日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

入籍記念日

2012年07月07日 | インポート
7月7日は、妻の名字が「豊田」に変わった記念日になる。

妻の旧姓は「村田」だったから、「村」が「豊」に変わっただけではある。

私の亡父の勧めで、農協の生命保険に加入した日でもある。

もちろん、私が死亡した場合の受取人が、妻となっている生命保険に加入したことは言うまでも無い。

幸いにも、というか妻からしてみれば残念ながらなのかも知れないが、妻はまだその死亡保険金を受け取ってはいない。

でも、怪しくなりかけてきている記憶をたどってみると、確かその保険契約は解約したような・・・・・。

32回目の入籍記念日を、息災に過ごして迎える事が出来たが、32年間も一緒に暮らしていると、いろいろな出来事があった。

大阪府の池田市で暮らしていた頃の夏の日に長男は生まれた。

その日の昼間に、臨月の妻は、かかりつけの産婦人科医院で診察を受けていた。

「あと1週間ぐらいは大丈夫ですよ」とお医者さんから言われて帰宅していた。

熟睡していた夜中の3時ごろに、妻から起こされた。

どうも調子がおかしい、陣痛が始まったようだと妻が言う。

かかりつけの産婦人科医院に連れて行かなければと思い、タクシー会社に電話を入れてみる。

呼び出し音は鳴るが誰も出てはくれない。

夜中の3時過ぎだから、既に営業は休止していたのだろう。

普通に歩いても20分程度かかる道のりを、妻が歩いて産婦人科医院まで行くという。

自動車の運転免許も自動車も持っていなかった頃の事である。

臨月のおなかの妻を、おんぶもできない。

肩を貸して歩いてもらうしかない。

自分たち親子だけでアパート暮らしをしていた頃なので、4歳前の長女と2歳の二女を、誰かに預けることも出来ない。

幸いにも2人の子供は熟睡している。

そのまま熟睡していてくれる事を祈って、ドアの鍵を閉め、妻と二人で産婦人科医院に向かう。

男性では経験する事のできない、臨月のおなかと陣痛に耐えながら、自分で歩くと言って、苦痛に顔をゆがめながらも、妻は一歩一歩ゆっくりと歩き続ける。

途中で何回も立ち止まりながら。

1時間近くかかって、やっとかかりつけの産婦人科医院に到着できた。

明け方の4時を少し回っていた。

アパートを出る前に、その産婦人科医院には電話を入れておいたので、すぐに迎え入れてもらえた。

妻は分娩室に通されて、それから1時間もしないうちに長男は無事に顔を見せてくれた。

生まれる子供の性別など、おなかの中にいる時に知りたいとも思わなかったので、男の子が生まれるのか女の子が生まれるのか分かりはしなかったのだが、男の子が生まれてくれた。

上の二人の子が、どちらも女の子だったので、看護婦さんから「男のお子さんですよ」と言われた時には、無事に生まれてきてくれたこともさることながら、喜びも更に大きかったように記憶している。

無事に長男が生まれてくれた事を確認して喜んだ後は、アパートに残してきた二人の子供の事が心配になり、病院に妻と長男の事をお願いして、急いでアパートに戻った。

アパートのドアの鍵を開けて部屋に入ると、二人の子供たちは何事もなかったかのように、すやすやと熟睡していた。

きっと、ご先祖様ががそのようにして守ってくださったのだろうなと感謝しながら思った。

しばらくしてから二人の子供たちが起きたので、「赤ちゃんが生まれて、男の子だったから、二人とも弟が出来たんだよ」と話して聞かせた。

昨晩の残りのカレーライスを温めて、親子3人での朝食を済ませてから、病院に行く事にした。

2歳の二女はベビーカーに乗せて、4歳前の長女は手を引いて歩かせて、20分程度の道のりを、親子3人で歩いた。

出勤前の雑踏が始まりかけた頃の、大阪府池田市の池田駅付近の、うっすらと記憶に残っている27年前の情景。

その時に4歳前だった長女の記憶の片隅には、もしかしたらその時の情景が刻まれているのかもしれない。

病院に着いて、ベッドで寝ている母親に会えて、二人の子供たちは安心したようだった。

サラリーマンをしていた頃なので、妻が出産した日に、勤めを1日だけ休ませて貰って、京都府の綾部に住んでいる妻の姉に、無事に男の子が生まれた事を報告して、大阪まで手伝いに来てくれるように頼んだ。

妻と妻の姉との間で、子供が生まれたら、二人の子供の世話を、大阪のアパートに来てしてもらうという話になっていた。

8月の初旬で、妻の姉の子供2人も夏休みだったことでもあり、妻の姉は2人の子供を連れて、その日の夕方には大阪に来てくれた。

そして1週間ほど、狭いアパートの部屋で、大人2人、子供4人での生活が繰り広げられた。

私は、電車で1時間ほどの所の会社に勤めに出るという日常だったが、自分の子供も含めて4人の子供の世話を引き受けた義姉は、きっと大変だったことだろう。

1週間ほどして、妻は退院して来て、義姉親子は綾部に帰り、通常の日常生活が始まった。

私が31歳の頃の思い出。

32年前の七夕の日が入籍記念日で、実家の長崎県南高来郡愛野町で入籍の手続きをし、その頃は東京で暮らしていたので、妻を東京まで連れて行き、それから半年後の、翌年の正月の仏滅の日に結婚披露宴をするために数日間帰省した。

長男で跡取り息子だから、どうしても親戚やご近所の人達に、長男の嫁をお披露目しなければならないという両親の説得を受けて、結婚披露宴の日程を調整した。

正月の仏滅の日であれば、絶対に他の結婚式の予約は入っていないだろうという事で、仏滅の日にした。

仏滅の日に結婚披露宴をした夫婦ではあるが、32年間一緒に暮らしている。

これからもそうでありたいと願っている。

息子の誕生日の事を思い出した、32回目の入籍記念日。



豊田一喜