしの葡萄の飲み物も出来ないか。教会で、アルコールの入らないワインで聖餐式が出来ないか」と考え出されたのが、アメリカでウェルチさんが造った葡萄ジュースなのだそうです。ですから、私たちの教会でも、安心して葡萄ジュースを使って、聖餐式をしています。
ワインかジュースか、よりも大事なのは、一つの杯です。イエスは杯を指して「この杯は、わたしの血による新しい契約です」と言われました。イエスが私たちのために血を流されたのは、私たちに新しい契約を下さるためでした。それは、主にあって一つとされるつながりです。イエスが主の食卓に私たちを招かれ、一つのパンを食べ、一つの杯をのみ、一つの食卓を囲む。それこそ、主が覚えさせてくださる新しい契約なのです。
もともと主の聖餐式は、一つの杯を回し飲みしていました。今でも、一つの杯から回し飲みしている教会もあります。次の人に回す前に、自分ののんだ所を布で拭いています。でも、それでも嫌だという人も多くなって、今は小さな器に分けています。それはそれで無理は出来ないのですが、本当は一つの杯を分け合い、一つのパンを分け、一つの食卓に着く。自分だけでなく、あの人もこの人も、苦手な人も言葉が通じない人も、皆がイエスの食卓に一緒に招かれて、神との交わりに入れられている。その大きな恵みの契約に入れられていることを覚えるのが、主の食卓を囲む聖餐式なのです。
問140 聖餐式にあずかるのはだれですか? 答 罪を悔い改め、キリストに信頼し、神の子にふさわしい生活を送り、教会において信仰を告白したものです。
私たちは今まだ、罪を持っています。神の御心に反し、人や自分を傷つける罪の中に生きています。ですから罪を犯さないことは出来ません。神の子にふさわしい生活とは、罪がない立派な生き方ではありません。神の子に相応しい生活とは、悔い改めと信頼です。イエスの前に正直で、罪を正直に認め、お互いにも赦し合い、主の食卓を真ん中において行く生活です。それを覚えるためにも、教会の中心には、主イエスの食卓があります。礼拝とは、この聖餐式が中心にある時間です。イエスの食卓に私たちが一緒に招かれている。パンと杯がなくても、聖書を通し、賛美や説教を通して、有り難い恵みを一緒に戴くのです。そうして神を賛美して、命を戴き、派遣されて行くのです。
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