聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ダニエル書六章「ライオンの穴で」満濃キリスト教会説教

2017-09-24 17:16:39 | 聖書

2017/9/24 ダニエル書六章「ライオンの穴で」満濃キリスト教会説教

 ライオンの穴、ペルシャの王宮、大臣や官僚たちの嫉妬と悪巧み。ドラマ性たっぷりのダニエル書六章です。そして、その中で真っ直ぐに生きるダニエルが、勇敢に祈りを捧げ、捕まり、ライオンの穴に投げ込まれる[1]。10節の

「彼はいつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」

に注目する説教も多くあります[2]。しかし、ここでダニエルの台詞は21、22節だけです。後はずっとダニエルは静かです。むしろ王のダリヨスの出番の方が多いのです。それも、大臣たちの持ちかけた法案が罠だとも気づかずにいい気になって署名し、得意になって、12節でも得意になってあの法案を確証して、

13そこで、彼らは王に告げて言った。「ユダからの捕虜のひとりダニエルは、王よ、あなたとあなたの署名された禁令とを無視して、日に三度、祈願をささげています。」

と真相を明かされた途端、ダリヨス王は

14非常に憂え、ダニエルを救おうと決心し、日暮れまで彼を助けようと努めた」

のですが、法律の取り消しは出来ないと突っぱねられ、ダニエルを獅子の穴に投げ込むよう命令を出さざるを得ません。そうしつつ16節で王はダニエルに、

…話しかけて言った。「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」[3]

 またその晩、宮殿に帰った王の様子も18節で詳しく書かれています。

18…一晩中断食をして、食事を持って来させなかった。また、眠気も催さなかった。

19王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った。

20その穴に近づくと、王は悲痛な声でダニエルに呼びかけ、ダニエルに言った。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」

 こういう王の間違い、情けなさ、つけ込まれやすさ、人間臭さに丁寧にスポットライトが当てられています。そこから見えてくる、彼の後悔、不安、恐れ、悲痛な思い、そして喜び、怒り、最後の賛美があります。正直なところ、私たちが親近感を覚えるのは高潔な信仰者ダニエルよりもむしろ王でありながらオロオロするダリヨスの方でしょう。ダニエルのような信仰者になれ、という励ましも間違いではないかもしれませんが、ダリヨスのような自分が生ける神の力、御業を拝させられていく、という読み方のほうが必要で実際的なのでしょう。

 ダニエル書のテーマは人間の王や国を天におられる神が治めておられる、という事実です。神こそが歴史を支配する本当の王です[4]。六章もダリヨス王の人間性、神ではなく、無力で愚かで、本当の王である神の前に問われる物語です。王は、いわば出世コースのトップです。世界を支配する権力を持ち、崇められて、贅沢に暮らせる。でもダリヨスは満たされていません。ライオンを飼うのは王の権力の象徴だったようですが、それも考えてみれば自己満足でしょう。王を拝む、という法律はそんな彼の功名心や渇き、虚しさをくすぐったのでしょうが、結局それは取り巻きの陰謀で、自分の首を絞めることになりました[5]。18節の

「食事を持って来させなかった」

は欄外に

 「別訳「そばめを召し寄せず」語彙不明」

とあります。食事にせよ側女(そばめ)にせよ、何も彼の慰めにはならず、一人後悔しつつ眠れない夜を過ごしました。ダニエルという捕虜の一人に過ぎないはずの人間が、法令を無視したことに怒るよりも、そのダニエルを自分がライオンの穴に投げ入れ、殺してしまったことの恐ろしさに耐えられなかったのでしょう。

 今も政治や権力を握った人は結局人間でしかなく、プライドや競争心や野心で争い合っています。ミサイルや核兵器を誇示しています[6]。私たちも王の位ならぬ社会の地位、人からの尊敬とか注目に憧れます。ライオンならぬ大型車や豪邸、コレクションやトロフィー、あるいは自分の身体そのものを逞しく、若々しく保つこともあります。王が普段は夜、食事やそばめを持って来させたように、私たちも夜や休日、誰も邪魔されない時間に気慰みにしていることがあるものです。全部がそれ自体で悪いとは限りませんが、そうした自分の姿自体、渇きであり、何か頼るもの、慰めや支えを求めている弱さや寂しさです。そしてそれらはいつかなくなります。それを忘れ、失うことを恐れてしがみつくと逆に自分の足を救われるか、もっと大事な人を失うことになるのです。神ならぬものを神とすることは、結局、ダリヨスと同じ過ちです。

 しかし、そういうことで終わるなら、この物語もただの道徳やお説教に過ぎません。そうではないのは、その絶望で迎えた朝、ダリヨスが聞いた驚くべき言葉から明らかです。

21すると、ダニエルは王に答えた。「王さま。永遠に生きられますように[7]22私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」

 ダニエルは生きていました。それもダニエルが知恵を絞ってではなく、神が獅子の口を塞いでくださったので何の害も加えませんでした、という神の生けるわざでした。それは、ダニエルが無実であること[8]、王に対しても悪いことはしていないことの力強い証明でした。でもそれだけではありません。一睡も出来ず生きた心地もしなかったダリヨスは、ダニエルに責められると思ったかも知れません。真の神を恐れないあんな法律に証明した自分を、本当の神が打たれ、罰せられ、獅子の穴か地獄の穴に投げ込まれると思ったかも知れません。しかし、ダニエルの口からはそんな非難はありません。恨み辛みや反省を促す言葉はありません。礼儀正しく丁寧に真実を語り、手を差し伸べるような言葉を静かに語るだけです。神ならぬものに縋り付いてしまう人間の愚かさを熟知して、自分の過ちに気づいて帰ってくるよう語りかける。それがダリヨスの人生に飛び込んで来たダニエルがもたらした、最大の驚きです[9]。ダリヨスがそのまま王座について一生を終えていたら決して体験できなかった恵みの出会いです[10]

 イエス・キリストも私たちの世界に飛び込んで来られます。ダニエルとイエスには、無実の罪で死に、穴に入れられ、奇蹟の生還を遂げたなどの共通点が浮かびます[11]。しかし今日思い出したいのはキリストが黙示録五章5節で

「ユダ族の獅子」

と言われていることです。イエスは百獣の王に準えられる万物の王です。決して人が捕らえて閉じ込めることは出来ませんが、この獅子は本当に私たちを強くして下さいます。私たちを食い殺すのでなく、測り知れない平安と勇気と希望を下さいます。表面的な礼拝や服従を強いる王ではなく、心の深い思いを憐れんでくださり、取り扱い、支えてくださる王です。疑い迷い失敗する私たちをその力で導かれます。世界と歴史の王は、上辺の力ではなく、心を扱い、憐れみ、強めてくださる獅子です[12]。「獅子の威を借る」ような生き方や、生け捕りにしたライオンを自慢して偉そうにする生き方ではなく、まことの獅子王、イエス・キリストの前に謙る時、私たちも本当の「ライオンハート」を持つようになるのです。いいえ、イエスは、そうしたいし、そうしてくださるのです。

 ダニエルも決して苦難から守られたのではありません。無理な罪状で捕らえられ、手荒く扱われ、獅子の穴に投げ込まれました[13]。獅子の穴に入らないよう守られはしませんでしたが、獅子の穴でさえ主はともにおられましたし、その間、外でダリヨス王の心にも主は働いておられたのです。ダニエルの特別な物語は私たちに奇蹟を保証してくれるわけではありません[14]。 決して祈っていれば戦争は起きない、大変なことからは守られるわけではありません。世にあっては艱難があり、私たちは

「試みに遭わせず悪より救い出し給え」

と祈るのです。その祈りを教えてくださった主が、どんな時にも私たちとともにおられます。人の願う奇蹟よりも深く大きなご計画で、世界も私たちの心の奥深くまでも取り扱われます。一人一人に特別な人生を用意され、不幸や災いのような体験を通しても、人の予想を超えた恵みで強めつつ、歴史を導いておられるのです。だから私たちも

「いつものように」

祈り続け、礼拝し続け、どんな人にも誠実に関わっていく。それが迫害者の思う壺となるとしても、そこにさえ誰も予想もしない展開を主はなさいます。主は今ここでも確かに働いておられます[15]。私たちの信仰や応答の出来不出来を越えて、生きて働かれ、支えてくださる。そういう栄光の王が私たちの主なのです。

「歴史を支配されている主よ。私たちの心の底までもあなたが王として治め、あなただけが下さる希望、平和を与えてください[16]。あなたの恵みを知らぬまま、力を求め、自分の首を絞め、大切なものを失う、これ以上ない悲劇が今も繰り返されています。憐れんでください。私たち自身を恐れや敵意から救い出し、主イエスの大きな恵みの御手の中に自分の人生を見ていくことが出来ますように。そこから見える深い平安をもって、今ここに生きる教会としてください」



[1] 3章との共通点(類似でない点もあるが)に注意しましょう。そしてそれは、この後も今日まで、戦いは続くことを語っているといえます。一件落着、ではないのです。

[2] 獅子の穴に投げ込まれることも恐れず、いつものように祈っていたダニエルは素晴らしい、そういうダニエルを神様が守ってくださったのも当然だ、そうダニエルに注目することも出来ます。

[3] 16節は皮肉なことに、ダリヨス自身が自分ではない神に祈願を捧げる言葉です。ダリヨス自らが、あの禁令を破っています! 更に言えば、あの大臣たちも、ダリヨスの話に耳を傾けないことで(14節)、ダリヨスを真に崇め、服従していたのではないと言えます。重箱の隅を突きたいのではなく、彼らの提案した法案自体が、自己矛盾したものであった、ということです。それゆえダニエルは、形式上はこの法案に違反しましたが、最終的には「あなたに対しても何の悪いこともしていません」と堂々と言うことが出来ました。キリスト者の法令遵守が杓子定規な(ソクラテスのような)ものではない、自由で真実なものであるという、視点も持つことが出来ましょう。

[4] ダニエル書は、旧約聖書の終わり頃に位置しているように、イスラエル王国が散々、神である主に反逆を重ねた末、遂にバビロン帝国軍に包囲され、王国の歴史を終わった、という背景で書かれました。ダニエルはイスラエル民族の都エルサレムから、バビロンへ捕囚として連れて行かれた貴族たちの一人です。若い時にバビロンに来て、王宮に仕えるように召されてから半世紀以上、この6章では80才を越えていたと思います。そして、直前の5章最後では、バビロン王ベルシャツァルが殺されてメディヤ人ダリヨスが王になった、つまりバビロンもまた衰えて、メディヤとペルシャ帝国の時代になった、そういう時代です。世界帝国が終わり、また次の帝国に代わった、大きな世界大のうねりを見据えているダニエル書です。イスラエルも滅びましたが、それを滅ぼしたバビロンも衰えて滅ぼされました。人間の作るものは、国家だろうと戦争だろうと権力だろうと、所詮は人間が作るものでしかありません。

[5] 王は、30日だけ自分以外の神や人間に祈願をする者は獅子の穴に投げ込まれる、という法律に署名しました。それ以前の彼の120名の太守を任命し、三人の大臣を置く、という政策は賢明でした。それは、彼が自分一人では国を治めることは出来ないし、その太守たちが間違う可能性も否定できないし、その損害を受けないように大臣に任せよう、と考えたからです。彼は全能ではないし、みんなに祈願を捧げられても応えることは出来なかったのです。でも、彼はこの法令に署名しました。そんな法令を持ちかけられて悪い気はしなかったのでしょう。

[6] その裏には、ダニエルのように主に奇跡的に救い出されることも自分にはないだろうと思い込む、小さな神観があります。

[7] 「永遠に生きられますように」は6節で大臣たちがダリヨスに言った挨拶の言葉です。同じ言葉をダニエルは繰り返しています。人が永遠に生きられることはありませんが、ダニエルはそのような正論を持ち出すよりも、ダリヨスに対して精一杯の礼儀・敬意を払っています。

[8] この言葉は「罪が・ない」という二語ではなく、「きよいinnocent, clean」を表します。決して「罪が一切ない」「原罪がない」という意味ではありません。彼の罪の告白は、同じ時期に捧げられた9章の祈りからも明らかです。

[9] 偽りの神々に縋るものは、力を誇示し、みんなをひれ伏させ、逆らう者を罰することで溜飲を下げようとしますが、真の神はそんな不安定さとは無縁です。

[10] 獅子の口を封じた神は、もっと早くダニエルの正しさを立証することも出来たろう。しかし、そうはなさらなかった。その意味は、このダニエル書全体でも、王の心を問い、知らせ、自分に向き合わせる主の目的として明記されている。そしてこの事をダリヨスは、「この方は人を救って解放し、天においても、地においてもしるしと奇蹟を行い、獅子の力からダニエルを救い出された」と告白しています。この「解放」はダニエルの出来事だけでなく、ダリヨスをも解放された御業であり、全人類に対する御業をも見ていよう。私たちは、王から囚人まで、神ならぬものに囚われています。真の神は私たちを、偽りの神、自縄自縛の偶像崇拝から救い出してくださるお方です。

[11] この方も罪がないのに捕らえられ、脅しや策略も恐れず、真実を貫かれました。捕らえられ、弁解や抗議を口にせず静かに不正な罪状を受け入れられました。ここで、イエスの無罪を知って釈放を試みた総督ピラトと、ダニエルの無垢を知ってその命を救おうと画策したダリヨスを重ねることもよくあるようです。どちらも釈放を画策しつつ、しかし、最終的には押し切られ、プライドや臆病が邪魔をして、処刑を許可してしまいました。死の穴に放り込まれ、その穴は石で封印されました。しかし神は御使いを遣わされ、朝になった時イエスは穴から出てこられました。この他、共通点は幾つもあげられます。

[12] 黙示録五5、6。王宮やご馳走や贅沢に囲まれても決して得ることの出来ない平安が、イエスにあってあります。この王なるイエスこそ、私たちのために御自分のいのちを捧げ、屠られることをも厭わなかっお方だからです。この方は本当に殺されて穴に入れられ、本当によみがえったのです。また、このイメージから、C・S・ルイスの「ナルニア国年代記」も思い出せます。「ナルニア」では、天帝の皇太子アスランはライオンの姿をしています。

[13] 決してダニエルのように信仰があればどんな苦難からも救われるわけではないし、災いや不幸に出会っている人を見て、その人の信仰に問題があるように断定することも出来ないと気づかされます。「「(ジェームス)フィンリー は、神についてこう語っている。『(神は)無限大に予測不可能なお方だ。そのおかげで私たちは、[予測不可能なものでも]信頼に値するとわかる。なぜならどんなことの中にもキリストを意識できるようにと、神は私たちを導こうとなさっておられるからだ。あらゆることの中にあって私たちを支えていながらも、私たちを何物からも守ることのない、神の完全な愛に徹底的に根ざしているならば、そのときこそ、私たちはあらゆることに勇気と優しさをもって向き合い、他者や自分自身の中にある痛んでいる部分に、愛をもって触れることができる。』」the absolute love of God(メモ)

[14] 実際、初代教会では多くのキリスト者が迫害され、獅子の餌食にされる見世物となって死んでいきました。

[15] 最終的な裁きと、悪の破滅、ダニエルの救いは、ダニエル書12章の最終的な正しい審判に通じる。その神が、今ここでの歴史や人間関係にも働いて下さり、そのことに勇気を得て、なすべきことを果たしていくよう私たちを励ます。

[16] それは決して私たちの個人的な宗教的な話ではありません。「教会ではそういっても、実際の生活ではお金があるほうが勝つ、出世したり権力を手にし、皆からスゴイと言われる生き方の方が成功者なのだ。」そういう思い込みにこそ、ダニエル書や聖書の様々なエピソードは光を当てて切り込んできます。歴史を支配しておられる神は、やがて全てを裁かれ、悪を罰し、真実な御国を始められます。その途上にある今も、神ならぬものや人間の創り出す名誉や力に縋る生き方は虚しく、一時的で、墓穴を掘るもので、私たちは個人的な悔い改めと神への回心とを必要としているのです。

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