聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/10/4 マラキ書4章1-6節「子牛のように跳ね回る 一書説教 マラキ書」

2020-10-03 12:07:58 | 一書説教
2020/10/4 マラキ書4章1-6節「子牛のように跳ね回る 一書説教 マラキ書」

招  詞  イザヤ書57章15、18節
祈  祷
賛  美  讃美歌77「御神は力の」
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交  読  詩篇100篇(24)
 賛  美  讃美歌280「我が身の望みは」①②
聖  書  マラキ書4章1~6節
説  教  「子牛のように跳ね回る
一書説教 マラキ書」古川和男牧師
賛  美  讃美歌280 ③④
応答祈祷
 報  告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌  栄  讃美歌543「主イエスの」
*祝  祷
*後  奏

 今月の一書説教は、聖書通読表では3月に読んだマラキ書を取り上げます。先々週、マタイの福音書11章の前半を読みました時、その10節がマラキ書の引用でした。主イエスの先駆けとして活躍した洗礼者ヨハネのことが、マラキ書3章1節を引用して、紹介されていました。
「この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。」[1]
 このマラキ書の預言通りに、洗礼者ヨハネが遣わされたのですが、その間には四百年の時間が流れていました。マラキ書は、私たちの聖書では旧約聖書の一番終わりにあります。頁をめくれば新約聖書で、もう透けて見えますが、旧約と新約の間には「中間時代」と呼ばれる四百年があります。その最後に書かれた預言書がマラキ書なのです。では、その最後のマラキ書はどんなメッセージがあるのでしょうか。
 その特徴はなんと言っても、主の熱い愛です。一章は、
1宣告。マラキを通してイスラエルに臨んだ主のことば。2「わたしはあなたがたを愛している。――主は言われる――
 こんな始まりの書は他にありません。そしてマラキ書はずっと、主と民の会話で綴られます。全55節中、46節が「わたし」と「あなた(がた)」の対話なのです。これも他に見られない特徴で、神である主が人と語り、応答を求める、対話を求めて止まない方である証しです[2]。
 ところがその
「わたしはあなたがたを愛している」
に対して民は何と応えたのでしょうか。
一2…あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。
 なんとガッカリな応答でしょう。こんなやりとりがマラキ書ではずっと続くのです[3]。主の言葉に
「それはどういうことですか、
私たちがどのようにあなたを汚しましたか、
どのようにして主を私たちが疲れさせたのですか。」
 そんなつれない言葉が続くのです。
 マラキ書の時代、イスラエルの民は、遠くバビロンでの捕囚から奇蹟的にエルサレムに戻り、神殿もやっと再建して大喜びした後です。歳月とともに民の信仰も生活も形骸化してしまう。礼拝には傷物の生け贄が捧げられ、十分の一税は納められず[4]、庶民の間では離婚と雑婚、賃金の不払いと在留外国人への差別が蔓延(はびこ)っていました。その本音を言い表したのが3章14節。
「あなたがたは言う。『神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の得になろう。15今、私たちは高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる』と。」[5]
 こんな言葉にドキッとします[6]。捕囚の帰還や神殿再建、神の約束や祝福を見える形で戴くことがゴールではない。私たちは神の民といっても、内側が造り替えられなければ、豊かな主の愛も蔑ろにして、互いに踏みつけてしまいます。心に抱えている不遜を扱っていただかなければ、神の御国は嬉しい訪れどころか、忌避するでしょう。だから主は熱く語られるのです。
 主の愛から語り出されたマラキ書には短い四章に
「契約」
が六回も出て来ます[7]。主の契約は恵みの関係そのものです。主は人を愛して、ご自身の民として結び合わされた。だから主の民は、愛されている民としてふさわしく生きる。しかし、民がその道に背いても、契約の主は決して民を見捨てず、真剣に向き合い、本来の歩みに引き戻されます。厳しい言葉の合間にそれを上回る力強い、祝福の将来像を思い描かせます[8]。それが旧約聖書の結びなのです[9]。
 4章4節では
「律法を覚えよ」
と命じますが、5節では
「エリヤを遣わして」
と約束し、
「父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる[10]。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」
 主は世界を滅ぼさないように、人に応答を求めるだけでなく、ご自身から心に働いて下さる。そのように私たちを変えるのは、主のわざです。
4:2しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。
 「牛舎の子牛」は元気一杯、牛舎を所狭しと跳ね回り、門を開けば外に飛び出してはしゃぐ[11]。そんな子牛に準えて、あなたがたには義の太陽が昇る。その義の太陽から癒やしを戴く、そして踊り回る将来が約束されます。その約束通りにやがて洗礼者ヨハネが、そして、その後、主イエスご自身が来てくださり、私たちもやがて癒やされて、子牛のように跳ね回るのです。

 旧約の最後は惨憺(さんたん)たる有様でした。その民に、主は強い言葉で語ります。不誠実や裏切りを放っておきはしません。でも、その語りかけも預言者たちの派遣も含めて、それは主ご自身の、民の心を癒やされる働きなのです。主は将来、牛舎の子牛が跳ね回るような喜びの朝を、必ず迎えさせてくださる。心を癒やされ、父と子から始まるあらゆるもつれもほぐされる。旧約時代が四百年の沈黙に入る前の言葉がそれでした。
 主は私たちを愛し、私たちに「愛されている者」として、真実な礼拝を捧げ、誠実で信頼のおける人間関係を築かせてくださるお方です。



「私たちを愛したもう主よ。あなたの一方的な恵みにより私たちもこの契約の民に加えられました。あなたは歴史を支配なさり、世界を恵みの御国として完成させます。マラキ書の約束は確かに、ヨハネと主イエスに実現しました。私たちはその恵みに預かりつつ、なおその完成を待ち望んでいます。どうぞ私たちの心をきよめ、罪に気づいて悔い改め、それ以上に赦しと癒やしと喜びに溢れさせてください。私たちを憐れみ、慰めを注いで、約束を果たしてください」

脚注:

[1] 厳密には、この言葉は、出エジプト記23章20節の言葉でもあります。そこでは、出エジプトとシナイ契約の後に始まるイスラエルの民のために、主が「わたしの使い」を遣わして、律法に従って生きる道を備えさせてくださる、という意味合いが明確です。ですから、マラキ書の預言にしても、メシア(キリスト)の先触れ、というだけでなく、主の民が主を迎えるに相応しく、律法に従って生きる道を歩ませて下さる、という意味は見落とされてはなりません。

[2] 山口勝政「マラキ書」、クリスチャン新聞編『聖書66巻がわかる 創世記からヨハネ黙示録まで』(いのちのことば社、2001年)、262~264頁。

[3] 一例として、1:2「わたしはあなたがたを愛している。──主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。エサウはヤコブの兄ではなかったか。──主のことば──しかし、わたしはヤコブを愛した。」、1:6「子は父を、しもべはその主人を敬う。しかし、もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。──万軍の主は言われる──あなたがたのことだ。わたしの名を蔑む祭司たち。しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、あなたの名を蔑みましたか』と。」、1:7「あなたがたは、わたしの祭壇に汚れたパンを献げていながら、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓は蔑まれてもよい』とあなたがたは思っている。」、1:13「また、『見よ、なんと煩わしいことか』と言って、それに蔑みのことばを吐いている。──万軍の主は言われる──あなたがたは、かすめたもの、足の萎えたもの、病気のものを連れて来て、ささげ物として献げている。わたしが、それをあなたがたの手から取って、受け入れるだろうか。──主は言われる──」、2:14「「それはなぜなのか」とあなたがたは言う。それは主が、あなたとあなたの若いときの妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。」、2:17 あなたがたは、自分のことばで主を疲れさせた。あなたがたは言う。「どのようにして、私たちが疲れさせたのか。」それは、あなたがたが「悪を行う者もみな主の目にかなっている。主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか」と言うことによってだ。」、3:7「あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。8人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。」、3:13「あなたがたのことばは、わたしに対して度を越している。──主は言われる──あなたがたは言う。『私たちが何と言ったというのですか』と。」

[4] ここから、現代のキリスト者にとっても「十分の一献金」は義務だ、という考えが演繹されることがあります。この「十分の一運動」は、十九世紀後半にアメリカで強まりました。(榊原康夫『知恵ある生活』、151頁)。しかし、旧約時代の「十分の一税」は、今日の教会への「献金」とは異なります。日本長老教会の『礼拝指針』では「十分の一にまさる献金」という表現を選びました。「十分の一献金」をしなくて良いのではありません。むしろ、「十分の十」、すなわち私たちのすべては、すでに主のものなのだ、という自覚を持って、献げてくださればと願います。その意味でも、マラキ書3章10節の乱用は注意したいものです。

[5] 一例として、1:7「あなたがたは、わたしの祭壇に汚れたパンを献げていながら、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓は蔑まれてもよい』とあなたがたは思っている。8あなたがたは、盲目の動物を献げるが、それは悪いことではないのか。足の萎えたものや病気のものを献げるのは、悪いことではないのか。さあ、あなたの総督にそれを差し出してみよ。彼はあなたを受け入れるだろうか。あなたに好意を示すだろうか。――万軍の主は言われる――」、10「あなたがたのうちには、扉を閉じて、わたしの祭壇にいたずらに火をともせないようにする人が、一人でもいるであろうか。わたしはあなたがたを喜ばない。――万軍の主は言われる――わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない。」、12「しかし、あなたがたは『主の食卓は汚れている。その果実も食物も蔑まれている』と言って、わたしの名を汚している。13また、『見よ、なんと煩わしいことか』と言って、それに蔑みのことばを吐いている。――万軍の主は言われる――あなたがたは、かすめたもの、足の萎えたもの、病気のものを連れて来て、ささげ物として献げている。わたしが、それをあなたがたの手から取って、受け入れるだろうか。――主は言われる――14自分の群れのうちに雄がいて、これを献げると誓いながら、損傷のあるものを主に献げるような、ずるい者はのろわれる。――」、2:11「ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムの中で忌まわしいことが行われた。まことにユダは、主が愛された主の聖所を汚し、異国の神の娘をめとった。」、14「…それは主が、あなたとあなたの若いときの妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。…15あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。16「妻を憎んで離婚するなら、――イスラエルの神、主は言われる――暴虐がその者の衣をおおう。――万軍の主は言われる。」あなたがたは自分の霊に注意せよ。裏切ってはならない。」、17「あなたがたは、自分のことばで主を疲れさせた。あなたがたは言う。「どのようにして、私たちが疲れさせたのか。」それは、あなたがたが「悪を行う者もみな主の目にかなっている。主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか」と言うことによってだ。」、3:5「「わたしは、さばきのためにあなたがたのところに近づく。わたしは、ためらわずに証人となって敵対する。呪術を行う者、姦淫をする者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人を虐げてやもめやみなしごを苦しめる者、寄留者を押しのけてわたしを恐れない者に。――万軍の主は言われる――」、8「人は神のものを盗むことが出来ようか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだのでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。9あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。」、14「あなたがたは言う。『神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の得になろう。15今、私たちは高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる』と。」

[6] でも、振り返ると私たちも心当たりがあるでしょう。神を信じて沢山恵みを戴いたのに、慣れたり忘れたりして、礼拝に来てはいるものの、信仰生活が形骸化している。「神のさばきなんて、当てにならない」と思ったり、いつも主がおられる事を忘れた振る舞いや対人関係だったり…。マラキ書は、名ばかりのキリスト者への警告として聞くべき書だ、とも言われるゆえんです。前掲書。

[7] 契約(ベリース)。2:4「このときあなたがたは、わたしがレビとの契約を保つために、あなたがたにこの命令を送ったことを知る。──万軍の主は言われる──5 わたしの、彼との契約は、いのちと平安であった。わたしはそれらを彼に与えた。それは恐れであったので、彼はわたしを恐れ、わたしの名の前に、おののいた。」、2:8「しかし、あなたがたは道から外れ、多くの者を教えによってつまずかせ、レビとの契約を損なった。──万軍の主は言われる──」、2:10「私たちすべてには、唯一の父がいるではないか。唯一の神が、私たちを創造されたではないか。なぜ私たちは、互いに裏切り、私たちの先祖の契約を汚すのか。」、2:14「「それはなぜなのか」とあなたがたは言う。それは主が、あなたとあなたの若いときの妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。」、3:1「「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。──万軍の主は言われる。」

[8] 3:1「「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが臨んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。――万軍の主は言われる。2だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。3この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀のように純粋にする。彼らは主にとって、義によるささげ物を献げる者となる。ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日々のように、ずっと以前の年々のように主を喜ばせる。」、3:7「あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。――万軍の主は言われる――」、3:10「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。――万軍の主は言われる――わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。11わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。――万軍の主は言われる――12すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。――万軍の主は言われる。」、3:16「そのとき、主を恐れる者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された。17「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は言われる――わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。18あなたがたは再び、正しい人と悪しき者、神に仕える者と仕えない者の違いを見るようになる。」

[9] 「旧約聖書最後の5節は希望に満ちている」Bible Navi。

[10] これは複数形ですから、父なる神との関係ではなく、人間の親子関係が癒やされる事でしょう。

[11] 多くの翻訳は「牛舎から外に出た子牛のように」の意味に理解しています。直訳は「牛舎の子牛」です。

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