聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

夜の教会学校「もしもし。神様です」

2019-07-28 06:39:33 | はじめての教理問答

2019年7月14日 夜の教会学校「もしもし。神様です」 

 「もしもし」ってどんな時に使いますか? すぐに思いつくのは、電話を掛けた時。僕が誰かと電話で話をしたい時は、電話をかけて「もしもし、古川です」と言います。教会には「もしもし、教会ですか?」と電話が来ます。その電話を取った時、「もしもし神様です」ってことは、神様からの電話ですね? 神様から電話が来たら、ビックリしますね。そんな電話が本当に来たら、すぐに切った方が安全です。神様は電話よりもお祈りでお話しをします。電話は使いませんが、神様はみんなとお話ししたいと願っているお方。そんな神様なんだって思って欲しくて、今日は「もしもし。神様です」というタイトルにしてみました。

 教会では、神様がおられることを信じています。この大きな世界を造られた、すばらしい神様がいて、今も世界を治めていること、ただ一人のその神が私たちに命をくださっていると信じます。でも、神様の大きさ、すごさを言うだけではなく、その神が私たちを造り、愛しておられるとも信じるのですね。世界よりも大きな神が、この私たちを造られたのは、私たちを愛するためです。君は愛されるため生まれたってさっき歌った通り、神様は私たちを愛して、私たちが神の愛を現すような人になるために、人間を造りました。でも、そんなことは信じられなくなるぐらい、人間は今、神様から遠く離れてしまっています。その私たちのために、イエス様が来て下さいました。イエス様は、神のひとり子であるのに、私たちと神様との間をもう一度結び合わせるために来て下さったお方です。だからイエス様は私たちに祈りを教えてくださいました。私たちが親しく祈ることが出来る神様。「もしもし」と電話したいぐらい、神様は私たちと話したい。私たちが神様にお話しするのを待っているお方なんだと、イエス様は教えて、私たちと神様を結び合わせてくださったのです。だから、教会ではお祈りする時に、よく最後に

「イエス様のお名前によって祈ります」

と言います。そう言わない時でも、イエス様が私たちと神様とを結びつけて下さった、唯一のお方なのです。

 私たちは、神様の愛をいただくために造られました。だから、お祈りは大事なのです。

 この絵を見て下さい。これは、キリスト教会で一番古い絵の一つ。お祈りをしている人ですね。どんな特徴がありますか? 目を開いて天を見ています。手も上にあげて、のびのびと祈っています。その頃の多くの宗教にも、お祈りはあったそうですが、キリスト教の祈りの嬉しさ、明るさはユニークです。そして、この人は女性です。昔は、男性が偉そうにしていましたが、イエス様は女性にも近づいて話しかけました。女性が祈っている。この絵は、イエス様のことを知って、神様ってどんな方かを知ったクリスチャンの特徴が現れています。私が話しかけるのを待ってくださっている神様。私の祈りを聴いてくださる神様がいる! 女性も男性も、こどもも、神様に祈れる! イエス様が、天の神様と私をつなげてくださった! そんな喜びが、この祈りの絵になって、二千年近く経った今も、目にしているんですね。

祈りとは、神さまをほめたたえ、神さまの与える祝福に感謝し、そして聖書において約束していることを、神さまに願い求めることです。

 こういう説明があります。お祈りって、神様はすばらしいなぁとか、神様のなさることはすごいなぁとか、神様への驚きを言ったり、神様のくださる良い物を「ありがとうございます」とお礼を言ったり、神様に御願いをすることです。なんでも御願いしてもいいようで、僕たちはよく腹を立てたり、悲しすぎたりして、適ったら困るような御願いをすることがあります。ですから、なんでも、とは言われていません。でも、御願いして良いのです。そして、大事なのは、御願いを叶えてもらうためにお祈りするのではない、ということ。祈りは、御願いが適うかどうかではないんです。みんなの家族や友だちとの関係も、そうでしょう? 御願いを聞いてくれなかったら、もうおしまい、と言われたら、嫌だと思いませんか? ですから、こんな言葉もあります。

「祈りとは神との友情を育てること」

 世界を造ったただひとりの神様が、私に話しかけて、私の祈りを聴いてくださっている。私の心の声を聴いてくださっている。私の友だちでいてくださる。それ自体、凄いことだと思いませんか? お祈りの度に、私たちは神様とますます友だちになるのです。神様が友だちだから、ひとりぼっちの時も、本当は独りではなくなります。神様がいてくださると思うと、私たちの心は強くなります。神様の優しさを思うと、私たちも優しくなります。祈っている時も、神様は私たちのことを全部ご存じなのですから、嘘はつけません。正直なことを祈り、正直な人になっていくのです。

 ぼくは、朝起きたら、「神様、今日も起きられてありがとうございます。今日も1日よろしく御願いします」と祈ります。妻が起きたら、一緒に手をにぎってお祈りします。遠くにいる家族や友だちのことも大事ですから、神様によろしくお願いしますと祈ります。ご飯を食べる前、朝、昼、晩それぞれに祈ります。そして、夜寝る前にも、夫婦で手を繫いで祈ります。そして、歩いていても、何かをしていても、お仕事の合間にも、祈っています。「神様、ありがとうございます」とか「神様、助けてください」とか、短くお話しすることもありますし、「神様」とだけいって、しばらく静かにじっとしていることもあります。目を瞑るときもあれば、目を開いて手を前に向けて祈る時もあります。どんな祈りでも、神様は待っておられるはずです。祈るとホッとします。祈ると、神様がいてくださることが分かって、安心できますし、本当に嬉しくなります。

 皆さんも、いつでも祈ってみてください。短くてもいいから、祈ってください。上手な言葉で祈ろうなんて思わなくて良いから、祈ってください。言葉で祈るより、手紙を書くのが好きな人は、神様にお手紙を書いてみてください。日記のように、神様へのお祈りを書いていってもステキですね。

 今からカードを配ります。これは、イエス様が教えてくださった「主の祈り」という祈りです。イエス様が教えてくださったのですから、この祈りを読むのも良いです。この祈りは最初、神様に向かって「天にいます私たちの父よ」と始まります。天の神様に「私たちの父よ(お父さん)」と呼びかける。神様が私の天のお父さんになってくださった。そういう素晴らしい関係があることを、祈りは思い出させてくれるのです。

 

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