日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

へぐらし

2012年07月31日 | インポート
昨日と今日は、へぐらしして田んぼの草払いをした。

昨日、大村市竹松遺跡のアルバイト作業が終わって帰宅する時に、諫早市森山町付近の国道が少し渋滞していたので、旧諫早干拓の方へ入って自宅に帰る道に入った。

ついでだから、自分の減反している田んぼを見て帰る事にした。

草が部分的に生えていたが、田んぼの土用干しで、田面の潟土は白っぽく乾燥していた。

除草作業をするには最適な状況なので、急いで家に帰り、草払い機の燃料を満タンにして、0.5リットル入りのペットボトルに冷水を入れて、遺跡発掘の時に使っている長靴と雪よけ脚はん姿で田んぼに行った。

2反間の田んぼで、25m×80mの広さがあり、そのうちの3分の1ぐらいの範囲に草が生えている。

6時40分頃に草払い機のエンジンをかけてから除草作業を始める。

乾燥した潟土に生えている草の、土の面ぎりぎりのところを切るので、土の小さな塊が膝上ぐらいまで飛んでくる。

そこで、遺跡発掘の時に使っている雪よけ脚はんが効力を発揮する。

草がまばらに生えている部分と密生している部分がある。

田面が乾燥しているので歩きやすく、草払いもはかどる。

結局、7時40分頃までは何とか見えたので、その時刻まで作業をしたが、だいぶ残ってしまった。

0.5リットルのペットボトルの水を一気に飲み干してから帰宅。

へぐらしの第1日目はそのような状況。

そして本日は、アルバイト作業の終業前の1時間ばかり、休憩棟にて安全講習があった。

安全の「安」は、ウ冠が家を表し、その中に女の人がいる状態を表しているので、やすらいでいるという意味で、安全と言う言葉は、「やすらぎをまっとうする」ことだという事を、調査員の方が説明しておられた。

まさに漢字の勉強も出来る遺跡発掘のアルバイト作業でもある。

そのような安全講習が少し早めに終わったので、本日の終礼は早目に済み、帰宅時間も少し早目になった。

昨日と同じように、草払い機の燃料を満タンにして、0.5リットル入りのペットボトルに冷水を入れて、遺跡発掘の時に使っている長靴と雪よけ脚はん姿で田んぼに行った。

残りの草払いを終わらせてしまいたかったが、へぐらし第2日目も、何とか見える7時40分頃まで除草作業をしたが、少しだけ残ってしまった。

夕方遅くまで作業をする事をへぐらしというが「へぐらし」は長崎地方特有の方言らしい。

子どもの頃の農繁期には、両親はいつもへぐらしして農作業をして帰ってきていた。

夕食の準備係だった中学生や高校生の頃、帰りが遅い両親が心配になって、自転車で田んぼまで様子を見に行って、まだ農作業をしている両親を手伝う事が、いつものパターンだった。

稲刈りの頃の雨天前には、それまでに刈り倒して乾燥させた稲束を積み上げて、雨に備えなければならない。

夜遅くまで、そのような作業を両親と共にした子どもの頃の思い出がたくさんある。

へぐらしは、我が家の農繁期には当たり前だった。

へぐらししての草払いは、そのような事を思い出させてくれた。



豊田一喜










土用の丑(うし)の日(平成24年7月27日)の記録

2012年07月29日 | インポート
一昨日の平成24年7月27日(金)は、土用の丑の日だった。

その日は、大村市竹松遺跡のアルバイト作業が終わってから、大村市の川の河口に友人と2人でウナギ釣りに行ってみた。

土用の丑の日だから、あわよくばウナギを釣り上げて、ウナギの蒲焼にありつけるかもしれないという期待をいだきながら、夕方の6時ごろから夜の9時半ごろまで魚釣りにいそしんだ。

結果は、友人が35cmぐらいの小さめのウナギ1匹と15cmぐらいのチヌの子1匹、私が20cmぐらいのハゼ1匹と15cmぐらいのチヌの子1匹と、15cmと25cmのセイゴ2匹の合計6匹の釣果だった。

土用の丑の日に、ウナギの姿を見る事が出来ただけでよしとした。

土用の丑の日について、以下はウィキぺディアからの引用。


土用の丑の日

土用の丑の日(どようのうしのひ)は、土用の間のうち十二支が丑の日である。

夏の土用の丑の日のことを言うことが多い。夏の土用には丑の日が年に1日か2日(平均1.57日)あり、2日ある場合はそれぞれ一の丑・二の丑という。

厳密には土用は春夏秋冬の年4回あり、土用の丑の日は年に平均6.09日ある。しかし以下では、夏の土用の丑の日のことを単に土用の丑の日と呼ぶこととする。

平気法では土用の定義が異なる(ただし丑の定義は同じ)ため土用の丑の日が異なる年もあるが、ここでは天保暦以来普及している定気法での土用を使う。


        日付
 年     一の丑   二の丑
2004年  7月21日  8月2日
2005年  7月28日
2006年  7月23日  8月4日
2007年  7月30日
2008年  7月24日  8月5日
2009年  7月19日  7月31日
2010年  7月26日
2011年  7月21日  8月2日
2012年  7月27日
2013年  7月22日  8月3日
2014年  7月29日
2015年  7月24日  8月5日
2016年  7月30日
2017年  7月25日  8月6日
2018年  7月20日  8月1日
2019年  7月27日
2020年  7月21日  8月2日

土用の丑の日になることがある日は、夏の土用になることがある7月19日~8月7日である。

毎年夏の土用となる7月20日~8月6日はいずれも等しく12年に1回の割合(12年間隔という意味ではない)で土用の丑の日となる。

1900年~2099年の間は土用の日付が少しずつ前倒しになるため、土用の丑の日になりうる日も変化する。

1907年には、明治の改暦から現在までで唯一、8月8日が土用の丑の日(二の丑)となった。

2096年には改暦以来初めて、7月18日が土用の丑の日(一の丑)となると予想される。


二の丑
前節でもわかるとおり、土用の丑の日が2回となる場合が多々ある。

夏の土用は太陽黄経が117度から135度(立秋)の前日までと定義され、平均18.82日間(18日:19日 = 18%:82%)ある。

19日の年の場合、土用の入りから7日以内に丑の日があると(すなわち土用入りの日が未から丑の間のだと)、土用のうちにもう一度丑の日が巡ってくる。これが二の丑であり、57%の年にある。

夏の土用の入りは7月19日~7月20日なので、最も早い二の丑は入りが7月19日で丑の日だった場合の7月31日となり、7月に2回土用の丑の日が来る。

2009年、明治改暦以来初めて(改暦前も新暦で計算すれば213年ぶりに)7月の二の丑となった。

ただし、7月の二の丑はこれ以降21世紀の間はそれほど珍しくなく、2025年・2041年・2057年・2073年・2089年と16年周期で7月31日が二の丑となり、2096年には7月30日が二の丑になると予想される。


土用の丑の日の鰻
日本では土用の丑の日に、暑い時期を乗り切る栄養をつけるために鰻を食べる習慣がある。

文政5年(1822年?1823年)当時の話題を集めた『明和誌』(青山白峰著)によれば、安永・天明の頃(1772年 - 1788年)よりの風習であるという。

由来
鰻の蒲焼(うな重)通説(平賀源内説)
鰻を食べる習慣についての由来には諸説あり、讃岐国出身の平賀源内(1728年 - 1780年)が発案したという説が最もよく知られている。

それによると、商売がうまく行かない鰻屋が、夏に売れない鰻を何とか売るため源内の所に相談に行った。

源内は、「本日丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めた。すると、その鰻屋は大変繁盛した。

その後、他の鰻屋もそれを真似るようになり、土用の丑の日に鰻を食べる風習が定着したという。

丑の日と書かれた貼り紙が効力を奏した理由は諸説あり定かではないが、一説によれば「丑の日に『う』の字が附く物を食べると夏負けしない」という風習があったとされ、鰻以外には、梅干や瓜などを食する習慣もあったようだが、今日においては殆ど見られない。

実際にも鰻にはビタミンA・B群が豊富に含まれているため、夏バテ、食欲減退防止の効果が期待できる。

ただ、鰻の旬は冬眠に備えて身に養分を貯える晩秋から初冬にかけての時期で、秋から春に比べても夏のものは味がおちる。

その他の説
春木屋善兵衛説 - 同じ文政年間(1818年?1831年)の『江戸買物独案内』によると、土用に大量の蒲焼の注文を受けた鰻屋、春木屋善兵衛が、子の日、丑の日、寅の日の3日間で作って土甕に入れて保存しておいたところ、丑の日に作った物だけが悪くなっていなかったからという説。

蜀山人説 - やや時代が下がった天保10年(1839年?1840年)の『天保佳話』(劉会山大辺甫篇)では、やはり鰻屋に相談をもちかけられた蜀山人こと大田南畝が、「丑の日に鰻を食べると薬になる」という内容の狂歌をキャッチコピーとして考え出したという話が載せられている。

丑=鰻二匹説 - 平仮名で墨汁を使って毛筆で書いた「うし」と言う文字が、まるで2匹の鰻のように見えたからと言う説。

最近の動き
鰻の養殖業者らが中心となって、夏以外の土用の丑の日にも鰻を食べる習慣を普及させようという動きがある。
スーパーやコンビニでもこの動きが見られる。土用は季節の変わり目でもあるため、栄養価の高いウナギを食べて精を付けようという趣旨に一応の妥当性はある。

鰻の産地である長野県岡谷市の岡谷商工会議所が冬の土用の丑の日を寒の土用の丑の日として商標登録(出願番号:商願平11-39161号、登録番号:登録商標第4525842号)したほか、1998年には「うなぎのまち岡谷の会」が日本記念日協会に記念日として登録した。

以上は、ウィキペディアからの引用。


「鰻の旬は冬眠に備えて身に養分を貯える晩秋から初冬にかけての時期で、秋から春に比べても夏のものは味がおちる」のだそうだ。

夏場はウナギの旬ではないのに、旬に比べて味が落ちる夏場の土用の丑の日にウナギの蒲焼を食べるように企画した人の知略には感心する。

今度は、晩秋から初冬にかけてのウナギの旬の季節にウナギ釣りを企画しよう。


豊田一喜







マカロニサラダ

2012年07月28日 | インポート
朝の出掛けに、「きょうは帰りが遅くなるから晩御飯はホカ弁でも買って食べといて」と妻。

勤めている保育園の夏祭りで帰りが遅くなるから、夕飯の仕度が出来ないので、自分達で適当に食べておいてということ。

朝はいつもどおりに早目に起きたが、その後は仕事が休みの日なのでゆったりと過ごして、昼前には少し眠っていた。

午後には、今週の頭から、通勤に使っている自動車が熱中症気味で調子が悪かったのだが、その修理が終わったというので、諫早市飯森町の中古車屋さんまで取りに行った。

この一週間は代車での通勤だったが、5日ぶりに自分の車に乗れるようになった。

家に帰ってから夕食をどうしようかと考えたが、外にホカ弁を買いに行くのも面倒に思えたので、自分で作る事にした。

災害に備えて買い置きしているマカロニが何袋かあったので、その中の1袋を使っておかずの一品を作る。

マカロニを茹でる時間は4分間だと袋に書いてあるので、鍋で沸騰させたお湯の中にマカロニを入れて、しばらく菜ばしでかき回してから4分間を待つ。

その間に、その沸騰しているお湯の中に、オクラと、友人が1班のYさんから貰って私におすそ分けしてくれたミョウガを入れてゆがく。

マカロニが茹で上がってからザルに移して、流し水にさらす。

水気を切ってからマカロニを鍋に移し、薄く刻んだミョウガとオクラとキュウリとソーセージを入れて、マヨネーズと和風ドレッシングをかけて和える。

和風ドレッシングが無ければ、代わりにめんつゆを使っても似たような味付けにはなるだろう。

このようにして、夕飯のおかずの一品マカロニサラダは出来た。

冷蔵庫には夕べのおかずの残りのゴーヤの炒め物も入っていたし、豆腐も入っている。

刻んだネギもタッパーに入れて入っている。

炊飯器には冷やご飯も入っている。

息子は、きょうは夜勤でいないので、母と2人分の食事の仕度をすればよい。

1つの皿には半分に切った豆腐にネギをふりかけ、その脇にゴーヤの炒め物を盛り付ける。

もうひとつの皿にはマカロニサラダを盛り付ける。

そのようなセットを2人分作る。

簡単な食事の仕度にも30分ぐらいはかかった。

冷やご飯をご飯茶碗についでから、テレビの前でゴロンとしている母に、「ご飯よ」と声をかける。

仏様に参って、仏飯と水とお茶を引いてから夕食をいただく。

マカロニサラダやマカロニのケチャップ和えなどのおかずは、小学校の頃の給食ではあまり好きな味ではなかったが、味覚は年齢を重ねると変わるようで、今ではこんにゃくや大根の煮つけなどもおいしいと感じるようになった。

最近では高級品になってしまった鯨肉の入ったジャガ煮しめなどの味が懐かしく、おいしいと思うようになった。

我が家では、朝食の時に自分で使った食器や仕事が休みの時に使った食器は、自分で洗うという決まりになっている。

久し振りに趣味の魚釣りの後始末以外で食べ物を調理したが、家庭の主婦の方たちは毎日、当たり前の様に献立を考えて、家族の人数分の食事の仕度をし、その後片付けや掃除、洗濯などの家事一般をこなした上で、外に働きに出ている人も多いのではないだろうか。

そのような事を当たり前として日々を過ごされている女性は偉大だと思う。


食事を済ませた後にはロンドンオリンピックのテレビの実況放送を見た。

女子の柔道競技で、おかしな判定を下した試合があった。

北京オリンピックで優勝したルーマニアの選手と、キューバの選手の試合だ。

ルーマニアの選手は足を痛めているらしく、試合開始当初から、相手のキューバ選手から技をかけられるたびに痛そうな態度を示していた。

試合開始後しばらくしてから、ヨーロッパ人と思しき女性の主審が試合を止めて、2名の副審を呼び寄せて協議をした後に、そのおかしな判定は下った。

キューバ選手の反則負けだという。

今の柔道のルールでは、最初から相手の足を取りに行く行為は禁止されているとのこと。

その事が適用されたようだが、その試合の映像を見る限りにおいては、明らかに誤審である。

他の技をかけた後の流れとしての足取りは禁止されてはいない。

キューバ選手はルーマニア選手に対して、足技をかけた後にその逆の足を取りに行っているので反則行為ではない。

審判が副審も含めて、その瞬間を見逃しただけのことで、反則ではない。

評価する側の能力が、評価される側の能力よりも劣っている場合においては、正当な評価は下せない。

そのようなことの典型のような試合であり、判定だった。

キューバ選手の審判に対する不信感と怒りは、見ていて痛いほど伝わってきた。

悔しくてたまらないだろう。

オリンピックに向けて、この4年間を必死に努力して国の代表選手としての地位を掴み取り臨んだ試合において、まともに戦うことも許されずに理不尽な判定にて敗北を宣告された選手の心情は察して余りある。

キューバの柔道関係者は、映像を証拠に厳重に抗議して、おかしな判定を撤回させるべきだと私は思う。

注意を促すなり、指導をするなりの対処で対応できたはずなのに、明らかに誤審と思われる判断で、いきなりの反則負けの判定はおかしすぎる。

有色人種に対する不当な判定の様に思えた。

マカロニサラダを作って食べて満ち足りていた心もちが、怒りに変わってしまった。

釈然としない。



豊田一喜





























初めて満勤できた週

2012年07月27日 | インポート
6月4日に大村市竹松遺跡のアルバイト作業員として働かせてもらうようになってから、初めて満勤できた週になった。

月曜日から金曜日までの5日間、雨天による作業の中止日も無く、満勤する事が出来た。

本日は、作業の開始後しばらくしてから、通り雨が作業区域付近を通過するという予測により、最初の作業は休憩棟や駐車区域周辺の環境整備の一環としての除草作業だった。

9時半前から雷が鳴り出したために、休憩棟にて待機という事になった。
すぐに雨が降り出した。

待機している時、同じ班のIさんとの会話の中で、2人とも全く同じ思いをした時期があった事が分かった。

梅雨の頃に雨ばかり続いていて作業が休みになる事が多く、週のうちに1日しか出勤できなかった頃もあった。

そのような時の自分たちの境遇が、かぐや姫の「あかちょうちん」の歌詞の一節と同じだと思った。

「♪雨が続くと仕事もせずにキャベツばかりをかじってたー。そんな暮らしがおかしくて・・・・・・・♪」の心境だったという事。

雨のために仕事が休みになると収入は無くなる。

そんな時に、ほぼ同世代のIさんも私も、そのような状況の自分から、あかちょうちんの歌詞を連想してしまった。

若い世代の人には何のことだかさっぱりわからないと思うが、私たちと同世代のオジサン、オバサン世代の方であればうなずいて頂けるだろう。

ただし、そのように思う事はあったが、私と友人はそのような雨天による休みの日には、趣味の魚釣り三昧の日々を過ごして、非常に楽しい夢のような時間を体験できた。

11時ごろには雨もやみ、通常の作業になった。

今週は熱中症の予防のために、小休止などを頻繁に取らせてもらい、元気なままで満勤の週末を迎える事が出来た。

あと2週間ぐらいを乗り切れば、長い盆休み(8月11日から8月19日まで9連休)に入り、その後には残暑もあるだろうが、少しずつ過ごしやすい季節が訪れてくれる。

作業員として使っていただける事に感謝しながら働こうと思っている。



豊田一喜










中学生の発掘体験のことなど

2012年07月26日 | インポート
郡(こおり)中学校の郷土史(歴史?)クラブの生徒さんたち8名が、大村市竹松遺跡の発掘現場の見学と発掘体験のために、9時10分頃から11時ごろまで来る事になっているという案内が朝礼の時にあっていた。

私たちがやらせてもらっている測量作業区域の死角になる区域での発掘作業体験だったので、その様子は見てはいない。

11時ごろの小休止の時に、発掘現場区域の北側の道路を歩いて帰っている青色のジャージ姿の彼らを見かけた。

休憩していたテントの場所からかなり離れていたので、その表情は見えなかったが、他の班の作業員の方の話によれば、女子生徒が5名で男子生徒が2名だったという事。

その中には将来、考古学関連の職業に就く生徒さんがいるのかもしれない。

遠目にではあったが、最後尾から、生徒さんたちを引率して来た若くて美人と思しき女の先生が歩いておられた。

あと何年かすれば、彼らのうちの何人かは進学や就職のために郷土を離れて他県で暮らしているのかもしれないが、帰省の折には新幹線を利用する事になるのだろう。

その時には、本日の発掘体験の事を思い出す事があるかもしれない。


休憩時間に、隣になった女性から話しかけられた。

娘さんと旦那さんと3人で作業に来ておられる奥さんで、私たちより少し遅れて発掘作業に合流された方たちだ。

娘さんがこのブログを見て、雪よけ脚はんやひざあてパッドなどの準備をされたのだと話しておられた。

ボケ防止のためにキーボードを打つことと、備忘録としての日記代わりに続けているこのブログだが、そのような話を聞くと嬉しくもある。


同じ班のIさんは、このブログをかなりよく読んでくださっているようで、過去に書いた内容についても相当詳しい。

この記事で520のタイトルの文章を書く事になる。

たまにではあるが、過去に書いた文章を読んで見る事がある。

記憶が少しずつ薄まっていくような年齢になりつつあるが、自分が折にふれて思ったことを思い出す事が出来る。


本日の作業終了後には、友人と2人で、郡川を越えて東彼杵町方向の川の河口に下見に行った。

明日(金曜日)の作業終了後に、一週間ぶりに魚釣り(ウナギ釣り)に行く予定を立てており、作業員Hさんから聞いた釣りのポイントを確認しておこうという事になった。

楽しい事のためには、二人ともフットワークが軽い。



豊田一喜












形を間違えて覚えていた漢字「落」

2012年07月25日 | インポート
大村市竹松遺跡発掘のアルバイト作業の休憩時間中のはなし。

同じ班のKさんが、漢字の「落」の筆順に関して話しておられた。

小学生の授業参観に行った親御さんから、学校の先生が、漢字の「落」の筆順が間違っているという事を指摘されたのだそうだ。

私も、その指摘された学校の先生と同じ筆順で覚えていた。

要するに、サンズイヘンをまず左側に書き、その後にそのサンズイヘンの右側にクサカンムリを書き、そのクサカンムリの下側に各という文字を書くという筆順が正しいものと思い込んで50年近く過ごしてきた。

私の場合は、「落」という漢字の形そのものを間違えて覚えていた。

大きなサンズイヘンの右側に、小さなクサカンムリが配置されて、その小さなクサカンムリの下側に各という文字が配置されている漢字が「落」という文字だという風に思い込んで覚えていた。

休憩時間中の会話の中では、同じ班のKさんも、Sさんも、Tさんも、隣の班のTさんも、ことごとくクサカンムリを先に書くのが正しい「落」の筆順だという。

多勢に無勢、こちらの主張が絶対的に不利ではあったが、上記の様な形の漢字が「落」だという認識だったので、その時までは自分の方が正しいのではなかろうかと少しだけ思っていた。

漢字の筆順は、上側から下側へ、左側から右側へ、左上側から右下側へ書くという基本は間違っていないと思っていたので、自分が認識している「落」の漢字の形からすれば、自分が覚えている筆順の方が正しいのではなかろうかと思っていた。

終礼の前に、同じ班のIさんとMさんに尋ねたら、私と同じように、サンズイヘンの方を先に書くと言われる。

2名の同調者を得て、やっぱり自分が覚えていた筆順で間違ってはいなかったのだとその時までは思っていた。

家に帰ってからきちんと調べて、明日反論してやろうと思いながら、友人が運転する車で帰路についている時に携帯にメールが届いた。

同じ班のTさんからで、「2班のTです。「落」の筆順、くさかんむりの横棒からです。下の子の漢字ドリルで確認しました」というもの。

やっぱりかと思いながらも、家に帰れば「漢字筆順ハンドブック」という本があるはずだから、それで調べたならばもしかして自分の覚えている筆順が正しいように載っているかも知れないと思いながら自宅へ。

調べてみた。

形自体が自分が覚えている「落」の字と違っていた。

大きなクサカンムリの下側の左側に小さなサンズイが配置されていて、その右側に各という字が配置されている漢字が「落」だった。

だから、漢字の筆順の原則に当てはめれば、上側から下側へ書くという事になり、自分が覚えていた筆順は明らかに間違っていた事になるという事を確認できた。

50年近く何の疑いも無く、漢字の形そのものを、小学校の3年生の頃以来、ずっと間違って覚えていた事になる。

私たちが小学生の頃には、国語の時間に、教科書の中で新しい漢字が出てくると、ひとつずつ先生が黒板に書いて、筆順から教えてくれていた。

もしかしたら「落」という漢字を習った時に居眠りをしていたのか、教えてくれた先生も誤った筆順で教えてくれたのかもしれない。

今度、小学校の時の同級生に聞いてみよう。

同級生も私と同じ筆順で覚えているのであれば、先生が間違えていた可能性が大きいし、そうでなければ自分が居眠りでもしていたのだろう。

いずれにしても、「落」の字の正しい筆順を、この年になって知る事が出来た。

しかし、「落」は形声文字で、意味(形)と音(声)とを示す部分から成り立っている文字だということだが、下側の洛が「ラク」という音を示す部分であるとすれば、上側のクサカンムリが意味(形)を表す部分になるはずだが、クサカンムリからは「落ちる」という意味(形)が連想できない。

あるいは、形と声が逆なのかよく分からない。

竹松遺跡のアルバイト作業は、「体重を減らすことができて、お金がもらえて、晴耕雨読ができる仕事」だという事のほかに、「漢字の勉強もできる」という項目を追加しなければならないようだ。



豊田一喜


以下は、漢字に関連する知識のサイトです。

興味があれば開いてみてください。


http://www1.ocn.ne.jp/~koyu/kan/nari.htm#moto

http://www.hyou.net/ra/rikusho.htm

http://chaichan.lolipop.jp/src/kanjikigen.htm#jyoyou




「体重を減らすことができて・・・・」

2012年07月24日 | インポート
体重を減らす事ができて、お金がもらえて、晴耕雨読ができる仕事ということで、大村市竹松遺跡のアルバイト作業員として働かせてもらっている。

仕事を終えて自宅に戻ってからする事は、作業によって汗まみれになった服やズボン、下着などを全部脱ぎ、それらを手で水洗いして汗を落としてから洗濯機に投げ入れて洗濯機のスイッチを入れる。

あとは洗濯機が勝手に洗濯を進めてくれる。

それから顔を洗い、体を水拭きしてから体重計に乗る。

その時の本日の体重75.9kg。

確実に減ってきている。

2日間続けての、炎天下での作業が功を奏したのか、この一年間では久し振りに75kg台になった。

せっかく75kg台を記録したので、夕食の後の体重測定はしないで、75kg台になった余韻を楽しんだ。

水分の補給は充分に行なっているので、内臓脂肪や皮下脂肪などの余分な脂分が減りつつあるのだと思っておこう。

炎天下での作業においては、自分の体をその環境になじませるしかない。

私のように、体重を減らすこともアルバイト作業の目的のひとつに加えれば、炎天下もまた楽しというふうに思える。

季節は待ってはくれないで確実に訪れる。

あと2ヶ月もすれば涼しい季節が訪れてくれる。

7月いっぱいの雇用契約満了にて、他の職に就こうと考えている作業員の方もおられるかもしれませんが、長崎県内の昼間の仕事で、時間給900円を出してくれて、作業員の体調管理に対する細やかな配慮をして頂ける職場はあまり見つからないかもしれません。

私みたいに体重を減らしたい人にとっては、理想の職場なのかもしれません。

体重を減らす事が出来て、お金がもらえて、晴耕雨読ができる仕事という事を実感できた日。


豊田一喜




ご馳走は「日影」と「水分」

2012年07月23日 | インポート
梅雨が明けたのだと聞くと、大村市竹松遺跡発掘のアルバイト作業の環境も、なおさら蒸し暑さなどをかなり厳しく感じるようになった。

少し動いても汗をかき、その分、体に蓄積されている脂分も燃焼しているように感じるので、体重を減らす効果はあるのかもしれない。

ただし、水分補給と塩分補給はこまめにしないと熱中症になる危険性がある。

最近の経験で私の体は、午前中だけで0.5リットルのペットボトル1本分の水分では足りない事が分かってきた。

だから、0.5リットル入りのペットボトル2本を腰にぶら下げてから、午前中の作業に臨むようにしている。

昼食時には、1.5リットル入りの水筒のお茶のほとんどを飲みながら食事をしている。

そして、午後からの作業に備えて、午前中と同じく0.5リットル入りのペットボトル2本を腰にぶら下げるようにしている。

水分の余裕が手元にあるというだけで、精神的に安心できるし、休憩時間にも適量の水分補給をする事が出来る。

塩分は、昼食時に梅干を丸々1個食べてから充分な水分補給をする事によって摂取している。

その他にも塩飴をなめた後に、それに見合った水分の補給をしている。

塩飴を1個なめたなら、コップに2杯分の水分を補給した方が良いという事を、前に勤めていた職場で教えてもらった事がある。

これからは、益々暑さも厳しくなってくるものと思われる。

夏なのだから当たり前の事ではあるし、そのような炎天下での作業であるという事は最初から分かっていることだから、各作業員が自分自身で、充分な睡眠と適度な水分、塩分の補給を心がけて作業に臨まなければ、熱中症にかかる可能性が考えられる。

本日の午後からは、作業環境の一部にテントを設営して頂いて、その下の日影で休憩させてもらえるようになった。

日影を通り抜ける涼しい風に当たると快適な極楽である。

日常生活の中では、とりたてて感じることも無いような事柄が、とてもありがたい事のように思える。

作業環境の中においては、休憩時間における「日影」と、「水分」の補給が、一番のご馳走の様に思える。


豊田一喜







墓掃除

2012年07月22日 | インポート
3連休ともなると体がなまってしまう。

初日はアジゴ釣り、2日目は法事、3日目は午前中を何となくゆったりと過ごす。

せっかく減少傾向にある体重が、体をあまり動かさないで、食べ物がおいしく、いくらでも入っていくので、増加傾向に転じている。

という訳で、午後は体を動かして、明日からの竹松遺跡発掘のアルバイト作業に備えるための体調作りも兼ねて、墓掃除をすることにした。

我が家の墓は、家から見える、車で3分ぐらいの場所の高台の斜面にある。

父が若かった頃、祖父と共に人夫さんを雇って、墓石を人力で運び上げて作ったという。

その当時は、うちの墓所まで通ずる徒歩道があったそうだが、昭和32年の諫早大水害の折の豪雨により斜面が崩れて、その徒歩道は無くなってしまったのだそうだ。

私が物心付いてから、父に付いて墓掃除や墓参りに行くようになった頃には、家の墓まで行くには、よそ様の墓所の敷地を通らせてもらわなければ行けないようになっていた。

刈払い機と金属製の熊手を持ち、腰には熱中症を予防するための水分補給のための水筒をぶら下げて、本日もよそ様の墓所を通らせてもらって家の墓所まで行った。

この前に墓掃除をしたのは、3月の彼岸の中日の少し前だったので、4ヶ月近く草が伸び放題になっていて、膝丈ほどの高さになっていた。

午後2時ごろから、刈払い機のエンジンをかけて、膝丈ほどに繁茂した雑草を刈り倒す。

通らせてもらうよそ様の墓所の草も、一部を刈り取らせてもらう。

ついでだから、家の墓所の周辺の空き地に繁茂している雑草も、途中にある無縁墓に生えている草も刈り取らせてもらう。

刈払い機を使っての除草作業だから、たいした作業でもないので、墓掃除の時にはいつもそのようにしている。

それらの全てを含めた面積は、一畝(ひとせ)ぐらい(10m×10m)になろうか。

墓の面倒を見る人がいなくなって無縁墓になっている墓所にはかかわるな、かかわればその墓に入っている人に取り付かれるなどと言う人もいるが、墓所をきれいにしてもらって悪い気がする魂はいないだろうという考えで、私はいつもそのようにしている。

そのようにかなり広い範囲の除草作業になってしまうので、途中で刈払い機の燃料が切れてしまった。

腰にぶら下げていた水筒の水も飲み干してしまったので、一度家に帰り、刈払い機の燃料の補給と、水筒の水の補給をして、墓に供える水を2リットル入りのペットボトル2本分持って再び墓へ。

残っていた雑草を切り倒してから、熊手でかき集めて、崖になっている所に寄せて落とす。

家の墓のすぐ脇は、今は崩れて崖になっている。

崩れる前にはそこに徒歩道があったのだそうだ。

そのような作業が済んだ後に、石塔に供えているコップや茶わんをきれいに水洗いして、水を満たす。

「南無阿弥陀仏」を刻んであるメインの石塔と昔からの石塔などがあり、合計6箇所に水を供える。

そして、メインの石塔の上から水をかけて墓を清める。

本来ならば、花立の水も交換して花も飾り、線香を持ってきてお参りするところだが、今回はお盆の前の予備の墓掃除という事で、そのような準備はしていなかった。

墓に手を合わせてお参りを済ませた頃には、午後5時を回っていた。

これでお盆前の本式の墓掃除が、だいぶ楽になった。

墓掃除と墓参りをすると心が落ち着く。

休みの最後の日に、いい汗をかく事が出来た。


豊田一喜










尽七日法要(じんしちにちほうよう)

2012年07月21日 | インポート
いとこの奥さんの尽七日法要(じんしちにちほうよう)が、近くにある光西寺であった。

いとこは大牟田市に住んでいたが、数年前に亡くなっており、今年にはその奥さんも亡くなった。

その奥さんが亡くなった時の大牟田市での葬式には参列できなかったので、納骨も兼ねた尽七日法要(じんしちにちほうよう)でおまいりさせてもらった。

愛野町の光西寺にあるいとこの家の室内墓には、いとこの両親と兄弟を含めて5人分のお骨が納められている。

お寺の本堂で尽七日法要があった。

その折に、今は息子さんに住職を譲っておられる元の住職さんから、読経の後に教えて頂いた。

仏教発祥の地インドにおいては、曜日と同じような七進法の概念があって、亡くなった後の七日ごとに法要をすることになっている。

しょ七日、ふた七日、み七日、よ七日、いつ七日、む七日、なな七日というが、「なななぬか」という発音がしずらいことから四十九日と一般的には呼ぶようになっており、仏教用語としての正式な言い方は、「尽七日(じんしちにち)」というのだと元住職さんから説明して頂いた。

要するに、七が七回繰り返されて一回りして元に戻る、すなわち七が尽きるという事のようだ。

また、四十九日の事を中陰が満つるということで、「満中陰」とも言うそうだ。


以下は、ウィキペディアからの引用。(詳細な知識はこちら)

中陰(ちゅういん)、中有(ちゅうう)とは、仏教で人が死んでからの49日間を指す。死者があの世へ旅立つ期間。四十九日。死者が生と死・陰と陽の狭間に居るため中陰という。

浄土真宗では、故人は臨終と同時に仏(諸仏)になると考えるので、中陰期間は、故人に対する追慕、故人を通して「生と死」について考え、謹慎し求法の生活をする期間である。

発祥地であるインドの仏教においては、臨終の日(命日)を含めて7日ごと、7週に渡り法要を行っていた。(古代インド文明の七進法により、七ごとなのである。)輪廻の思想により、人の没後49日目に、次に六道中のどの世界に生まれ変わるかが決まる、と考えられていたからである。また、その、元の生と次の生との中間的な存在である、49日間の状態「中陰」、もしくは「中有」と呼んでいた。

それが日本に伝わり、宗旨によって考え方は様々であるが、人は死後、魂を清めて仏になる為に中陰の道を歩き、あの世を目指す。その所々に審判の門があり、生前の罪が裁かれる。罪が重いと魂を清めるため地獄に落とされるが、遺族が法要を行い、お経の声が審判官に届けば赦される。それが下記の7日毎に行う法要である。また四週目と五週目の法要の間に、最初の月命日が来る。


中陰法要一覧

初七日(しょなのか)…「初願忌」(しょがんき)

二七日(ふたなのか)…「以芳忌」(いほうき)

三七日(みなのか)…「洒水忌」(しゃすいき)

四七日(よなのか)…「阿経忌」(あぎょうき)

初月忌(しょがっき[1])(立日)…没後、最初の月命日。

五七日(いつなのか)…「小練忌」(しょうれんき)

六七日(むなのか)…「檀弘忌」(だんこうき)

七七日(なななのか)(四十九日、満中陰、尽七日)…「大練忌(だいれんき)」、もっとも重要な法要とされる。


以上は、ウィキペディアからの引用。



「忌明け」の事を四十九日の直後というように思っている人が多いと思うが、その元住職さんによれば、忌明けは一周忌が終わった時、要するに「一周忌明け」の事を指すのだそうだ。

ウィキペディアでは、死後50日目を忌明けというとの説明がしてあるが、真宗大谷派の本山にて要職を勤められたこともある、本職の僧侶である光西寺の元住職さんが言われる「一周忌明け」の事を「忌明け」という説明の方が説得力がある。

そのような説明の後に、室内墓の方の建物に移動して、納骨を済ませた。

いとこの奥さんの遺骨を納めた後の納骨スペースは、あと2人分ぐらいになった。

死後の世界がどのようなものなのかは経験した事が無いので分かりはしないが、きっと、いとこの奥さんは、6人の子供たちに見守られて尽七日(じんしちにち)法要を済ませてもらい、旦那さんが待っている極楽浄土に無事に着いたものと思いたい。


豊田一喜











竹松小6年生 発掘に挑戦

2012年07月20日 | インポート
平成24年7月20日の毎日新聞県内総合ページの中の見出しのタイトル。

以下は、その全文。


竹松小6年生 発掘に挑戦!

大村市の竹松遺跡で近くの竹松小学校の6年生138人が18日、発掘調査体験をした。

竹松遺跡は、新幹線長崎ルート建設を前に県教育庁新幹線文化財調査事務所が14年度までの予定で調査している。
これまでに縄文院時代から室町時代にかけての中国製陶磁器や建物の柱穴などの遺物、遺構が出土している。

調査体験は、同事務所と市教委が、郷土の歴史を学んでもらおうと企画した。

真夏の太陽が照りつける中、子供たちは、汗をぬぐいながら削り鎌などを使って発掘に挑戦。
「初めてやったけど楽しい」と、友達と協力しながら表土を削り取っていた。
今西望乃さんは「青白い中国の茶わんのかけらを見つけました」と笑顔で話していた。

[ 武内靖広 ]

発掘体験状況を撮影した写真あり。


以上は、毎日新聞の記事の全文。



平成24年7月11日(水)の午前9時45分から10時45分までの1時間程度、竹松小学校の生徒さんたちが、遺跡の発掘体験に訪れるという事の説明が、事前に、私たち大村市竹松遺跡のアルバイト発掘作業員に対してなされていた。

残念ながら、その日は雨模様のために、竹松小学校の生徒さんたちの遺跡発掘体験は中止となり、1週間後に実施される予定だという案内がされていた。

そして1週間後の平成24年7月18日に、竹松小学校6年の生徒さんたちの遺跡発掘体験は実施された。

生徒さんたちを3班に分けて、休憩棟の中での説明、発掘現場への移動、発掘体験という流れで、3つの班が入れ替わりながら実施された。

テレビ局や新聞社の取材もあり、作業員の方たちから借りた削り鎌で、マンツーマン方式で、楽しそうに真剣に遺跡発掘体験をしていた。

予定としては10時45分頃までとなってはいたが、最後の班が発掘体験を終えて、帰路に着いたのは、11時を10分ほど回っていた。

きっと、もう少し長い時間、発掘体験をしたいと思った生徒さんたちが多かったのではないだろうかと勝手に思った。


新聞記事を読んで、竹松遺跡のアルバイト作業員として働かせてもらっている考古学のド素人として、素朴な疑問を持ってしまった。

新聞記事の中の「青白い中国の茶わんのかけらを見つけました」という生徒さんのコメントから、その素朴な疑問を持ってしまった。

事前の説明で中国製の茶わんのかけらが出土していることや、茶わんのかけらを掘り出した時に、調査員の人からそのかけらについての説明を受けたものと思われるが、その「中国製の茶わん」という文言に対して、私は素朴な疑問を持ってしまった。

それは、考古学的な考察の手法について、どのような手順でそれがなされるのかという疑問。

一般的には、発掘などによって、その存在が確認される事によって、確認された事象が考古学的な定説になってきているものと思われる。

私が疑問に思うのは、発掘された遺物の時代(年代)特定と、ある時代に、そのような技術が日本には存在していなかったとする根拠は何かという事。

まず、発掘された遺物の時代(年代)の特定について。

土の層ごとの年代は、土の科学的な分析によって知る事が出来るのだろうという事までは理解できる。

しかし、その土層から出土したからといって、その出土物が使用されていた年代が、その土層の年代と同一のものであると言えるのだろうかということである。

具体的には、土器や陶磁器の「かけら」などに関して、例えば裸足で生活していた時代やあまり頑丈ではない素材で作られた履物を履いて生活していた時代があったとすれば、土器や陶器などを割ってしまった場合においては、その破片にて怪我をしないように、集落の周辺に、土中に穴を掘って埋めていたのではあるまいかなどと思ってしまう。

そして、そのようにする事が、その地域の生活の知恵として流布されて一般的になっていたのではあるまいか、などと勝手に想像を膨らませてしまっている。

仮に、もしもそうであったのだとすれば、その人たちが生活していた年代よりも前の年代の土層から、かけらなどの遺物は出土することもあるのかも知れないと、ド素人としては思ってしまうのです。

もちろん遺物自体の原材料などの科学的な分析によって、その遺物が製作された年代の特定が可能であろうという事は理解できます。

次に、ある時代に、そのような技術が日本には存在していなかったとする根拠は何かという事。

「青白い中国製の茶わんのかけら」という文言の中の「中国製の」というフレーズの根拠について疑問を持ってしまった。

はたして、過去のある年代において、「青白い茶わんのかけら」というのは、中国にしか製造できる技術はなかったのだろうかという事。

考古学的考察の中では、そのような技術が当時の日本にはなかったのだとする根拠はどこにあるのだろうか。

そのような技術があったのだとする根拠は、製作施設などの発見により明らかにされて、考古学上の定説となってはいるのだろうが、なかったとする根拠は何なのだろうか。

具体的に、私は以下の様な想像をしている。

陶器や磁器の製作施設は、山際や山中の、それに適した土が産出される近傍に存在していたのではあるまいかという事。

だから、遺跡の発掘が主として実施されるような集落の周辺から、かなり離れた距離の所に作陶などの施設は存在していたのではないのだろうかという事。

作陶に適した土を運搬する適当な運搬道具も無かっただろうし、運搬用の道路も無かったであろうから、陶磁器を窯でを焼くための燃料である薪の確保も出来る山中などの、作陶用の土が産出される近傍にそのような施設は存在していたのではなかろうかと想像するのです。

だとすれば、遺跡の発掘というエリア以外の場所で、そのような製作施設などは眠っている可能性が大きいのではなかろうか。

要するにそのような施設は、遺跡として発掘されることもなく、発見される事が無いままであろうと思われるのです。

ですから、そのような「青白い茶わん」の製作技術が、当時の日本にはなかったのだとする根拠はどこにあるのだろうかと思うのです。

様々な技術や学問は、必ずしも、よその地域から伝わってきたものであるとは言えない場合もあり、ある時期に別々の地域において、同時発生的に生まれたという事もあり得るのですから。

分かりやすい例を挙げるとすれば、西洋での微分、積分学と同じ発想を、ほぼ同時期に日本において、和算学者が確立していたという事などがあります。

そのような事柄に関する考古学的な考察の仕方について、私のようなド素人は興味を持ってしまうのです。

ド素人の興味に関しては以上なのですが、竹松遺跡の発掘体験に触発されて、発掘体験をした小学生の中に、考古学に興味を持ち、そのような関連学部を持つ大学への進学を目指して勉強をして遺跡発掘の調査員になりたいと思う人や、考古学者になりたいと思うような人が出てくるかもしれません。

ちょっとした出来事が、将来の職業に対する方向付けに繋がる場合もあるでしょうし、何といっても、連綿と続いてきている郷土の人たちの過去の生活様式などについての知識を得るための体験学習は、彼らにとっては、貴重で有意義な時間であったろうと私は思います。


豊田一喜


本日の付録(平成24年7月20日)

「雨のために作業が休みのために、結の浜にてアジゴ釣り」

朝の8時に出発、夕方の5時まで、諫早市飯森町の結の浜漁港の防波堤にてアジゴ釣り。

さびき仕掛けに、100均の店で買った移動式の浮きを付けてアジゴを釣ると、非常に釣りやすく、たくさん釣る事ができる事を体験した。

200円のアミ餌と、釣ったアジゴの切り身の餌と、友人から分けてもらったスナ虫の餌による本日の私の釣果。

アジゴ・・・・・・・・・166匹
コノシロの子・・・・・・3匹
アラカブの子・・・・・・4匹
クロの子・・・・・・・・・2匹
サバの子・・・・・・・・1匹
タイの子・・・・・・・・・1匹
ベラの子・・・・・・・・・2匹
カワハギの子・・・・・1匹
カタクチイワシ・・・・・8匹

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釣った魚のはらわたとエラを取り出してから、全ての魚を2度揚げのから揚げにしてしまうまで、およそ4時間がかかった。

1日中を趣味のために費やした、とても楽しい日だった。


豊田一喜




電話帳から文庫本へ

2012年07月18日 | インポート
私の体重減量のキャッチフレーズ。

わき腹の脂肪(脂身)の厚さを、電話帳の厚さから文庫本の厚さにまで減らせたらいいなという願望。

大村市竹松遺跡の発掘作業のアルバイト作業員として働かせてもらうようになってから、ひと月半が過ぎようとしている。

体重も、ふた月前には78.5kgぐらいあったのが、最近では、作業が終わって自宅に帰った時に測ると、76.8kgぐらいにはなっている。

いよいよ76kg代に突入かと喜んでみる。

まさに、体重が減らせて、お金がもらえて、晴耕雨読の生活ができているのかなと思ってみる。

しかし、お茶などの水分補給をしてから1本100円の発泡酒を飲み、、夕飯を食べ終わってから測ると、78.6kgになっている。

ん、おかしい。

となると、ふた月前より100g増えている事になる。

だけども、ズボンのベルトの穴は、作業をしている時には、穴の開いている最後の所まで締められる様になった。

夕食後には、ズボンのベルトの穴は、最後から2番目の所まで戻さないときつい。

夕食時だけで、1.8kgの水分と食事を摂取している事になる。

その中の800gぐらいは、水分の摂取だということにしておこう。

だけれども、一晩眠って、昼間に作業をやらせてもらうと、その摂取した全量分は消費されていることになる。

夏ばてで食欲不振になるという人がいるらしいが、58年の人生の中で、そのような経験は皆無だ。

いつの季節でも、食べ物はおいしくいただける。

隣りの班の作業員のケイコさんのお友達も、全く同じだと言っている。

ただし、きょうの昼食時には、大きな水筒1本分(1.5リットル)のお茶で、2個のおにぎりを流し込むようにして食べた。

台風の影響で風が吹き、お日様が出たりして熱く、汗が出て、のどが渇いた。

これからは、もっと厳しい気候になっていくはずだ。

充分な水分摂取と塩分の摂取をするための準備が必要になってくるだろう。

厚めの電話帳ぐらいの厚みだった脇腹の脂身は、つまんでみると、2cmぐらいの厚さにはなっているような気がする。

あくまでも「気がする」のではあるが・・・・。

胴長、短足の、農耕民族の特徴的な体型は、古代の先祖からの遺伝子をしっかりと受け継いでいて変えようが無いが、脇腹の脂身の分量は、夏場に外の作業をして減らしていく事は可能であろうとは思っている。

文庫本の厚さの脇腹の脂身になるには、かなりの時間がかかりそうだが、この夏を乗りきる事が出来れば、なんとかなるのではなかろうか。

体重を減らす事が出来て、お金がもらえて、晴耕雨読ができる仕事という中の、後のふたつは実現できているが、最初のひとつがいまひとつ・・・・。

一番重要な事柄なのだが。

「電話帳から文庫本へ」というタイトルは、同じ班の蝶々の専門家氏からの頂き物。



豊田一喜
















時代の流れ

2012年07月17日 | インポート
昭和40年代には、およそ1000人近くの人数の学生が、全国から集まってきていた、日本で最初に開校された測量専門学校であり、東京都の小平市にあった国土建設学院が、およそ50年間の歴史を閉じて、昨年閉校した。

国土地理院の前身の陸地測量部出身の、著名な方々が、その人自ら著された測量学の教科書を使っての、1クラス100人でのマイクを使っての授業は、田舎の高校出身の自分にとっては、そのような情景が新鮮で嬉しくてたまらなかった。

諫早農業高校の農業土木科でも測量学は教えてもらっていたので、基本的な測量学の知識は身についてはいた。

しかし、さらに専門的な知識を修得できる事が嬉しくて、人生の中で最初に、身を入れて勉強らしい勉強をした期間でもある。

自分が望んで、一番上の姉からの資金援助を受けて入らせてもらった学校であるから、夕刊の配達によって生活費をまかない、田舎から送ってくる米などによって自炊をしていた。

新聞の夕刊の配達で、1ヵ月15,000円ぐらい貰っていた。

農家の長男なので、中学生の頃から農繁期の夕食の支度の料理係をしていたから、自炊することには何の抵抗もなかった。

昭和47年当時、6畳間と4畳半間の二部屋に、汲み取り式のトイレと1畳半ぐらいの広さの炊事場が付いていた、木造の古いアパートの家賃は、電気代、水道代を入れて、1ヶ月で15,000円ぐらいだった。

風呂など当然付いてなく、歩いて20分近くの銭湯に通う毎日だった。

その家賃を、学校の紹介で同部屋になった鹿児島県出身の中村健太郎くんと折半で払っていたので、自分の出し分は7,500円程度だった。

新聞配達代の15,000円から家賃等の7,500円を差し引くと7,500円しか残らない。

その残りの7,500円が1ヶ月の生活費の全てだった。

食材を買い、1回に付き35円の銭湯代を払い、ぎりぎりの生活をしていたが、同じアパートに同じ専門学校に通う8人が住んでいたので、楽しい思い出がたくさん残った1年間だった。

ギターを弾くのがうまかった吉本正美君から、吉田拓郎のフォークソングを教えてもらい、アパートの何人かで歌った事もあった。

週に一度ぐらい、アパートの近くにあった集合店舗で、揚げたてのメンチカツを、同部屋の中村健太郎君と1枚ずつ買っていたが、自分たちにとっては贅沢な夕飯のおかずの1品だった。

同じアパートには、同じ専門学校に通う、鹿児島県出身者が4名、福島県出身者が2名、長崎県出身者が私を含めて2名住んでいた。

そのうちの長崎県対馬市出身の舎利倉寿治君は、測量専門学校を卒業後、福岡県の測量会社に就職し、しばらくしてから理学療法士の専門学校にはいり直して理学療法士となり、ふるさと対馬市の病院で働いていた。

年賀状のやり取りは毎年していたが、2年前の晩秋の頃、諫早農業高校の農業土木科同窓生の同窓会の連絡のために彼の自宅に電話を入れた。

奥様が出られたので、お元気ですかと問うたら、「私は元気です」という返事。

もしかしたらと思った。

何年か前に白血病の手術をしてから、何とか元気でしているという話は聞いていたが、案の定だった。

「今年の5月に主人は亡くなりました」との奥様からの言葉。

「大変でしたね」としか言えなかった。

諫早農高時代にはラグビー部の選手として、頑健だった彼が、55歳で彼岸に旅立っていた。

福島県出身の2人は、この前の東北地方の津波災害に遭った地域としてマスコミで名前が挙がっている地域の出身者だった。

どのようにしているのかは分からない。

鹿児島県出身の吉本正美君は、何年か前に航空写真測量の大手会社に再就職が決まったと聞いている。

同部屋だった鹿児島県出身の中村健太郎君は、大手の航空写真測量会社に勤めた後、ふるさとの鹿児島県に帰ったようだが、その後の消息はつかめていない。

およそ40年前に知り合った人たちも、時代の流れの中で年を重ねていることだろう。

元気でいて欲しい。


豊田一喜






















旬をいただく

2012年07月16日 | インポート
前に飯盛町結の浜で釣った鯵子(アジゴ)などのから揚げは、三杯酢に漬け込むなどして、昨日で食べてしまった。

旬の物を食べると健康に良いという話をどこかで聞いた事がある。

今年は、旬の物という事で、3月下旬から5月の初旬まで、孟宗竹の竹の子を、飽きるほど食べた。

竹の子のてんぷら、竹の子のきんぴら、竹の子の味噌田楽など。

今頃の旬といえばアジゴ(鯵子)ということになろうか。

ということで、本日は鯵子(アジゴ)のから揚げを食べたくなったので、アジゴ釣りに出かけた。

アジゴ釣りといえば、諫早市飯森町の結の浜の防波堤がよく釣れたので、今回もそこに行く事にした。

朝の6時には我が家を出て、諫早市の友人宅に行き、そこから諫早市内の「かめ屋釣具店」に行く。

この前と同じように、友人と2人合わせて、アミ350円分、青イソメ350円分を購入して飯盛町結の浜の防波堤に向う。

6時40分ごろには飯盛町結の浜の防波堤に到着。

既に何組もの釣り人が、あちこちで釣りをしていた。

ゴミ拾いの清掃活動をしている人たちもいた。

この前に良くつれた場所付近に2人で陣取り、アジゴ釣りを始める。

引き潮になっていたが、この前の時より大きめになっているアジゴが間断なく釣れる。

しばらくしてから隣りに、幼稚園児ぐらいの孫を連れたおじいさんがやってきて、アジゴ釣りの仕方を教え始めた。

まず、ライフジャケットを着せてから、リール竿の扱い方を教えている。

最初はぎこちなかったが、3投目ぐらいに、アジゴを1匹釣り上げる。

それからは、オモリカゴの投げ入れ方も上手になり、コンスタントに楽しそうにアジゴを釣り上げるようになった。

途中から、その子のお父さんやお母さん、小さな弟君も来て、その子のアジゴ釣りを見て、釣り上げるたびに歓声をあげていた。

聞くとは無しに聞こえてくる会話によれば、お母さんの実家の飯森町に、福岡に住んでいるその家族が、連休中に遊びに来ていて、お母さんの父親、すなわちその子にとってはいなかのおじいちゃんが、かわいい孫をアジゴ釣りに連れて来ていて、本日の午後には福岡へ帰るということのようだった。

お母さんは、慣れた手つきで、釣れたアジゴを、さびき仕掛けから外していたので、きっと小さい頃からおじいちゃん、要するにその人の父親に連れられてアジゴ釣りに来ていた経験があるのだろうなと思った。

私も妻と共に、子どもたちが小学生の頃に、雲仙市千々石町の防波堤にアジゴ釣りに何回か連れて行った事がある。

きっと、数少ない楽しかった思い出として、子供たちの記憶の片隅に残ってくれているのではないかと思っている。

すぐ近くの、結の浜マリンパーク海水浴場からは、マイクの音が聞こえ、アジゴ釣りをしている防波堤の裏側の方なので見えはしないのだが、海水浴を楽しんでいる人たちがいる事が伝わってくる。

初夏の休日のゆったりとした時間を楽しむ人々の中の一人として、そのような空間に身を置いていられる事に幸せを感じる。

放射能で、ふるさとに住むことさえ出来ないでいる人たちの事を思うと、贅沢すぎる時間を過ごさせてもらっており、申し訳ないような気持ちにもなる。

だけれども、いつ何時にわが身にも何が起きるかは分からない。

今楽しめる事を、今楽しむように心がけている。

アミ餌がなくなってからは、青イソメの餌の渓流釣り仕掛けで、防波堤のきわのアラカブの子を探る。

コンコンという当たりが竿先に伝わった後、しばらく食い込ませてから仕掛けを上げると、10cm前後のアラカブの子が釣れている。

防波堤のきわを移動しながら探ると、結構面白い釣りになる。

午後1時過ぎに、友人と2人で餌を使い切ってしまったので納竿して帰宅。

釣った魚を調理する。

数を数えてみたら、アジゴがこの前の釣果と全く同じで57匹。
だけれども今回の分が型が大きくなっているので、分量的には多い。

アラカブの子9匹。
サバゴ2匹。
海タナゴ1匹。
念仏ダイ1匹。


きょうの釣果
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すべて、2度揚げのから揚げにした。

2度揚げにすると、アラカブの子も、頭から骨ごと食べられる。


から揚げの完成品
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かくして、きょうの夕餉にも旬をいただく事が出来た。



豊田一喜


















落とされた面接試験の思い出

2012年07月15日 | インポート
58年の人生の中で、面接試験を受けて落とされた経験が4回ある。

最初に落とされた面接試験は、18歳の時の、初級国家公務員試験の二次試験の面接試験。

一次試験の筆記試験では合格しており、二次試験は希望する官庁における面接試験を受けるという仕組みに当時はなっていた。

今はどのような仕組みになっているのかは知らない。

測量の専門学校に通っていた頃の秋に、初級職国家公務員試験の一次試験である筆記試験があり、程なくして合格通知と共に、二次試験である面接試験の日程と面接場所が同封された通知が届いた。

高校を卒業してから、修業年限が1年間の測量専門学校に通っていたので、卒業後の就職先を決めなければならない時期だった。

建設省国土地理院(現在の国土交通省国土地理院)に入りたいと思っていたので、そこの面接を受けた。

そして落とされた。

当時を振り返ってみると、落とされて当然の受け答えをしていた事に思い当たる。

面接試験を受ける前の年(国家公務員初級試験の筆記試験を受けた年)に国政選挙があり、日本共産党が大躍進して38議席を確保していた。

面接では、そのことについてどのように思うかと問われた。

日本共産党を支持している訳ではなかったが、思っている事を正直に述べた。

多様な政党が存在する事によって、幅広い考え方が国政の中で議論される事になるのだという考え方を持っていたので、「世の中がよい方向に変わっていくのではないかと思います。」と答えてしまった。

自民党が運営しているような国家において、その政党とは対極をなすような政党の躍進を肯定するような者は、国家公務員としては採用しない方が無難だと考えるはずであるから、面接官の人たちが私を落とした事は、今考えれば妥当な所だと思う。

不採用の通知が届いてから、測量専門学校の卒業まではあまり期間がなかったので、担任の先生の所に相談に行った。

この担任の先生というのがすごい方で、私たちが教えてもらっていた写真測量の教科書である「写真測量の実際」という本の著者であり、日本の大手航空写真測量会社である国際航業の測量設計事業部長をされてから、私が測量専門学校に入学した年に、別の大手航測会社の東日本航空株式会社の副社長になられて、測量専門学校の写真測量学の教授も兼務されていた人である。

戦前に、陸軍士官学校と陸軍砲工(科学)学校を卒業されてから、陸軍少佐として陸軍野戦砲兵学校の教官をされていた方である。

「国家公務員の面接試験で不採用になりました。どこか就職口を紹介していただけませんでしょうか。」と先生に聞いた。

すると、「うちの会社に入らないか。」という先生からのありがたいお言葉。

渡りに船とばかりに、「それではよろしくお願いいたします。」という事で、先生が副社長をしておられる東日本航空株式会社に就職させてもらうことに決定した。

19歳になったばかりの頃の私の就職活動は、ものの3分で完了した。

その航空写真測量会社にて、写真測量の実務の基礎をみっちりと教えて頂いた。

その会社では、以前のこのブログでも書いているが、北海道の現場出張時における先輩方の遭難未遂事件などがあり、印象に残る思い出がたくさんある職場だった。

2回目にに落とされた面接試験は、北海道の釧路市で航空写真測量も営んでいた、道東で一番大きな測量会社の面接試験になる。

九州出身の私では、北海道には根付かないと判断されたものと自分では思っているが・・・・。

3回目に落とされた面接試験は、2年半ほど前になる。

その当時に本業としていた写真測量の下請け作業が激減したので、現金収入を得るために、宅配便の早朝仕分けのパートの面接を受けた時に落とされた。

ある程度の年齢になると、就職事情がかなり厳しいという事を実感した。

そして4回目に落とされた面接試験は、今年の4月のことで、落ちたてのほやほやになる。

雲仙市内にある、第三セクター方式で運営している食品加工会社の、夜間における機械清掃のパートの仕事の面接試験で落とされた。

パートの従業員の方が1名、病気のために退職されるので、補充要員の採用のための面接だった。

58年の人生の中で、以上4回の面接試験に落ちている。

面接試験というのは採用する側が判断することなので、その結果については何も言えはしないが、パートの面接で落とされた時には、その会社と自分は縁がなかったのだと思い、自分のようなまじめでよく働く人間(本当です)を採用しなかった会社は損をしたのだと思うようにしている。

そして、5月末の大村市竹松遺跡のアルバイト作業員の面接試験を受けさせてもらい、採用して頂いて現在に至っている。

仕事をさせてもらっているだけで幸せで、休みの日には趣味の魚釣り三昧という、夢のような日々を過ごさせてもらっている。

自営業の時に、納期に追い立てられて、休日も夜も無いような生活だったが、その頃に失われた時間を、今取り戻せるように、神様が差配してくれているのだと勝手に解釈して、今を神様がくれた時間だと思うようにしている。
(神様という表現をしていますが、我が家の宗教は仏教で浄土真宗で、「南無阿弥陀仏」です。)

落とされた面接試験の思い出から、今の現実に、ただただ感謝している。



豊田一喜