きょうは、遠野の土地のボランティアガイドさんにお世話になりました。
各グループごとにわかれ見学をしました。
きょうは、かっぱのお話です。
遠野物語は常堅寺からはじまっています。
ここの狛犬は、頭はかっぱの形をしています。
むかし、この寺が火災がおこり、それをくいとめたのがかっぱである。
だから、かっぱをおまつりしているのである。
よいことをしたかっぱは、すぐそばの川へさっていったという話である。
その川をかっぱ淵といっている。
今もいつかは、そこからかっぱはでてくるのではないかと人々はしんじている。
今もかっぱをお守りしている常堅寺です。
頭はかっぱの形をしている狛犬です。
かっぱが今もこのかっぱ淵からでてくるだろうと人々は待ち続けています。
常堅寺のそばのかっぱ淵です。
かっぱ淵でかっぱをおまつりしています。
人々はよくお参りするそうです。
かっぱについての感想
民話のふるさと かっぱなくして、遠野物語が語れないほど
この日はかっぱのことで頭がいっぱいだった。
ほんとにかっぱがいたのだろかと思ったが、やっぱり
いたのだろうなとも思った。
1つの伝説として受け継がれている。
また、人々に夢と希望を与えているのだろうなとも思われる。
今もなおかっぱがいつかはでてくるであろうと
かっぱ捕護許可証もだしているのである。
かっぱの許可証をもってないととらまえることができないそうである。
ガイドボランティアさんは胸にぶらさげていた。
とらえたら、賞金をもらえるそうである。
きのうまでは海岸ぞいに、旅をしていましたが、
バスは、岩手県の釜石から一路山の中(遠野)へと進みました。
遠野といっても今は市になっていて、このへんでいえば、
村おこしでしょうか市は観光地として広めています。
きょうは、その遠野のふるさと村のことをお話します。
ふるさと村は1つの集落をのこしています。
ふるさと村のいり口です。
明治時代からのかやぶきで建て方は曲がり家です。
(直角のたてかたといったらわかりやすいかなあ)
昔の殆どの生活は馬と共存していたのです。
だから、左の棟は馬小屋、右の棟は人の生活の場所でした。
このよな曲がり家は5件ほどありました。
曲がり家です。
馬小屋です。
そのほかに変わったものといえば水車がありました。
水車で米をつくのですね。
それからにわとりも飼っていたようです
やはり、自給自足の生活だったと思います。
植物では睡蓮の花が池に咲いていました。
また、ムクゲ、キキョウ、ヒマワリ、キリンソウ
コスモス、などもみかけました。
睡蓮の花です。
それから、こんなカボチャも見かけました。
すごく、大きなカボチャです。
これは、アメリカからの種でうえたカボチャだそうです。
アメリカでは、ハロウィーンという
子どものおまつりにつかわれています。
これは、わたしは、まよけのカボチャかなあとおもいますが、
わかりません?
バスは、岩手県の釜石から一路山の中(遠野)へと進みました。
遠野といっても今は市になっていて、このへんでいえば、
村おこしでしょうか市は観光地として広めています。
きょうは、その遠野のふるさと村のことをお話します。
ふるさと村は1つの集落をのこしています。
ふるさと村のいり口です。
明治時代からのかやぶきで建て方は曲がり家です。
(直角のたてかたといったらわかりやすいかなあ)
昔の殆どの生活は馬と共存していたのです。
だから、左の棟は馬小屋、右の棟は人の生活の場所でした。
このよな曲がり家は5件ほどありました。
曲がり家です。
馬小屋です。
そのほかに変わったものといえば水車がありました。
水車で米をつくのですね。
それからにわとりも飼っていたようです
やはり、自給自足の生活だったと思います。
植物では睡蓮の花が池に咲いていました。
また、ムクゲ、キキョウ、ヒマワリ、キリンソウ
コスモス、などもみかけました。
睡蓮の花です。
それから、こんなカボチャも見かけました。
すごく、大きなカボチャです。
これは、アメリカからの種でうえたカボチャだそうです。
アメリカでは、ハロウィーンという
子どものおまつりにつかわれています。
これは、わたしは、まよけのカボチャかなあとおもいますが、
わかりません?
グルメも旅をする上での楽しみである。
旅の第1日目、青森空港へ降りた。観光バスで鹿角八幡平の
ドライブインの「秋田美人」で昼食をとった。
きりたんぽ(秋田名物)をいただいた。
この、きりたんぽの鍋は冬はほかほかしておいしいでしょうね。
きりたんぽは、きりたんぽのやりににているところから
名前がつけられたそうである。
米をすりつぶして秋田杉の棒にまきつけ焼いたものである。
鍋の材料は、ごぼう、ねぎ、鶏肉、きりたんぽなどである。
しょうゆ味で煮たものである。
きりたんぽは、最後に手でちぎって鍋の中にいれます。
そのほかに、きりたんぽのお味噌焼きです・
五へい餅のような味がしました。
最後に、はじめていただいた「きりたんぽ」のごちそうは、
土鍋が1人分といったものであるから、
味のこくはあまりなかったように思います。
きりたんぽはやわらく、おいしかったです。
だんごのようなあじがしました。
この地方の冬のごちそうだから、
いろりの上で大きな鍋で炊くとほかほかしたきりたんぽを
いただくと体があったまるだろうなとおもいました。
旅の第1日目、青森空港へ降りた。観光バスで鹿角八幡平の
ドライブインの「秋田美人」で昼食をとった。
きりたんぽ(秋田名物)をいただいた。
この、きりたんぽの鍋は冬はほかほかしておいしいでしょうね。
きりたんぽは、きりたんぽのやりににているところから
名前がつけられたそうである。
米をすりつぶして秋田杉の棒にまきつけ焼いたものである。
鍋の材料は、ごぼう、ねぎ、鶏肉、きりたんぽなどである。
しょうゆ味で煮たものである。
きりたんぽは、最後に手でちぎって鍋の中にいれます。
そのほかに、きりたんぽのお味噌焼きです・
五へい餅のような味がしました。
最後に、はじめていただいた「きりたんぽ」のごちそうは、
土鍋が1人分といったものであるから、
味のこくはあまりなかったように思います。
きりたんぽはやわらく、おいしかったです。
だんごのようなあじがしました。
この地方の冬のごちそうだから、
いろりの上で大きな鍋で炊くとほかほかしたきりたんぽを
いただくと体があったまるだろうなとおもいました。
おはようございます。
きのうのことをお話します。
鳥羽カントリーヘいってきました。
久しぶりのメンバ-と再会しました・
うれしかったです。
きのうは、「鳥羽の日」のコンペの日でした。
鳥羽といっても、山の高台にあります。
でも、海がみえません。
ここは、谷ごえがあっても、女性は谷越えはなく、いつも前からでした。
わたしは、きょうは、パターが殆ど2打いないだったから
スコアはまとまったかなあと思います。12位でした。
いつものスコアで110でした。
みんなは、うまいから100前後でしたよ。
みんなのようになりたいけど、ゴルフはむずかしいのだから。(^○^)
でも、久しぶりの親睦ゴルフだから、たのしかったです。
それから、帰り、私の好きなサザエをかったから、満足でした。
きのうのことをお話します。
鳥羽カントリーヘいってきました。
久しぶりのメンバ-と再会しました・
うれしかったです。
きのうは、「鳥羽の日」のコンペの日でした。
鳥羽といっても、山の高台にあります。
でも、海がみえません。
ここは、谷ごえがあっても、女性は谷越えはなく、いつも前からでした。
わたしは、きょうは、パターが殆ど2打いないだったから
スコアはまとまったかなあと思います。12位でした。
いつものスコアで110でした。
みんなは、うまいから100前後でしたよ。
みんなのようになりたいけど、ゴルフはむずかしいのだから。(^○^)
でも、久しぶりの親睦ゴルフだから、たのしかったです。
それから、帰り、私の好きなサザエをかったから、満足でした。
真言宗を開いたの弘法太師であることはいうまでもない。
わたしは、お寺参り(五十代の後半)をするようになってから、
大師さまってなんと偉大な方だなあと思ったのである。
弘法大師は称号をもらうまでは、空海という名前であった。
空海は仏法の世界を求めて悟り,修行をしたのである。
若い時、それに満足せず、中国(唐)へ行った。
そこでは、 密教をさずかり、空海は短い期間に習得するほどの天才だった。
日本へ帰ってきて、四国を中心に全国を行脚をして、真言宗をひろめたのである。
空海は野山をかけめぐり、悟り、修行をするのがすきだったかも。そして
仏法の世界への追求は無我夢中だったかもしれない。
最後は高野山に信仰の道場を持ち、
最後まで、悟り、修業に勤めたお大師さまである。
修行のすきだったお大師さまだったから。「同行二人」の言葉にあるように、いつもお大師さまと一緒に参る気持ちでということだとおもう。
わたしは、まだ、四国八十八カ所は途中であるので。また参りたいとおもっている。
これは、西国三十三カ所の納経帖、伊賀四国納経帖である。
五十代後半にお参りしたものである。
もう、100寺以上お参りしたよ。母も健在なのもこのおかげかも。
わたしは、お寺参り(五十代の後半)をするようになってから、
大師さまってなんと偉大な方だなあと思ったのである。
弘法大師は称号をもらうまでは、空海という名前であった。
空海は仏法の世界を求めて悟り,修行をしたのである。
若い時、それに満足せず、中国(唐)へ行った。
そこでは、 密教をさずかり、空海は短い期間に習得するほどの天才だった。
日本へ帰ってきて、四国を中心に全国を行脚をして、真言宗をひろめたのである。
空海は野山をかけめぐり、悟り、修行をするのがすきだったかも。そして
仏法の世界への追求は無我夢中だったかもしれない。
最後は高野山に信仰の道場を持ち、
最後まで、悟り、修業に勤めたお大師さまである。
修行のすきだったお大師さまだったから。「同行二人」の言葉にあるように、いつもお大師さまと一緒に参る気持ちでということだとおもう。
わたしは、まだ、四国八十八カ所は途中であるので。また参りたいとおもっている。
これは、西国三十三カ所の納経帖、伊賀四国納経帖である。
五十代後半にお参りしたものである。
もう、100寺以上お参りしたよ。母も健在なのもこのおかげかも。
クリスマスまで
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クリスマスまで
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