日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

らくすい

2005年09月30日 | インポート
「配水路の泥さらえについて(お知らせ)」という通知が数日前に届いていた。
私も所属している野井新田耕作組合の役員会において、今年の落水は9月29日朝に決定いたしましたという内容の文面だった。
それに伴い配水路の泥さらえを、10月1日の午前9時から行うという事が書かれていた。

千鳥川上流のお寺の近くにある可動堰を閉めて流下水を貯水し、そのすぐ上流部にある配水路の水門を開けると、野井新田耕作組合員が耕作している田んぼに水が行き渡るような仕組みになっている。

今回の通知は、その配水路の水門を閉めて、田んぼに供給されていた水が流れなくするという内容だ。

稲刈りに備えて、田んぼから水を抜く事を落水という。

6月の田植えの直前より、配水路を通じて田んぼに供給していた水を止め、4ヶ月程度の間で配水路に堆積した土砂を排除する作業である「泥さらえ」を実施するという。

時間の経過が、とても速く感じる。
田んぼの代掻きの後に、カエルの鳴き声が聞こえていたのが、つい最近の事の様に思える。

小学生の頃には、1時限の授業時間がとても長い時間の様に思えていたようだったが、最近では1時間という時間は、またたく間に経過してしまうように感じている。

今年も落水あとの配水路に、水の音がしない季節がやってきた。
秋が少しずつ浸透してくる。


豊田かずき


値下げ

2005年09月29日 | インポート
事務所に椅子が必要になったので、諫早市内の店まで買いに行った。

3週間ほど前に同じ店で同じ品物を買った時は、1脚780円だった。
普通の大きさのきちんとした、スチールパイプ製の背もたれのある折りたたみ椅子だったので、その価格でも安いと思い、その時は6脚購入した。

今回もその価格だと思って、その商品が置いてある場所まで直行してみたら、698円の値札が付いていた。

780円でも安いと思っていたのに、今度は698円に値下げしてある。
3週間で、82円も値下げした理由は何だろうか。
1割以上も値下げした事になる。
いったい、仕入れ価格はいくらぐらいなのだろうか。

椅子の座席の裏側に貼ってあるシールを見たら、MADE IN CHAINAと書いてあった。

日本人としての感覚からすれば、材料費と制作の手間賃さらには運送料などを考えると、そんな値段で販売して利益があるのだろうかと思ってしまう。

材料費と国内に入ってからの運送料は、国内製品と殆んど同じだと考えると、残るのは中国における人件費と生産企業の利益率において違いがあるのだろうという事ぐらいしか思い当たらない。

購入する側にとっては、品質が同じで値段が安ければ有り難い事だが、日本国内の同業の生産会社のことを思うと複雑な思いになる。

政府の発表とは異なり、地方では失業者の数が増加傾向にあり、倒産する中小の企業が増えつつあるような現状においては、なおさらのことだ。

そんな事を思いながらも、今回も698円の椅子を6脚購入して帰った。
事務所に配置したら、事務所の中が落ち着いた。


豊田かずき



払いもの

2005年09月28日 | インポート
電話代や電気代、それに町民税と長女が町から借りていた奨学金の支払いなどを、毎月今頃になるとまとめて行う。

町民税と長女が町から借りていた奨学金の支払いは、役場の出納室でできる。
役場に支払いに行ったら、職員の方々が作業服姿で忙しそうに書類等の整理をしていた。
10月11日の雲仙市の発足に向けての準備だが、今の税務課と住民課のスペースが愛野支所としての機能を果たす部分だそうで、1階の他の部分と2階部分は福祉関係の本庁部署が入ることになっている。

愛野支所として住民と直結する部署は、愛野町役場の1階部分の三分の二の部分だけになるということだ。
愛野支所に配置される職員数も半減するという。
24日の閉町式典を終えて、合併期日に向かっての追い込み作業が始まっているという感じがする。


電話代や電気代は、愛野展望台の近くのファミリーマートまで行って払っている。
以前は近くにファミリーマートがあったが、廃業されたので、少し離れてはいるが展望台の近くのファミリーマートまで行っている。

銀行の窓口で支払うよりも処理スピードが速い。
レジの読み取り機で、支払伝票のバーコードを読み取るだけで処理は完了する。
あとは受領印を押してもらった領収書を受け取るだけだ。

なぜ、そのようなシステムを銀行が導入しないのか不思議に思える。

月々の払いものを済ませると、ひとつ肩の荷が降りた様になって、気持ちがすっきりする。


豊田かずき


自然治癒力

2005年09月27日 | インポート
23日に墓参りに行った時に草払いをしていて腰の痛みを感じ、時間の経過と共にだんだん痛みがひどくなっていた。

家に帰ってから、妻が腰痛の時に使っていた腰に巻くサポーターを借りて、それで腰を締めると幾分かは楽になったが、痛みそのものは取れなかった。

24日に病院に行こうと思っていたが、午前中は愛野町閉町式典に参加したので、行く事ができなかった。

午後から病院に行こうと思い、かかりつけの諫早市内の病院に電話してみたら、土曜日だから午後の診察はないという。

25日と26日は、親類のおばあちゃんのお通夜と葬式などで、サポーターで痛みを抑えながら過した。

今日の夕方になると、腰の痛みは殆んど無くなった。

自然治癒力によるものだろうとは思うが、突然の腰痛を体験してそれが治癒して、普通に健康である事が、とてもありがたいことなのだという思いを強くした。


豊田かずき


東本願寺の瓦

2005年09月26日 | インポート
24日に、102歳で亡くなった親類のおばあちゃんの葬儀が、瑞穂町の「まごころ会館」で午後1時より執り行われた。

身近な親類縁者と、亡くなるまでお世話になっていた「秀峰荘」という諫早市森山町の老人介護施設の関係者の方だけが参列した静かな葬儀だった。

昨日のお通夜から本日の葬儀まで、「まごころ会館」の職員の方々の細やかな心遣いを感じる事が出来、同業他社との競争に勝ち残るためとはいえ、地域でもきちんとした企業努力をしている集団の人達がいることが頼もしく思えた。

どのような商売でも、自分たちで工夫して努力しなければ客は集まらない。
行政を頼りにして、愚痴を言っていても何も良くはならない。

良い印象の施設は、そこを利用した人達の口コミによる宣伝で、利用者が増える事になるはずだ。

まごころ会館での好印象の葬儀が終わった後、愛野町の光西寺へお参りに行った。

光西寺の本堂に、大きな平瓦と棟瓦が展示してあった。
京都の東本願寺の本廟の屋根に葺いてあった瓦だという事で、平瓦の方は1枚の重さが7kg以上の重さで、大きさは普通の家の瓦の4倍近くもある。

100年以上も前に葺せられていた瓦だそうで、今回その大部分を葺き替えるということになったので、東本願寺系列のお寺に記念として配布されたものだそうだ。

京都には、瓦洗い専門の業者がいるということで、その瓦洗いにより、展示されている瓦は磨かれていて、新品の瓦のように見える。

新品の瓦のように見える瓦を、なぜ葺き替えなければならないのかというように、一庶民であり門徒の一人である身としては思いもする。

しかし、寺社の建物や木造の太鼓橋、さらには一般家庭では使わないような大瓦などの特殊な技能を要するような制作技術を、確実に伝承していくためには、ある程度の期間における改修工事や架け替え工事あるいは葺き替え工事などを実施する事が必要になって来る。

要するに、需要を創出しなければ実務の実践ができない。

お寺の改修工事の際には、門徒には寄付金の依頼があるが、伝統的な特殊技術の伝承のための一翼を担っているのだと思うと納得できる面もある。

光西寺の本堂に展示してある東本願寺本廟の大瓦を見て、その様に思った。

いにしえよりの建立技術が、門徒の総力の結集により、連綿として受け継がれて行く。


豊田かずき



二倍の時間

2005年09月25日 | インポート
親類のおばあちゃんが、102歳で昨日亡くなった。

明治36年生まれだったという事で、現在51歳の私の、丁度二倍の時間をこの世で過ごした事になる。

もしも自分に102歳まで生きる時間が与えられるとすれば、もう一度今までの人生と同じ長さの時間を過ごす事が出来る事になる。

あと51回、盆と正月を迎え、台風襲来の恐怖を51年間体験する事になろう。

亡くなったおばあちゃんは、近代日本の一世紀間を生きていた事になる。
日露戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争という、私たちの世代が過去の歴史としてしか知る事が出来ないような時代背景の中での生活を、自身で体験された事になる。

今夜は、そのおばあちゃんのお通夜が、瑞穂町の「まごころ会館」という所でおこなわれた。
初めて行った民間施設だったが、その名が示すとおり、まごころのこもった落ち着きのある空間だった。

おばあちゃんの遺体は、今夜はその施設に親族と共に一泊して、明日の午前中に、すぐ近くの南高北部斎場で火葬された後に、再び「まごころ会館」に戻って葬儀が営まれる。

今頃は、先に逝った祖先や友人たちと、あちらの世界で再会していることだろう。


豊田かずき


愛野町閉町記念式典

2005年09月24日 | インポート
午前10時より、愛野町中央公民館講堂で、愛野町閉町記念式典が執り行われた。

10月11日に合併により雲仙市になるので、少し早いような気もするが、諸般の事情で今日の式典となったのだろう。

愛津村と野井村が合併して愛野村になってから116年もの間、途中で町制に移行はしたが、その行政区域が変わる事は無かった。

愛野町における最後の式典だったので、記録として、その式次第を残す。

1.開式のことば       愛野町収入役  大島 巍

2.国歌斉唱

3.先人ならびに公職物故者追悼

4.式辞             愛野町長    松浦末利

5.議長あいさつ       愛野町議会議長 荒木栄喜

6.表彰状および感謝状贈呈

7.来賓挨拶         長崎県知事   金子原二郎

8.記念品贈呈
  愛のまち交流 愛別町・愛川町・東近江市(旧愛東町)

9.愛野町のあゆみ(スライド上映)
  コーラス 愛野小学校合唱クラブ

10.町旗降納        愛野中学校3年生徒 2名

11.閉式のことば     愛野町教育長  鈴山勝利


以上が式次第の全部になる。

一番印象に残ったのは、愛野小学校合唱クラブの子どもたちの歌声と共に上映された、愛野町のあゆみのスライドだった。

過去の愛野での出来事の写真や記念写真が次々と映し出され、子どもたちの歌声とマッチして、涙が滲むほどだった。

すばらしい編集がしてあり、子どもたちの歌声入りのビデオかDVDなどにして、町の全世帯に行き渡るように、是非とも配慮して欲しいと思う。

式典は、午前11時27分に閉式した。


豊田かずき


彼岸の中日

2005年09月23日 | インポート
彼岸の中日なので墓参りに行ってきた。

一言で墓参りと言っても、うちの墓の場合には簡単ではない。
墓まで到達するまでの道と墓の周りの草払いも含んでの墓参りなので、鎌と水と花と線香を持ち、作業服を着ての出発となる。
自宅から見える小高い場所にあるので、距離的には1kmも離れていない所にある。

妻と息子と共に、3人で午前10時頃に出かけた。
盆前に草払いをしていたが、40日近い時間の経過は、草をある程度生長させるには十分なようだ。

草払いと、8本の花立の水の交換と、お供えのコップの水の交換をして花を飾り、線香をあげてお参りした。

墓の周りをきれいにして、先祖に手を合わせると、心が落ち着く。

いずれは自分もこの墓に入るのだと思った時に、自分の代の後には、私たちと同じように、鎌を持っての墓参りをしてくれるのだろうかという思いがある。

うちの墓の、道を隔ててすぐ隣に無縁墓がある。
子孫が絶えたのか、遠方に住んでおられるのかは分からないが、2基の墓石はいつも草山の中にある。

ついでだから、手前の方だけは草を払って風通しがよくなるようにはしているが、無縁墓である事の切なさを感じる。

彼岸というのは、仏教行事になってはいるが、日本独特の行事で他の仏教国には無いものだそうだ。
彼岸についての詳しい知識は、かわうそ@暦さんのこよみのページで詳しく紹介されており、ここをクリックすればそのページを開く事が出来る。

墓参りを終えて、自宅に戻ったのは昼少し前だった。


豊田かずき


神棚の設置場所

2005年09月22日 | インポート
政治活動のための後援会事務所を5月16日に開設したが、神棚の設置がまだだった。

設置場所は、どのような場所がいいのかインターネットで検索してみた。

(神棚は明るくて家の中の最も清らかな場所を選び、人が出入りをするドアの上などは避けるようにして目の高さ以上の高い所に南向きあるいは東向きに設けます。またトイレと背中合わせも良くありません。
上に部屋などがあって人が神棚の上を歩く事のある場合には「雲」という字を白い紙(奉書紙など)に書いて神棚の上の天井に貼ります。これはこれより上は何も無いという意味合いになります。)

というような説明になっていた。

自分の後援会事務所の中でその様な場所を探したら、該当するような箇所が3箇所あったが、そのうちの2箇所は神棚の高さとの調和が好ましくなかったので、東向きの二階部分には床が無い所に設置した。

住んでいる家の中には、仏壇があり、神棚もありで、仏様も神様も同時にお祀りしているような、特殊な宗教環境ではあるが、生まれた時からそうであるので何の違和感も無い。

近くにある浄土真宗光西寺の門徒であり、八幡神社の氏子でもある。
個人的には、仏壇の仏様には毎日朝晩にお参りしているが、神棚の神様にお参りする事は稀にしかない。

町議会議員になってから、季節季節の祭典に八幡神社からの招待状が届くので、年に数回は神社にお参りするようになった程度だ。

神社の周りには鎮守の森というのがあって、その森のおかげで、夏でも涼しく樹林の持つ温度調節効果を感じる事が出来るし、その空間に入るとなんとなく心が落ち着く感じがする。

先祖から受け継いだ遺伝子の中に、そのような何かが組み込まれているのかもしれない。

神棚の設置によって、事務所の感じが落ち着いた。


豊田かずき


諫干 営農はリース方式

2005年09月21日 | インポート
今朝の毎日新聞の見出しだ。
以下にその記事を転記する。

金子知事が方針表明
 長崎県・国営諫早湾干拓事業(諫干)の営農計画について、金子原二郎同県知事は20日、干拓地に造成される700ヘクタールの農地をリース方式で運営する方針を表明した。
 諫干は07年度完成を目指し、国が農地などを造成中。県は干拓地で試験栽培をするなど営農準備を進めている。
 県によると、販売せずリースすることに決めたのは、大規模・環境保全型農業を根付かせるため。所有方式だと、遺産相続などで農地が細分化されやすい。また、リース契約する借り手の個人・法人に、5年以内に県やJAS(日本農林規格)が発行する減農薬や無農薬の認証を取得する事を約束させるという。
 県は07年度から営農者の公募を始める予定。地方公共団体は農地法により農地を所有できないため、県農業振興公社などが国から農地を買い取り運営する。農業者や学識経験者、行政を交えた協議会(仮称)を近く設置し、リース価格や最低面積などの検討を始める。
 金子知事は「公的農地として適正に管理し、安全・安心な諫干ブランドの確立をめざす」と話している。

以上が記事の全文。

以下にこの記事に対する私の感想を少し。

新しく造成される干拓農地は、最近まで、単位面積あたりいくらかで販売されるというように言われていたはずだ。
しかも、その干拓農地における営農希望者の数は、定員をかなり上回っているという発表だったと思う。
それなのになぜ、このような方針変更をしたのだろうか。

このような方針変更を知ると、本当に営農希望者の数が定員を上回っていたのか疑いたくもなる。

リース価格が低く設定されたならば、所有方式よりも営農者にとっては有利なのかもしれないが、永久にリース料を払い続けなければならないことになる。
50年経っても100年経っても、永久に所有権は自分たちのものにはならない。
長い目で見れば、個人営農者にとっては不利のように思う。
昔の、地主と小作者の関係のような仕組みの復活であるような気がする。

大きな資本を持った法人が、農業の分野にも進出して来る可能性があり、個人営農者よりも法人事業者にとっては、運営しやすい形態になるのかもしれない。

大きな資本を持った法人が、大規模な農地に対する経営権を持った場合には、現在の建設業のように、作業員としてのサラリーマン農夫の出現につながって行く可能性もある。

もしもその様になった場合には、建設業における公共工事費の削減による余剰作業員の受け皿として考えれば、評価できないこともない。

農業者に農地の所有権を与えない営農方式に、どのようなメリット・デメリットがあるのかは分からないが、その農地が、借金をする場合の担保物権にはできないであろうことは想像ができる。


豊田かずき


スイカ再収穫の実験

2005年09月20日 | インポート
スイカの苗を買ってきて、20歳になった息子が育てていたものに大玉のスイカが生ったので、盆前に収穫して食べた。

もう一度スイカを収穫することができるのかという実験を始めた息子が、その種を土に埋めていたら、発芽していた。

植物の生長には、積算温度というのが大きな要素だということで、温度管理に主眼を置いて、実験対策を立てたようだ。

ビニールで囲って、温度管理をする事にしたということで、そのビニールをかぶせる為の骨組みの素材を何にするかを悩んでいた。

2mぐらいに切断した、孟宗竹があったので、それを割って細長い竹の骨にして使う事にした。

鉈を使って、孟宗竹を細く割る事から始めたが、鉈を使う事がほとんど無かった息子は、手元がぎこちない。
そこで父ちゃんの登場となる。
家では、私の事は父ちゃん、妻の事は母ちゃんと呼ばせるようにしている。

私が鉈の使い方の手本を示す。
次に息子が自分でやってみるが、使い慣れていないので、力の加え方が分からないようだ。

試行錯誤をしながらも、何とか骨組み用の竹を加工して、土に差込、その骨組みにビニールをかぶせて、2本のスイカの苗をそれぞれに囲ったのが9月1日だった。

台風14号の時にも、2つのビニールトンネルは飛ばされる事も無く、2本のスイカの苗は順調に育っていたが、そのうちの1本は、原因は分からないが、10日ほど前に枯れてしまった。

残った1本は今でも順調に育ち、花が開いている。

息子が、朝晩にビニールトンネルを開け閉めして温度管理をしているが、果たして実験は成功するのかどうか、興味を持って見ている。


豊田かずき


おのぼり

2005年09月19日 | インポート
川端町内会の龍王様広場に一泊された八幡神社の神様が、八幡神社の社殿に帰られる「おのぼり」が行われた。

午前10時30分から、龍王様広場に設営されたテントの中で、神事が行われる中、奉納踊りの一行が次々と龍王様広場に練り込んで来る。

奉納踊りの最後は、笛の音色と鐘の音によるお囃子に合わせての、大太鼓を打ち鳴らしながらの踊りだ。

里の師匠さんと今木場の師匠さんがいて、踊りの形が微妙に違う。
いずれの踊りも、迫力があり、見ているこちらを引きつける。

特に青年や大人が打つ太鼓の音は、力強く響いてくる。

昼食の後に、還御祭という神事が行われ、その後、御神輿がテントの中から担ぎ出されて、おのぼりの行列が八幡神社に向けての帰途につく。

御神輿と道具持ちの行列が、神社境内の社殿前庭に到着して、御神輿が社殿に収められた後に、奉納踊りの行列が、参道の入り口から奉納踊りを始める。

社殿前庭に到着してからも、一通りの最後の奉納踊りを披露する。

各踊りとも、特に力が入っているように見えた。

全ての奉納踊りが終わった後に、式典総代から御礼の挨拶があり、3日間に及ぶお祭りが終了した。


豊田かずき



おくだり

2005年09月18日 | インポート
野井地域の八幡神社の神様が、氏子の住んでいる地域を見回るために、4年に一度、神社から下ってこられる。

その行事を「おくだり」というが、今年はその行事がおこなわれた。

昨日の9月17日が人揃え(にぞろえ)といって、下られる神様の荷物を運ぶ役目の人や、奉納踊りをする人達が神社に集まり、その荷物を運ぶ役目の人達の中から、神様が下られる時に乗られる御神輿を担ぐ役目の人を選ぶ儀式が行われる。

そして今日は神様を乗せた御神輿が下ってこられる日で、荷物運びの人達と奉納踊りをする人達を従えて、町内の野井地区を練り歩きながら、お旅所である、家の近くの龍王様広場に設営されたテントの中に一泊される。

午前中に神様が住んでおられる八幡神社社殿において神事が執り行われてから、神社の境内で奉納踊りが披露され、その後、御神輿に乗られた神様と奉納踊りの一行が行列を作って、八幡町内会通り・今木場町内会通り・本下町内会通りを練り歩き、役場に打ち込んで奉納踊りを披露する。
その後は、有明町内会通り・本町町内会通り・順手町内会通り・迫町内会通り・舟津町内会通り・川端町内会通り・新崎町内会通りを練り歩き、最後は、その御神輿がお旅所である川端町内会の龍王様広場のテントの中に鎮座される。

そこでも神事が執り行われ、奉納踊りが披露される。

後は、奉納踊りチーム毎の自由行動で、あらかじめ決めておいた家に打ち込んで、踊りを披露することになる。

合併で雲仙市が誕生する関係で、愛野町のおくだりとしては最後になる行事が、通常より1ヵ月ほど早くなった。

奉納踊りの子どもたちの、夏休みから始まった連夜における稽古の成果が発揮され、また、次の世代に引き継がれていく。

いいものを見せて頂いた一日だった。


豊田かずき


勘違い

2005年09月17日 | インポート
諫早市内のある商店から、10日ほど前にA4サイズの厚手の白い紙を買って帰った。

その紙を使ってしまったので、電話番号案内で、その店の番号を聞いて、同じ紙の在庫はありますかと尋ねた。

すると、カットして作らなければならないから、明日にならないと揃わないと言う。

仕方が無いので予約したら、10日ほど前に買った時より安い値段を言われたので、何か変だなとは思っていた。

自分が予約したつもりでいた店に出向いて、「昨日紙を予約していた豊田ですけど」と言ってみたが、店の人はけげんそうな顔をされた。

店の人に「○○さんですよね」と尋ねると、そうですけどという答え。

念のため、「○○紙店さんですよね」と言ってみたら、「すみません。うちは○○文具店ですけど」と言われた。
「同じ店ではないのですか」と尋ねると、「違うんですよ」という答え。

私の思い込みによる勘違いだった事がわかった。

その後、その店の人に、○○紙店の場所を教えてもらって、注文していた紙を受け取りに行った。

同じ苗字の店なので、てっきりそうであろうと思い込んでいた勘違いだった。


豊田かずき



議会最終日

2005年09月16日 | インポート
9月議会定例会の最終日だった。

決算特別委員会が設置されて開かれ、平成16年度の決算状況に関して、役場の係長職以上の職員も出席しての質疑応答がおこなわれた。

役場の担当職員は、議員の質疑に対して、自信に満ちた的確な答弁をする。

合併前に退職される一部の職員もおられるが、ほとんどが10月11日からは、新市・雲仙市の職員として働く事になる。

愛野町以外の役所への勤務者もいるだろうし、今までと違って転勤もあるだろう。
他町出身の職員との協調にも、気を配らなければならないだろうし、雲仙市という広い範囲の地域における公務員として、今までは顔も名前も知らなかったような住民とのかかわりも新しく発生することにもなるはずだ。

町議会議員は、雲仙市が誕生する10月11日には全員失職するが、その後の事については、それぞれが色々な方向性を描いていると思う。

町議会議員にならせて頂いてから、2年3ヶ月の間に、丁度10回の議会定例会が開催されたが、大過無く過ごす事が出来た。

愛野町における最後の議会ということで、議会閉会後、議会出席者全員で、万歳を三唱して議場から退出した。


豊田かずき