聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

「礼拝⑧ 幸いへの招き」詩篇一篇

2017-01-08 20:45:44 | シリーズ礼拝

2017/1/8 「礼拝⑧ 幸いへの招き」詩篇一篇

 昨年後半から「礼拝」について改めてお話しして来ました。その中でもお話ししたとおり、私たちは「礼拝共同体」だからです。今日から礼拝のプログラムそのものから何回かのお話しをします。今朝は、礼拝の始まり、「招詞(招き)」から始まる礼拝である恵みを確認します。

1.神の恵みによる招き

 私たちの礼拝は、司会者の挨拶と前奏、そして「招詞」を司会者が朗読し、祈る、という始まり方をしています。どれも大切な要素なのですが、この最初に「招詞(招きの言葉)」があるという事に、キリスト教の礼拝のユニークさがあるでしょう。神が私たちを礼拝に招いてくださったのです。私たちが集まりたくて集まって、礼拝と称した集会をする宗教もあるでしょう。神が呼んでもいないのに神のもとに押しかけて、迷惑も顧みずに願い事をする、という形もあるかもしれません。しかし、礼拝の最初に「招詞」を聴くことは、私たちの礼拝が、私たちの都合やアイデアや押し売りではなくて、神が集めてくださった礼拝であるという確認をすることです。神は私たちの礼拝を求め、主催し、喜んでおられます。神は、私たちがここに集まり、讃美を歌い、祈りを捧げ、御言葉によって養われることを願ってくださるのです。

 招待状をもらって嬉しい思いをしたり、招待されなくてガッカリしたりした事はありますか。抽選で当たっても嬉しいでしょうが、指名されてのご招待ならもっと嬉しいでしょう。でもパーティやイベントに招待されても、心配性の人は受付に行くまでドキドキするでしょう。「こちらの招待状は間違いです」と言われるんじゃないか。場違いな所に来たんじゃないかと考えるかもしれません。神を礼拝するとは、どのようなレセプションや大イベントにも勝って、光栄で喜ばしいことです。そこへの招待状を私たちは戴いたのです。抽選でも間違いでもなく、神が私たちを招かれました。そして、途中で摘まみ出されるんじゃないかという心配なく、神の礼拝の民とされているのです。私たちがここにいる根拠は、その神の招きにあるのです。

 それは、この日曜の聖日礼拝だけではありません。この時間だけではなく、私たちの全生活が神との交わりであり、神の栄光を拝して讃美を捧げる礼拝なのです。神はいつも私たちを呼ばれます。聖書には、この神の招きが満ちています。「招く・召す・呼ぶ」という言葉は百回以上出て来ますし、今日読みました詩篇一篇のように

「幸いなことよ。」

と始めることで、招きかけることばも数えきれません。聖書そのものが、私たちに、神を神とせよ、神を礼拝せよ、と呼びかける恵みに満ちています。そもそも「教会」という言葉の元々のギリシャ語「エクレシア」は「呼び出された」「召し出された」という意味です。私たちは、神の、この上なく尊く素晴らしい招きによって、礼拝に集められ、教会とされている民なのです。

2.招く神、拒む人

 神が私たちを招かれるということは聖書を通してハッキリ分かります。これが分かるまでは、礼拝を考えるのも自分たちが集まっているから礼拝をしているのだと考えたり、礼拝に来ない人を裁いたり、礼拝に来る人をも「あの人は相応しくない」などと裁くことにもなります。ですから、私たちが礼拝をまず、神の招きに根拠があると知ることはとても大切です。

 そしてそれに気づくと、聖書のメッセージそのものも分かるかもしれません。神は招いてくださるのに、人の方がつれなく、不遜にもその招待を断ったり無視したり逃げたりする、という事実です。神の折角のお招きを、自分のしたいことがあるからと無下にもやり過ごすのです。それが人間の中にある思いなのです。神を礼拝するよりも自分の好きなことをしていたい、という実に不思議で妙ちくりんな考えをするのです。つまり、神ではないものを神以上に礼拝してしまう、という事です。しかしこれもまた、忘れてはならない大事なポイントです。

詩篇一1幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、
あざける者の座に着かなかった、その人。

 2まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

 3その人は、水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

 この詩篇は、主の教えを喜びとし、いつもその教えを口にする生き方へと招いています。それは時が来ると実がなり、その葉は枯れることがない、瑞々しく豊かな生き方です。しかし、その切り口は、悪者の謀(はかりごと)や罪人の道、嘲(あざけ)る者の座という反面からなのですね。幸いを語るだけでなく、悪者の道に幸せがあるかのように考え違いしてしまうのが人間です。神を神として礼拝する、という一番肝心なことを抜きにして、幸せだけ手に入れて済ませたい。神を神とせず、自分を少しでも神と等しくしたい。自分を明け渡したくない、神に降参したくない。神の招きをはねつけてしまうのが人間です。そして、そこで、神ならぬものにないものねだりをして空回りし、もがいたり迷ったりしてしまっているのです。しかし、そういう人間を御自身との交わりに戻って来るよう招かれ、招きに応えることが出来なかった私たちに、礼拝への思いをも下さり招きに応えさせてくださるのが、イエス・キリストの神なのです。

3.神の招きの幸い

 神の招きに応えられない人間に、招きに応える思いを神は下さいます。とはいっても、それはプログラムを変更するように、自動的に招きに応えるようになる、というような意味ではありません。愛である神は脅迫や強制的に私たちが礼拝をすることを望まれません。自動的に応えられるようになるから応えた、と応答では意味がないのです。もっと深く働きかけ、心から神に立ち帰るような応答をさせてくださるのです。今日第二週の招詞を思い出してください。

マタイ十一28-30すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

 イエスは私たちの疲れをご存じです。重荷を負う辛さを深く知って憐れんでおられます。だからわたしのところに来なさい、わたしが休ませてあげます、わたしと軛(くびき)をともにして歩み、わたしから学ぶことによる安らぎを約束してくださいます。この他にもイエスは、人の痛みや問題を見据えた上で呼びかけられ、御自身との交わりに招き入れられます。イエスの招きは、私たちの生活の現状や喜怒哀楽とは無関係な招きではありません。私たちの必要や求めを本当に深く知り、私たちを憐れみ、心にかけ、支えようとしてくださるお方の招きです。私たちの事をよくよくご存じの上で、私たちを御自身の祝福に招待してくださるのです。

 何よりもこの招きは、イエス御自身の十字架と復活というメッセージで届けられています。神は天の玉座から動かずに礼拝へと呼ぶのでなく、私たちのために、神の子イエス御自身が人となってこの世界に来られ、十字架の苦しみさえ受けて、いのちを与えてくださいました。そのメッセージに私たちは心を揺さぶられます。イエスの十字架と復活は、尊い犠牲さえ払って神が私たちを招かれている証しです。また、私たちのどんな罪や過ちや問題をも、このイエスの十字架と復活のゆえに赦されて、神を親しく礼拝し、礼拝の民に入れて戴けるのです。

 礼拝の招詞は、神が私たちを招かれた恵みを思い出させます。礼拝への思いを引き締め、謙虚にします。同時に、神がこの私を喜んで招いて礼拝させてくださる特権に心を高く上げてくれます。この礼拝の時だけでなく、私たちの全生活もです。様々な出来事や浮き沈みがあるとしても、主を仰いで、主とともに歩む幸いに招き入れられた恵みを思い出させてくれるのです。

「主よ。今日私たちがここにあるのはあなた様の尊い招きによる事です。招きの言葉を通して、心を高く上げてください。どんな楽しみよりも心躍る思いで、あなたを礼拝する幸いを喜ばせてください。あなた様が御子イエス・キリストの命によって与えたもう祝福を、毎日の生活の折々に気づかせてください。私たちの礼拝と生活を通して、主の深い恵みを現してください」

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