2017/2/5 「礼拝⑪ 御名があがめられますように」エペソ一章3-6節
主イエスが私たちに教えてくださいました「主の祈り」をお話ししています。前回は、呼びかけの
「天にいます私たちの父よ」
という言葉の素晴らしさを分かち合いました。それに続くここには六つの「願い」の本文を、今日から見ていきたいと思います。
1.第一の願い
六つの願いですが、まずはその順番に注意してください。
「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」。
この「御」とは「あなたのお名前、あなたの国、あなたの御意志」という意味での丁寧な言い方です。つまり六つの願いのうち前半は、神の名前、神の国、神の御意志のことを願うのです。自分の事は後半です。自分の事を祈るなというのでも祈るのが悪いわけでもありません。ただ、その前にまず祈るのは、神の御名のこと、神の側のこと。そうイエスは教えてくださいます。
私たちの祈りはどうでしょうか。自分たちのこと、自分の願い事から始まっていることが多いのではないでしょうか。「主の祈り」はその逆です。まず神の御名を崇めるのです。勿論、それは祈る順番の事だけではありません。まるでお世辞か社交辞令のように、まず神を持ち上げ、へいこらして、それから自分の事、本当の願いを祈ればいい、そういうことでは決してありません。祈りとは私たちの願い事を神に申し上げることです。願ってもいないことを口先だけで祈っても、それは神の前に喜ばれることはありません。イエスが教えられたのは、祈り方の作法ではなく、私たちの願いそのものをひっくり返してしまわれる祈りでした。
主イエスがこう教えてくださらなければ、私たちの第一の願いは何でしょうか。自分のことでしょう。言わば、「自分の名」です。自分の名前がどんな風に人の口の端に上るのか。馬鹿にされ笑われてではないか。尊敬ややっかみや賞賛だったら嬉しい。そんな自己中心、自分が第一になって生きています。イエスは言われます。
「あなたがたの願いを、まず自分ではなく、まず神のことを願うように変えなさい。わたしはあなたに、自分の願いを叶えてもらうための祈りではなく、あなたの願いや生き方そのものを、神を神とするものに向けよう。神を正しく知るならば、自分中心の生き方そのものが変わってしまう。わたしがあなたがたに与えるのは、自分が第一でなく、神の国を第一の願いとする生き方なのだ。」
それがイエスの教えられた、「だから、こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」という主の祈りです。私自身、自分の事や人からどう思われるかにすぐ囚われてしまいます。主の祈りを祈る度に「ああ、そうだ。あれやこれやではなく、自分の願いや名誉でもなく、主の御名が崇められますように」と軌道修正をさせてもらってきました。これは自分の事ばかり考えて雁(がん)字(じ)搦(がら)めになる私たちを救い出してくれる祈りです。
2.御名の聖さ
ところで
「あがめる」
とは
「聖とする」
という意味です。「聖」とは全く汚れがなく清らかであることは勿論、一切の邪心や私利私欲や自分本位のものさえないことです。ですから、神の御名を「聖」とするというのは、ただ私たちが神を口先で崇め立て、褒めちぎるということではありません。その御名の持ち主である神御自身が、本当に聖なるお方だからこそ、その御名を聖とすることが相応しいのです。神は、罪や汚れは勿論、人間のような自分本位とか限界とか、裏表や約束破りなどの一切ないお方です。感情で怒るとか、信じる者だけに恵み深いとか、依怙贔屓なども全くありません。神は御名を崇める者が誰一人いなくても永遠に絶対に聖なるお方なのです。しかしだからこそ、人はその聖なる神を知り、心から御名を崇めなければなりません。それこそ、聖なる神に対して相応しい私たちの生き方です。神が聖なるお方であると深く知って、心から御名を聖とすることが、私たちにとって必要なのです。
イエスはここで神を
「天にいます私たちの父」
という名前で呼ぶよう教えられました。神は宇宙を創造された大いなる方で、人にとっては近寄りがたい栄光や力、正義の方ですが、そのお方が私たちの「天にいます父」となってくださいました。造られた世界の中の、取るに足りないような私たち、それも神に背を向け、神よりも自分の事を考え、神に祈るにしても恥知らずにも自分の願いを叶えてもらうことだけを求めて憚らず、神御自身を心から礼拝することはそっちのけにしてしまう。その私たちを、神は深く愛して、御子イエス・キリストの十字架の犠牲も惜しまれずに、父となってくださいました。私たちを御自身に結びつけ、生涯を通して私たちに関わり、どんなときもともにおられます。
「天にいます私たちの父」
という御名こそは神が聖であられることを物語っていますし、その御名こそ聖として崇められるべきです。
エペソ一5神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
6それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光がほめたたえられるためです。
私たちがイエス・キリストによって神の子とされたのは、その恵みの栄光が誉め称えられるためです。私たちは、神の子とされて、神の恵みの栄光を誉め称えるようにと召されたのです。
3.恵みの栄光がほめたたえられるため
「誉め称える」とは言葉で褒めちぎる事ではなく、心から神の聖なる恵みに気づくことと切り離せません。いくら言葉で神は素晴らしいと賛美していても、やっていることは我が儘や依(え)怙(こ)贔(ひい)屓(き)や差別や暴言だったりしたら、そんな人の信仰自体、御名を貶めます。御名を聖とするとは、本当に神の聖なる栄光が驚かれ、恐れられ、心から神を神として生きることです。
私自身がこの祈りを祈る時、二つのことを思います。一つには、御名を崇める思いを人が持つことです。自分の名前が崇められることや、自分の願いが叶うこと、そういう、神を忘れた生き方から、本当に崇められるべきなのは神だと気づき、恵みの神への感謝や賛美へと心が変えられますように。そして、それを「みんなが」「あの人が」という前に、何よりまず自分が、心から御名を崇める者になり、御名を崇めて歩ませていただきたいのです、という願いです。
もう一つは、神が御業を現して、栄光を見せてくださいますように、ともやっぱり願います。今ある生活で、既に十分に神の恵みを私たちは戴いています。それに気づいて御名を崇めるべきです。けれども、そう決めつけて、これ以上は願わないのも神の恵みを小さく決めつけてしまうことです。私たちの生活に、周囲の人の健康や、困った状況、言葉を失うような悲惨なトラウマに、神が働いてください。その事を通しても、御名が崇められるようにしてください。
私たちの祈りだけでなく、礼拝や教会、生活そのものが、この二つの面の狭間にあります。御名を崇めることを忘れた世界で、何よりもまず御名を崇める。何がなくても礼拝に来て、御名を崇める。礼拝でも、礼拝のために、礼拝を通しての私たちの恵みや祝福も祈りますが、礼拝のために祈る以上に、祈りを通して神を崇めます。神の御業や聖さや恵みを賛美するのです。
同時に、その神が、恵みによって私たちに御業をなして下さることを祈り、求めるのです。御名が崇められない世界の傷や悲しみや悲劇を十分に悲しんで、神に憐れみを求めて、すがりつくのです。どう祈ったら良いかさえ分からない事にも、とにかく御名がその事にさえ崇められますように、とは祈れます。そう祈ることが出来ることは慰めです。そして、そう祈るだけで自分は何もしないのではなく、精一杯行動し語る自分を通しても、天の父の恵みが現されて、御名が聖とされる事を願い信じるのです。なぜなら、神は恵み深く、真実で、今も私たちの中に聖なる御名を崇めさせてくださるからです。そう気づかされるのも、この祈りの恵みです。
「天にいます私たちの父よ。あなたの御名が崇められますように。あなたが私たちの天の父であられるという聖なる恵みに、私たちがもっと気づき、多くの人があなたを崇めるようにしてください。私たちの置かれたこの世界に、あなた様が生きて働いておられ、私たちの思いを超えて正しく豊かに深く御業を現してください。この祈りを心から祈り続けさせてください」
ハイデルベルグ信仰問答122「第一の願いは何ですか。答 「御名をあがめさせたまえ」です。すなわち、第一に、わたしたちが、あなたを正しく知り、あなたの全能、知恵、善、慈愛、真理を照らし出すそのすべての御業において、あなたを聖なるお方とし、あがめ、賛美するようにさせてください、ということ、第二に、わたしたちが自分の生活のすべて、すなわち、その思いと言葉と行いを正して、あなたの御名がわたしたちのゆえに汚されることなくかえってあがめられ賛美されるようにしてください、ということです。」
ウェストミンスター小教理問答101「第一の祈願でわたしたちは、何を祈り求めるのですか。答 第一の祈願、すなわち「ねがわくはみ名をあがめさせたまえ」でわたしたちは、神が、御自身を知らせるのにお用いになるすべてのことにおいて、わたしたちと他の人々が、神に栄光を帰すことができるようにしてくださるように、また、神が万事を御自身の栄光のために整えてくださるように、と祈ります。」
「「名」とは、その人の人となりのすべてを象徴的に表すものです。ですからイエスを通して私たちに示された御父のご性質を、本当にそのとおりだと認識してゆくとき、神の御名をあがめていることになるのです。しかし自分の偏見を神に投影しているなら、-人種的偏見であれ、性的差別、また地上の父親に対する感情であれ-神の御名をあがめていることにはなりません。いかに自分が神の本当のご性質を知らないかを露呈しているにすぎないのです。(フーストン『神との友情』、194ページ)
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