久しぶりの詩吟の稽古日
慌ただしい日が続き詩吟のことは
すっかり忘れ 声も出していなかった
秋は大会が目白押し
9月10月11月と4回あり
それぞれ違う吟を発表しなければならない
打ち合わせや練習が多くなるので
気を引き締めて 励まなければ・・・・
と思いつつ 家ではフレーム遊び
花が朝顔よりないので 同じような写真
フレームは Sachi さまを参考にしました
昭和20年(1945年)8月18日
敗戦から4日目
引揚げのため 樺太の豊原市を発った
大人たちと違って
危機感 不安感はなく 戦争が終わったという開放感でいっぱい
半袖のよそいきのワンピースにズボン
小さなリックに着替えと 食料だけ入れ
伯父の家に遊びに行くような呑気な気持ちでいた
父が国鉄勤務なので
後はチッキ(鉄道荷物)で送ることになっていた
午後3時頃駅に着くと
大きな荷物を背負った人でごった返し
奥地から着いた貨物列車の
無蓋車に積まれた荷物の上にも
大勢の人が乗っていた
見送りの父に促され
家族7人
無蓋車によじ登って乗った
緊迫感が漂っていた
父は豆粒のようになっても ホームにずっと立ったままだった
汽車はノロノロ進み停車が多かった
“新場”という駅では長い停車だった
いつ発車するかわからない
列車から降り 草むらで用をたそうとした時である
ポ~~ツと汽笛を鳴らしてゆっくり動きはじめた
慌てて駆け寄り 乗ろうとしたが 一人では無理
妹の泣き叫ぶ声がきこえる
その時誰かが 貨車の上から手を差し伸べてくれた
それに掴まってよじ登り やっと貨車に乗った
後で豊原医專の学生さんだったのを知る
置き去りになる恐怖感不安感は全く覚えていない
大きな夕日が綺麗だったことだけが 鮮明に記憶している
ヒマワリのようだった夕日
‟花とき”例会
お盆の後で7名と少なかったが
口の動きは10人以上
新しいコンデジの使い方をい色々教えてもらうが
まだ使いこなせない
CoCoDeの中庭に咲いているアサガオを写すが
ダメ
T様の写したアサガオをフレームに入れる
フレームは
千花さまから
あえて 敗戦記念日と言いたい
戦後70年
昨夜 阿部総理大臣の
戦後70年談話が発表された
一応近隣諸国へのお詫びの言葉が述べられ
長々と反省を話していたが
心に触れるものが伝わって来なかった
風化してはいけない戦争の悲劇
昭和20年8月15日の敗戦
樺太 豊原市で迎えた
母や子供たちは 神風が吹いて日本は勝つと信じていたが
正午の重大ニュース
天皇陛下のお言葉は
雑音だらけでよく聞き取れなかったが
大人たちが 戦争に負けたんだ
アメリカ兵に皆殺しにされる
とか噂していた
ソ連が参戦してからも
空襲警報はあったが 実際の空襲がないままでの
敗戦だった
その後の生活は
戦時中をしのぐ悲惨なものが数年以上続いた
お盆の中日でもある
北見の姪夫婦や
二女一家が来る予定
二女は先日も来たばかりだが
今回は孫も一緒なので特に嬉しい
不信心だが お寺のお参りは
早くに済ませておいた
平和の幸せを祈る
気に入っていたコンデジ(オリコーサン)が壊れてしまったが
新しいのを買うのが 延び延びになっていた
昨日ようやく 取り寄せてもらった品を 取りに行く
Tさまに相談して決めた
ソニー サイバーショット DSC-HX90V
大きさは旧と同じくらい ファインダーも付いており
液晶も可動式 倍率が30倍ある
説明書も何も読まないまま
帰り
朝顔が美しく咲いているという
老舗の染物店へ寄ってみた
うまく写せたか トンデモナイ
カンカン日照りの昼下がり
朝顔は皆ぐったり萎れて 哀れな姿でした
少し元気だった花
けさ我が家でも一輪咲いたが
手入れが悪いので
はじめから萎れていた
まだ操作が解らず 適当に写す
ベランダが狭いので思うように写せない
昨日は
告別式 繰り上げ法要の後
3時頃帰宅したが 途中から豪雨に遭遇する
滝のような雨
フロントガラスも見えないくらい 恐かった
着いた後 車中で少待機したが収まらず しびれを切らして
マンション入り口までヨタヨタ走り濡れた
疲れていたので 二女たちが帰った後は 片付けもせず休む
今日は大洗濯
二女たちの分まで シーツやパジャマを洗い
ベランダへ出ると
夫のGパンとTシャツが干したままになっている
一昨日干したのをすっかり忘れていた
豪雨に当たったらしいが 乾いている
誰も文句を言わないし 私しか知らないこと
10時頃
お坊さんがお盆のお経をあげに見える
へたくそなお経を一分位唱え
急いで帰られる
書き入れ時だし 檀家が多いので 毎年のことで
諦めているが・・・・
先祖は喜んでくれたかは