【カシャリ!ひとり旅】京都 宇治上神社 国宝・ユネスコの世界遺産
若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間か、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。
旅は、時間に追われる現実からの開放、明日への糧となります。
写真は、自分の記録であるとともに、お節介焼き精神から、他の人に情報提供も兼ねてとり続けてきました。
何を思って撮影したのだろうか? 自分も行ってみたい・・・
他の人に、そう思っていただける写真を撮りたいと思って、ライフワークとして、続けられるだけ続けてまいりたいです。
■■ 宇治上神社 国宝・ユネスコの世界遺産
https://ujikamijinja.amebaownd.com/
宇治上神社(うじがみじんじゃ/うじかみじんじゃ)は、京都府宇治市宇治山田、朝日山のふもとにある神社です。式内社で、旧社格は村社です。隣接する宇治神社とは二社一体をなしています。
ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の構成資産の1つとして登録されています。
創建年代などの起源は明らかではないそうです。宇治上神社の境内は『山城国風土記』に表されている菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であるようで、宇治神社と一体で、旧称「離宮明神」ともいわれます。
宇治上神社の境内には「天降石」・「岩神さん」と呼ばれる巨石があり、磐境信仰による創祀という説もあります。
2004年(平成16年)の奈良文化財研究所や宇治市などによる年輪年代測定調査では、本殿は1060年頃のものとされて「現存最古の神社建築」であることが裏付けられました。詳細はわかりませんが、平等院との深い関連性が指摘されています。
概史(【Wikipedia】)
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」の記載があるが、その2座はそれぞれ宇治神社・宇治上神社に比定される[3]。なお、宇治上神社の本殿は本来左右2棟であるとして、「宇治神社二座」は宇治上神社のみを指すという説もある(3棟の建築年代については後述)。神名帳の「鍬靫」の記載は、祈年祭の際に朝廷から鍬・靫の奉献があったことを意味する。近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。
明治以前は宇治上神社は「上社」・「本宮」、宇治神社は「下社」・「若宮」と呼ばれたほか、両社を合わせて「宇治離宮明神」・「宇治離宮八幡宮」と総称された。
明治に入って宇治神社とは分離し、近代社格制度では村社に列した。
本殿(国宝)
平安時代後期の造営で、神社建築としては現存最古とされています。
流造、桁行5間(正面)、梁間(側面)3間、檜皮葺きの建物内に、一間社流造の内殿3棟が左右に並んでいます。(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。
内殿は、左殿(向かって右、第一殿)に菟道稚郎子命、中殿(第二殿)に応神天皇、右殿(向かって左、第三殿)には仁徳天皇が祀られています。
左殿と右殿は組物が三斗で、組物間に蟇股を置くなど、形式・規模がほぼ等しいのですが、細部の様式から左殿の方が年代が古いとみられます。
中殿は左右殿より規模が小さく、組物を舟肘木とし、蟇股を用いないなど、形式にも違いがあります。
外側の桁行5間、梁間3間の建物は、内殿の覆屋にあたりますが、内殿と覆屋は構造的に一体化しています。左殿と右殿の側廻りや屋根部分は覆屋と共通になっています。
左殿と右殿の内陣扉内側には彩絵があり、建物とは別個に「絵画」として重要文化財に指定されています。左殿の扉絵は唐装の童子像2体、右殿の扉絵は束帯・持笏の随身像2体で、剥落が多いのですが、平安時代にさかのぼる垂迹画の作例として貴重な作品です。
拝殿(国宝)
鎌倉時代前期の造営で、寝殿造の遺構といわれています。
切妻造、檜皮葺き、桁行6間、梁間3間の主要部の左右に各1間の庇がついています。桁行6間のうち、向かって左端の1間は柱間が狭く、隣接する庇部分とともに閉鎖的な1室を構成しています。建物右端の庇部分も1室となっていて、これらに挟まれた中央の桁行5間 x 梁間3間分を広い1室としています。
屋根は切妻造平入りの屋根の左右端に片流れの庇屋根が設けられています。切妻屋根と庇屋根の接続部で、軒先の線が折れ曲がっていて、このような形を縋破風(すがるはふ)といいます。
周囲に榑縁(くれえん)をめぐらし、内部は板床と天井を張り、蔀戸を多用した住宅風の構えです。
御祭神
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)
応神天皇(おうじんてんのう)
仁徳天皇(にんとくてんのう)
応神天皇の末の皇子であった菟道稚郎子は幼い頃から博識聡明だったそうです。そのため父君の応神天皇が大切に手をかけて育み、皇太子となりました。
しかし、応神天皇が亡くなられ、菟道稚郎子は兄である大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に天皇の位を譲りました。そして、現在の宇治の地に離宮を建て、一線から退いたのです。
大鷦鷯尊も「菟道稚郎子が、皇位を継ぐことは、応神天皇が定められたことなので、変えることはできない」と言い、3年間もの間、皇位を譲り合ったという逸話が残っています。
国民は戸惑い、世の中も乱れ始め、菟道稚郎子は自身の行いで、このあり様をご覧になり、悲しみ、心を痛んで、「このまま私が生きていれば、世の中が乱れるばかりだ」と、自ら命を絶ちました。
これを知った大鷦鷯尊は、難波から急遽、宇治へお越しになり、驚きと悲しみの中、菟道稚郎子を手厚く葬られた。
これが、後々になって当社の創建のいわれとなる。
■ アクセス
JR宇治駅から、宇治橋東詰まで行き、右折する。そのまま進むとさわらびの道との分岐点があるので、左のさわらびの道方面に進む。
京阪宇治駅から真つ直ぐ進み、さわらびの道との分岐点まで出たら、左のさわらびの道の方へ進む。
拝殿
拝殿(国宝)
鎌倉時代前期の造営で、寝殿造の遺構といわれています。
切妻造、檜皮葺き、桁行6間、梁間3間の主要部の左右に各1間の庇がついています。桁行6間のうち、向かって左端の1間は柱間が狭く、隣接する庇部分とともに閉鎖的な1室を構成しています。建物右端の庇部分も1室となっていて、これらに挟まれた中央の桁行5間 x 梁間3間分を広い1室としています。
屋根は切妻造平入りの屋根の左右端に片流れの庇屋根が設けられています。切妻屋根と庇屋根の接続部で、軒先の線が折れ曲がっていて、このような形を縋破風(すがるはふ)といいます。
周囲に榑縁(くれえん)をめぐらし、内部は板床と天井を張り、蔀戸を多用した住宅風の構えです。
拝殿
本殿
本殿(国宝)
平安時代後期の造営で、神社建築としては現存最古とされています。
流造、桁行5間(正面)、梁間(側面)3間、檜皮葺きの建物内に、一間社流造の内殿3棟が左右に並んでいます。(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。
内殿は、左殿(向かって右、第一殿)に菟道稚郎子命、中殿(第二殿)に応神天皇、右殿(向かって左、第三殿)には仁徳天皇が祀られています。
左殿と右殿は組物が三斗で、組物間に蟇股を置くなど、形式・規模がほぼ等しいのですが、細部の様式から左殿の方が年代が古いとみられます。
中殿は左右殿より規模が小さく、組物を舟肘木とし、蟇股を用いないなど、形式にも違いがあります。
外側の桁行5間、梁間3間の建物は、内殿の覆屋にあたりますが、内殿と覆屋は構造的に一体化しています。左殿と右殿の側廻りや屋根部分は覆屋と共通になっています。
左殿と右殿の内陣扉内側には彩絵があり、建物とは別個に「絵画」として重要文化財に指定されています。左殿の扉絵は唐装の童子像2体、右殿の扉絵は束帯・持笏の随身像2体で、剥落が多いのですが、平安時代にさかのぼる垂迹画の作例として貴重な作品です。
本殿・内殿(国宝)
内殿は、左殿(向かって右、第一殿)に
菟道稚郎子命(うじのわきいらつこ)、
中殿(第二殿)に応神天皇、
右殿(向かって左、第三殿)には仁徳天皇が祀られています