落葉のはじまり。
サクランボの木の葉が落ちて
来た。
山茶花(さざんか)が鮮やかに
咲く季節。
ベスパLX125ieの時計の電池
を交換した。
フロント周りのカバーを全部
外してメーターを脱着しない
とならないので結構面倒(笑
ベスパLX125ieはハンドルカ
バーの合体部は左右からプラ
ピンが出ているのを無理やり
広げて上に上げる構造なので、
ピンが結合するプラ穴を欠損
させないように注意が必要だ。
モデルガンのようにきっちり
しておらず、プラのたわみを
使って広げてハメる感じ。
外す時には結構やっかいだ。
あと、トルクスドライバーが
無いとフロントのカバーが外
せない。
私は銃器メーカーS&Wのドラ
イバーセットを使った。
電池はSR43W-1.55V。
円盤電池のプラスティックの
透明な押え蓋はクリッププラ
イヤーが無いと外せない。
それと、埋まっている古い電
池は、伸縮式マグネットネジ
拾いにくっつけて引っ張って
抜く。
メーターパネルの固定は、木
ネジ式なのでネジ山が潰れな
いように2回し半戻しの要領
で締め込んで行く。
ついでにステムベアリングを
グリスアップしておいた。
それとフロント周りの各部の
増し締め。
メーター内に時計があると何
かと便利だ。
私は他のバイクではデジタル
やアナログ時計をハンドルに
巻いている。
【ベスパ】スクーターで
のんびり散歩ツーリング
【荒川河川敷編】
秋ヶ瀬公園。
おう。
ここは庭だよ、庭。
高校の時の庭。
バンクコースでどれほど圧が
スは沈み切っている。
このワークスマシンのキャブを
1個現物所有しているポケット
ビリヤードのプロを知っている。
今は本職は漁師をやっている。
元々は全日本を走るレーシング
ライダーだった。
若き日の世界王者ケニー・ロバ
ンピオンのヤーノ・サーリネ
ンが始めて、ケニーが完成さ
せたこの走法は、21世紀に
なる現代までもロードスポ
ーツモデルの乗り方の一
つのお手本となっている。
いう呼称さえ存在しなかった。
ごく普通にブレーキは2本がけ
で、ブリッピングしながらシ
フトダウンして行く。
ーキットでも公道でも。
るどころか蛇蝎のように嫌っ
て忌避している。逆に別な
危険な乗り方を教習所は教
えまくっている。
を教え込む教習所もある。
に使え、と。
れ、などと大型二輪教習で教
えている教習所もある。
り沢山だ。
検証しようとしない、あかん
やつ。
界史的性犯罪がずっと周囲に
よって黙認されて来たように、
教習所の危険な運転指導を指
摘して弾劾したり是正する動
きは社会には無い。
は2本がけで実行している。
いが、急速旋回中には完全に
ハングフォームで走っている。
で膝を閉じた時のようなフォ
ームで。
まだ開設当時のままの1982年
る場所で彼女を間近で見た事
がある。
彼女は履いていたが、私よ
り10cmほど背が低かった。
細いの。
かに可愛かった。
んなキテレツ妖怪BBAみた
いなキャラを演じたのか(笑
オートバイのフレームを切っ
て溶接補強したりする改造を
チョップという。
改造された二輪はチョッパー
と呼ばれる。
何もアメリカンタイプの大陸
横断型ハンドルアップのロン
グフロントフォーク型のみが
チョッパーではない。
ヨーロピアンタイプでカフェ
レーサーを作るためにフレー
ムをカットする事もチョップ
と呼び、そうして作られたフ
レームの車はチョッパーに類
する。
このバイク、ほとんど自分で
改造したらしい。
すげえね。
リアはリジット仕様に変更し
ている。
てか、フロントフォークなげ~。
ステムまで改造しないとこの
長さのフォークは着けられな
いからね。
タンクの塗装もDIY塗装だ。
なかなかやる。
原車は一体なに?という感じ(笑
以前、おかしい事があった。
昼飯ツーリングの時、待ち合わ
せ場所にこのバイクと同じよう
に改造されたチョッパーに跨っ
て停車していた女の人がいた。
待ち合わせ場所に到着したメン
バーが、同行者かと思って「お
はようございます」とその女性
の横にバイクを停めて気持ちの
よい明るい挨拶をした。
そうしたら、その女性は怪訝そ
うな面持ちで、ノーアンサー。
ガン無視のまま爆音轟かせる始
動をして去って行った。
私も最初、初参加の人かと思っ
たが、下手に見知らぬバイクの
女性に声をかけると今の時代
何拡散されるか分からないの
で、向こうから話しかけてこな
い限りは私は話しかけないよう
にしている。排気量を尋ねただ
けで「ナンシーおじさん」とか
「きもジジイ」とかネットで言
いまくるのが今の二輪載り女子
だからだ。1980年代の昭和の熱
きハート持ちだらけの時代とは
今は違う。人と人がリアル世界
で繋がろうとする事を嫌い、電
脳世界に一人閉塞し、リアルで
接触しようとする人間は全員
「~ハラ」として排除する根性
が現代人だからだ。
人繋がりを求めるのでさえリア
ルではやらずSNSや出会い系で
済まそうとするのが現代人。
なにがマッチングアプリだっ
つーの。そりゃ単なる出会い
系であり、目的はどちらさん
もいかがわしい。何クリーン
ぶって嘘をぶっくらこいてる
のか、と。偽善ぶりぶりがコ
ンプラ似非良市民と同じでキ
モいっつーの。
くっそつまらないし、こちとら
もとんとそんな連中には興味は
毛頭無いので、こちらからは一
切話しかけたりはしない。
私のちょい年下の走りの相方の
乗り屋などは、ロードで挨拶ヤ
エー(ネラー用語だ、これは)
をされても一切無視している。
全部シカトで無視(笑
私は挨拶されたら返すが、自分
からは一切挨拶サインなどは出
さない。知り合いでもなんでも
ない赤の他人だからだ。
バイク乗りは乗り屋もバイク載
りも含めて全員が「お仲間」で
はない。こちらからいらぬ挨拶
など、どこの誰だか判らねえ奴
にすっかっつーの。
ただ、私は礼を取る人には礼で
返す。
朝、声を掛けたメンバーは、見
知らぬ人であり、無言で無視で
走り去ったと知っても「知らな
い人でも挨拶は大切でしょう」
と言った。
それは正論だし、清々しいとい
うのはある。朝散歩の時とか。
ただ、犬を散歩していて、見知
らぬ犬連れの人に挨拶をしたら
軒並み犬を抱きかかえて不審者
のような態度を取る人たちばか
りの土地に四半世紀前程に転住
してからは、私は見知らぬ他人
に犬散歩中に挨拶をするのを完
全停止した。
挨拶をされて不審者がるほうが
どうかしているのだが、ぶっち
ゃけ、めんどっちー。
面倒くさい連中だらけなのだか
ら、いくらバイクに跨っている
からといって、こちらからあえ
て挨拶はしない。
二輪停めた先で「読者です~」
とか言って来るレアな人には話
をするけど。
そして、そういう人たちは大抵
気立てというか感じが良い人で
あるのが殆どだ。
ただし、うちのこの日記読みな
がら、他の場所で悪口言いまく
ってる人間もいて、そういうの
は情報も入って来る。
なおさら、話しかけたりはしね
えよな。くっそめんどくせえ(笑
どうせそういうのはネラー&
SNS中毒者と相場は決まってる。
同じ空気吸うのも嫌なこったい。
マニュアル二輪車でもロード
モデルの場合、私はシフトの
繋ぎはアップもダウンもかな
り円滑に操作操縦している。
スポーティー走行の場合、峠
などではコースと同じように
シフトアップではクラッチは
切らない。ストットルワーク
の回転同調でレーシングマシ
ンのようにシフトをポンポン
と上げて行く。特にギア比が
クロスしているシフト域では
それ。でないと快速走行がで
きないから。
また、減速シフトダウンの時
には必ずブリッピングしなが
らのブレーキング&シフトダ
ウンをする。四輪でいうとこ
ろのヒール&トゥのようなブ
レーキングしながらのレブ同
調シフトダウン操作。
状況に応じてまとめてシフト
ダウンして一気に繋ぐ時もあ
る。フレディやケニーのよう
に。その時には滑走区間があ
るのでレブは下がりエンジン
音は低くなる。繋ぐ時に回転
を同調させてクラッチを握っ
たままスロットルを開けて繋
ぐ。後輪はロックさせない。
公道では滅多に使わないが、
状況によっては使う時もある。
先日の市内城町会の本年度納
会走行で、私のベスパでのコ
ーナリング突っ込みと立ち上
がりを後ろから観ていた乗り
屋の友人が言った。
「なんでそんなにスムーズな
の?」と。
「これ、無段階変速車。オー
トマ(笑」と言ったら、「え?
左手カコカコシフトじゃない
の?」と言う。
旧型2ストベスパには乗った
事があるらしいが、私もそう
だがかなりワンテンポ遅れる
というか、他のマニュアルオ
ートバイのように瞬息シフト
が旧型ベスパは難しい。
私が妻の2ストベスパ100を借
りて乗っていた時もそうだっ
た。
よいしょ、という感じでシフ
アップやダウンをするのだ。
それでもダウンの時はブリッ
プしながら都内通勤で乗って
いたが。
左手にクラッチレバーとグリッ
プ回しシフトがある旧型ベス
パは快速爆速走行向きではな
く、あくまでジェントリーに
市街地を乗るような車の作り
になっている。
新型4ストベスパはホンダが
開発した無段階変速プーリー
を採用していて、日本の50cc
原付と同じくスロットル操作
だけで自動的に変速する。
クラッチレバーがないのでオ
ートマ4輪のような感覚だ。
だが、ギアが変速するのは感
知できる。
円盤の回転の遠心力によって
竹輪形のオモリをお皿の中で
移動させてベルトの幅と張力
を変更してシフト対応させる
のが日本が開発したスクータ
ーの駆動方式だ。これかなり
素晴らしいし、機構としては
面白い。
無段階変速のスクーターはお
手軽らくちん生活バイクの為
にそうした方式が開発採用さ
れた。
その結果、主婦層の買い物の
足として爆発的に売れた。
原付大国日本となったのは
ホンダが1976年にロードパル
をラッタッタの俗称とともに
発売ヒットし、ヤマハが本格
的なステップスルーのスクー
ターをパッソルで登場させて
からだ。
日本の二輪産業の土台はスポ
ーツバイクではなく、原付50
のファミリーバイクによって
支えられていた。
スクーターはスクーターで非
常に楽しみの範囲が広い。
普段の通学通勤の足としても、
買い物バイクという生活の足
としても、また走行外出のレ
ジャーやスポーツ走行におい
てもスクーターは乗り方、使
い方次第で人間の要求に充分
に応えてくれる。
オートバイに乗る人間には
シフト付きバイクこそが二輪
であり、オートマのスクータ
ーを格下に見たり毛嫌いする
人たちも多い。
非常に勿体ないと思う。
同じ二輪なのに特定機種を見
下して選択肢から排除するの
は自分で乗れる二輪の広がり
を自分で足かせして狭めて、
何だかとても勿体ない。
選択肢も生き方も狭めてるし。
私などは食いしん坊だからか
どうかは知らないが、ありと
あらゆる二輪に乗ってみたい。
先日の朝の待ち合わせの時、
若き友の一人はベスパを見て
「あ~。乗ってみたい。乗ら
せて、乗らせて」と言ったの
で、やたらと異様に広い駐車
場の中で乗らせたげた。
ニコニコ喜びながら乗り回し
ていたが、そういうのが私は
ホントのバイク好きなのでは
ないかなぁと思う。
人それぞれだけどさ。
俺などもモペットだろうとハ
ーレーだろうと乗ってみたい
もの。どんな二輪であっても
タイヤが二つ付いてる車には。
原付スクーターは1台持って
いると非常に面白い。
これ確実。嘘無し。
ホントは100ccあたりの2スト
が一番面白いのだけど今はそ
のクラスの新車2ストが無い
ので残念なんだけどさ。
最近、私の娘と同世代の若い
城町仲間が原付ビーノの2種
黄色ナンバー車を入手して何
度か一緒に走っている。
元々はミドルティーン時代以
外はずっとギア付きオートバ
イしか乗らなかった人だが、
原付スクーターがめちゃく
ちゃ面白いと会うたびに何度
も言う。食わず嫌いだったが、
美味しい物食べちゃってハマ
った感じかな。おしるこを敬
遠してたけど、一度食べたら
こりゃやみつきだぜ、みたい
な。
そのあんちゃんは今奥さんに
まで原付スクーター入手を薦
めているようだ(笑
ま、とにかく、ほんとに原付
スクーターは面白い。
特に原付2種がいい。
法定速度60km/hで四輪車と
同じだし、3車線交差点での
二段階右折義務も無い。
ごくふつーに他のバイクや
四輪車と同じ扱い。
税金激安、任意保険も四輪
で入っていたらファミリー
特約で契約できる。
シティビークルの決定版は
原付スクーターのものだよ。
実は、モーターリゼーション
から日本の状況を見ると、真
の国民車というのは原付スク
ーターの事なのでは。
原付車の購入はオススメ。
(記載に誤変換ありにて校正
して再掲載)
歴史散歩に行きました。
目指す目的地は、三原鍛冶の
一派である法華一乗派が鍛刀
した福山市水呑(みのみ)の
妙顕寺です。
旧水呑村の名前は妙顕寺の裏
の山に妙性が滝という滝があ
り、誰かがその水を呑み、そ
れが村名になったといわれて
います。
(一乗鍛冶妙性が焼入れに使
用した水を取った滝でしょう
か)
三原鍛冶の一派である法華一
乗派は、兄弟とも刀工で備後
国芦田郡(あしだごおり)の
助国一門で修行していたとい
われます。
備後国助国とは刀剣書(『刀
工銘鑑』得能一男/光芸出版)
によると元亨年間(1321~
1324)の刀工で、備前福岡
一文字延真系の末で助村の子
と伝えており、備後国安那郡
東条に住し、のちに備後国葦
田郡(あしだごおり)の国分
寺尼寺跡付近(現在の福山市
神辺町湯野と推定される)で
鍛刀したので「国分寺助国」
と呼ばれています。
助国は、同時に古三原正家の
親とも伝えられている歴史上
重要な刀工です。
元徳(1329~1331)、建武
(1334~1336)年紀の作が
あり、徳治2年紀(1307)の
作もあるので、鎌倉時代最末
期の徳治から建武(南北朝)
頃にかけての鍛冶であったこ
とが判明しています。
助国が古三原正家の親だとす
ると、三原鍛冶の起源の場所
は現在の福山市であることに
なります。(備後国古三原正
家初代は親とされる助国と同
じ徳治年間に活躍。正家本人
の本国は備前で唐河為遠の門
人と伝わる(『刀工大鑑』)。
これによると備前鍛冶と三原
鍛冶の関係は濃厚である)
備後助国の時代は鎌倉最末期
で、三原鍛冶の人的な流れの
源流は備前福岡一文字派の系
統ということになります。
三原鍛冶の作風は備前伝では
なく大和伝が強いことから、
従来の説では三原鍛冶は畿内
大和から高野山領である中世
三原地域(みつきごおり)に
下った大和鍛冶に源流・起源
を想定する説が通例でしたが、
作風や技術とは別に、人的流
れとしては備後国葦田(芦田)
郡に住した備前鍛冶の流れが
一方で存在することは見逃せ
ない点であり、学識経験者や
刀剣専門家による今後の研究
深化が期待されます。
さて、三原鍛冶の源流ともい
える一派である法華一乗鍛冶
のゆかりの地を訪ねてみます。
(今後の研究によるが、鎌倉
末期の初代三原正家の親が法
華一乗であることが別資料で
学術的に検証できたならば、
もしかするとこの法華一乗派
は「一派」ではなく、三原鍛
冶の大元=最源流=始祖とい
う存在に比定されるかも知れ
ず、斯界の研究者の今後の研
究に俟つ)
妙顕寺の成立はかなり古い。
元来この地区から鞆の浦にか
けては古い土地で、万葉集に
も歌われています。
私は大学の時にある科目で万
葉集で大伴旅人に歌われた鞆
と「ムロの木」に関する研究
論説を書き上げた経験があり
ますが、まあ、言ってみれば
備後国の鞆はとにかく古代か
ら瀬戸内海通行の要衝として
あった土地でした。
備後鞆の浦は万葉の時代から
重要な土地で、西日本の東西
流通の拠点地だったのです。
ですから妙顕寺が古いといっ
ても、万葉の頃から人が通っ
たこの辺りからすれば、寺が
できた今から650年前の中世
の鎌倉時代などはさほど古く
ないのかも知れません。
鞆は近年ではアニメ映画『崖
の上のポニョ』のモデルとな
った場所ですが、妙顕寺が建
立された場所はその鞆に隣接
する村である水呑(みのみ)
で、福山方面から鞆に向かう
と鞆への玄関口にあたります。
福山の妙顕寺は寺伝では、延
文元年(1356)に法華一乗
鍛冶妙性の建立とされている
ようですが、別伝では京都妙
顕寺の日像に法華経を学んだ
兄弟が出家し、正和3年(1314)
に京へ赴き日蓮宗を修行して、
後に水呑妙顕寺の第三世妙性
上人、第四世一乗本性上人と
して妙顕寺の後継となったと
されます。
寺自体は元京都大本山妙顕寺
の末寺という位置にあり、中
本寺格の資格であったとされ
ています。寺の建立は日蓮の
没後74年後ということになり
ます。
地図上では、等高線のない地
図で確認していたため安易に
考えていましたが、道程は難
所でした。
江戸期のような平地の城下に
ある寺などとは異なり、山の
裾野にあります。
しかも道がかなり細い。
寺に行くまでの道中は軽自動
車が脱輪しそうな山間の古い
住宅街の道で、3ナンバーの
車を壁にこすらないように、
また脱輪転落しないように気
をつけながら山を登りました。
原付のスクーターあたりでな
いときついよ、ここは。
ベンツなんかだとまず行けま
せん。やはり車は下の川沿い
に置いて徒歩で上るのが正解
でしょう。
裏山は後山グリーンラインが
通っているワインディングの
山です。(大学の時に広島に
来た時にはよく膝をこすって
RZ350でグリーンラインを走
った。死人が多く出すぎて、
後年バイクは2012年の現在に
至るまで全面通行禁止、四輪
車も夜間通行禁止になった。
交通事故死だけでなく、時々
殺人事件の死体も遺棄された
峠で、幽霊がよく出るので有
名。私の福山の従兄弟も学生
時代に恐怖の幽霊を複数人で
目撃している)
やっとの思いで到着しました。
福山の街の西部が一望できます。
川の向こうが市街中心部。
長い真っ直ぐな階段がかなり
下の地区まで延びています。
金比羅さんみたい。
これは徒歩でもかなり気合が
要る寺です。
少し降りてみましたが、映画
のロケでもできそうな良い雰
囲気の階段でした。
寺の駐車場(車で行くのはや
めといた方がいいです)から
本堂方向へ。
かなり大きな寺。古刹ですね。
本堂です。
本日のお目当ては、妙顕寺創
建650年記念として、檀家が
500家(すごい数だ)の寄付
により2006年に建てられた本
堂脇の法華一乗鍛冶鍛刀の銅
像です。
三原鍛冶法華一乗兄弟の仏門
の師である日像上人と一乗兄
弟の妙性上人、本性上人は三
体尊像として銅像が建立され
たようです。650年式典は多
くの人が集まる中しめやかに
行われたそうで、檀家衆の信
心深さがよく伝わります。
後ろに立つのが日像上人、横
座にいて小槌を振るうのが妙
性、向こう槌の大槌を振るう
のが本性ということでしょう。
あれ?
むむむっ。
ケチをつける訳ではありません
が、気づいてしまった・・・。
これ、本物の刀鍛冶が見たら
「やめてくれ」と言いますよ。
銅像製作業者はもっと研究とい
うか、きちんとした刀鍛冶の監
修を受けて製作にあたってほし
かった。折角の銅像なのに。
まず、これは一体何をしてい
る場面なのでしょうか。
向こう槌が大槌を振るうとい
うことは、鍛錬の工程です
(折り返し等)。
横座の小槌は拍子を取るよう
に金床(かなしき)を叩いて
指示するものですが、自らも
思い切り叩こうとしている。
しかも、決定的に非現実的な
のがこれ。
刀は脇差サイズ(小狐丸か?)
ですが、形が出来上がってい
ます。
つまり、横座(主人の鍛冶)
が火造り(鍛錬後の刀身を小
槌で叩いて刀の形にしていく
工程)を終えた刀を向う槌が
大槌で思い切り叩いている。
刀の形が崩れてへこんでしま
います、こんなことしたら。
しかも、横座が左手に握って
いるのはテコ鉄。火造りが終
わった刀に折り返し鍛錬用(そ
れも江戸末期の工法の)の梃
子鉄が着いてる。
二重三重四重にちぐはぐであ
り得ないこの原図を描いたの
は一体誰だ!
悲しすぎるぜ。
いや、これはきっと「古刀は
折り返し鍛錬せずに素延べ造
り」という一説を正確に表現
したものに違いない(と日記
には書いておこう)。
だからきっと正確な構図なの
だ。
もしくは、鍛刀の場面ではな
く、神事としての式典の際に
刀の形の鉄を二人で叩いてい
る儀式の描写なのだ。
苦しいが。
(ならばテコ鉄は?テコ鉄と
いうのは、積み沸かし・折り
返し鍛錬のために近世に考案
されたもの。鎌倉時代には梃
子鉄の存在が確認されていな
い)
※梃子鉄(てこがね)につい
て記載された文献
梃・・・『剣工秘伝志』(水
心正秀/文政4年)
手・手子金・・・『剣工談』
(沼田有宗/文化5年)
鉄梃・・・『煉刀造法伝』
(伯耆守正幸/安永)
梃子鉄の縄巻・・・『刀剣五
行論』(森岡朝尊/嘉永3年)
結局、何をしているところの
銅像かよくわからない。
福山弁で言うと「こんぎゃー
なんはありえまーが」といっ
たところ。
でも、考えたらよくある有名
な「小鍛冶」の絵をモチーフ
としているのかもしれない。
法華一乗の小太刀は小狐丸と
いうくらいだし。
「小鍛冶」。三条宗近は狐の霊
の導きにより名刀を作り上げた
という伝説。謡曲や能の演目と
もなっており、古くから日本人
に親しまれた。
気を取り直して、一乗鍛冶の
鍛刀跡地という場所をたずね
てみたいと思います。この寺
の近所。
「法華一乗鍛冶場跡
刀鍛冶・法華一乗の鍛冶場跡。
「天目一箇大神・鍛冶の神」
を祀る祠とふいご石があり、
ふいご石は当時祭祀に使われ
ていたと言われる。刀鍛冶・
鍛冶場が町名の「鍛冶谷~鍛
冶屋」となった。
刀鍛冶法華一乗は、千三百年
代の人で後の「妙顕寺」建立
の第三世・妙性上人。」
と記された柱あり。
鍛刀場跡地は現在は一般の方
の住居敷地内となっているよ
うです。(ネット画像)
崖の上の鞆って美しい所です。
吾妹子(わぎもこ)が見し
鞆の浦のむろの木は
常世にあれど見し人ぞなき
(大伴旅人)
この写真に写っているのがムロ
の木です。
この木と古人の詠んだ歌につい
ての現地調査の考察を私は学生
時代に論説にまとめて提出し、
その教科の単位を取ったのでし
た。
最後の一文はこうだった。
「むろのきと共にこの悠久の時
を湛える眼下の海は、いつまで
その面持ちを浮かべ続けるのだ
ろうか」