渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

備後三原鍛冶の祖をたずねて(2012年2月5日記事再掲)

2024年12月14日 | open





歴史散歩に行きました。
目指す目的地は、三原鍛冶の
一派である法華一乗派が鍛刀
した福山市水呑(みのみ)の
妙顕寺です。

旧水呑村の名前は妙顕寺の裏
の山に妙性が滝という滝があ
り、誰かがその水を呑み、そ
れが村名になったといわれて
います。
(一乗鍛冶妙性が焼入れに使
用した水を取った滝でしょう
か)

三原鍛冶の一派である法華一
乗派は、兄弟とも刀工で備後
国芦田郡(あしだごおり)の
助国一門で修行していたとい
われます。
備後国助国とは刀剣書(『刀
工銘鑑』得能一男/光芸出版)
によると元亨年間(1321~
1324)の刀工で、備前福岡
一文字延真系の末で助村の子
と伝えており、備後国安那郡
東条に住し、のちに備後国葦
田郡(あしだごおり)の国分
寺尼寺跡付近(現在の福山市
神辺町湯野と推定される)で
鍛刀したので「国分寺助国」
と呼ばれています。
助国は、同時に古三原正家の
親とも伝えられている歴史上
重要な刀工です。
元徳(1329~1331)、建武
(1334~1336)年紀の作が
あり、徳治2年紀(1307)の
作もあるので、鎌倉時代最末
期の徳治から建武(南北朝)
頃にかけての鍛冶であったこ
とが判明しています。

助国が古三原正家の親だとす
ると、三原鍛冶の起源の場所
は現在の福山市であることに
なります。(備後国古三原正
家初代は親とされる助国と同
じ徳治年間に活躍。正家本人
の本国は備前で唐河為遠の門
人と伝わる(『刀工大鑑』)。
これによると備前鍛冶と三原
鍛冶の関係は濃厚である)
備後助国の時代は鎌倉最末期
で、三原鍛冶の人的な流れの
源流は備前福岡一文字派の系
統ということになります。
三原鍛冶の作風は備前伝では
なく大和伝が強いことから、
従来の説では三原鍛冶は畿内
大和から高野山領である中世
三原地域(みつきごおり)に
下った大和鍛冶に源流・起源
を想定する説が通例でしたが、
作風や技術とは別に、人的流
れとしては備後国葦田(芦田)
郡に住した備前鍛冶の流れが
一方で存在することは見逃せ
ない点であり、学識経験者や
刀剣専門家による今後の研究
深化が期待されます。

さて、三原鍛冶の源流ともい
える一派である法華一乗鍛冶
のゆかりの地を訪ねてみます。

(今後の研究によるが、鎌倉
末期の初代三原正家の親が法
華一乗であることが別資料で
学術的に検証できたならば、
もしかするとこの法華一乗派

は「一派」ではなく、三原鍛
冶の大元=最源流=始祖とい
う存在に比定されるかも知れ
ず、斯界の研究者の今後の研
究に俟つ)


妙顕寺の成立はかなり古い。
元来この地区から鞆の浦にか
けては古い土地で、万葉集に
も歌われています。
私は大学の時にある科目で万
葉集で大伴旅人に歌われた鞆
と「ムロの木」に関する研究
論説を書き上げた経験があり
ますが、まあ、言ってみれば
備後国の鞆はとにかく古代か
ら瀬戸内海通行の要衝として
あった土地でした。
備後鞆の浦は万葉の時代から
重要な土地で、西日本の東西
流通の拠点地だったのです。
ですから妙顕寺が古いといっ
ても、万葉の頃から人が通っ
たこの辺りからすれば、寺が
できた今から650年前の中世
の鎌倉時代などはさほど古く
ないのかも知れません。

鞆は近年ではアニメ映画『崖
の上のポニョ』のモデルとな
った場所ですが、妙顕寺が建
立された場所はその鞆に隣接
する村である水呑(みのみ)
で、福山方面から鞆に向かう
と鞆への玄関口にあたります。

福山の妙顕寺は寺伝では、延
文元年(1356)に法華一乗
鍛冶妙性の建立とされている
ようですが、別伝では京都妙
顕寺の日像に法華経を学んだ
兄弟が出家し、正和3年(1314)
に京へ赴き日蓮宗を修行して、
後に水呑妙顕寺の第三世妙性
上人、第四世一乗本性上人と
して妙顕寺の後継となったと
されます。
寺自体は元
京都大本山妙顕寺
の末寺という位置にあり、中
本寺格の資格であったとされ
ています。寺の建立は日蓮の
没後74年後ということになり
ます。


地図上では、等高線のない地
図で確認していたため安易に
考えていましたが、道程は難
所でした。

江戸期のような平地の城下に
ある寺などとは異なり、山の
裾野にあります。

しかも道がかなり細い。
寺に行くまでの道中は軽自動
車が脱輪しそうな山間の古い
住宅街の道で、3ナンバーの
車を壁にこすらないように、
また脱輪転落しないように気
をつけながら山を登りました。
原付のスクーターあたりでな
いときついよ、ここは。

ベンツなんかだとまず行けま
せん。やはり車は下の川沿い
に置いて徒歩で上るのが正解
でしょう。
裏山は後山グリーンラインが

通っているワインディングの
山です。(大学の時に広島に
来た時にはよく膝をこすって
RZ350でグリーンラインを走
った。死人が多く出すぎて、

後年バイクは2012年の現在に
至るまで全面通行禁止、四輪
車も夜間通行禁止になった。
交通事故死だけでなく、時々
殺人事件の死体も遺棄された
峠で、幽霊がよく出るので有
名。私の福山の従兄弟も学生
時代に恐怖の幽霊を複数人で
目撃している)


やっとの思いで到着しました。

福山の街の西部が一望できます。


川の向こうが市街中心部。
長い真っ直ぐな階段がかなり
下の地区まで延びています。
金比羅さんみたい。

これは徒歩でもかなり気合が
要る寺です。

少し降りてみましたが、映画
のロケでもできそうな良い雰
囲気の階段でした。


寺の駐車場(車で行くのはや
めといた方がいいです)から
本堂方向へ。


かなり大きな寺。古刹ですね。


本堂です。
本日のお目当ては、妙顕寺創
建650年記念として、檀家が
500家(すごい数だ)の寄付
により2006年に建てられた本
堂脇の法華一乗鍛冶鍛刀の銅
像です。




三原鍛冶法華一乗兄弟の仏門
の師である日像上人と一乗兄
弟の妙性上人、本性上人は三
体尊像として銅像が建立され
たようです。650年式典は多
くの人が集まる中しめやかに
行われたそうで、檀家衆の信
心深さがよく伝わります。



後ろに立つのが日像上人、横
座にいて小槌を振るうのが妙
性、向こう槌の大槌を振るう
のが本性ということでしょう。


あれ?


むむむっ。


ケチをつける訳ではありません
が、気づいてしまった・・・。

これ、本物の刀鍛冶が見たら
「やめてくれ」と言いますよ。

銅像製作業者はもっと研究とい
うか、きちんとした刀鍛冶の監
修を受けて製作にあたってほし
かった。折角の銅像なのに。


まず、これは一体何をしてい
る場面なのでしょうか。

向こう槌が大槌を振るうとい
うことは、鍛錬の工程です
(折り返し等)。

横座の小槌は拍子を取るよう
に金床(かなしき)を叩いて
指示するものですが、自らも
思い切り叩こうとしている。


しかも、決定的に非現実的な
のがこれ。


刀は脇差サイズ(小狐丸か?)
ですが、形が出来上がってい
ます。

つまり、横座(主人の鍛冶)
が火造り(鍛錬後の刀身を小
槌で叩いて刀の形にしていく
工程)を終えた刀を向う槌が
大槌で思い切り叩いている。

刀の形が崩れてへこんでしま
います、こんなことしたら。

しかも、横座が左手に握って
いるのはテコ鉄。火造りが終
わった刀に折り返し鍛錬用(そ
れも江戸末期の工法の)の梃
子鉄が着いてる。


二重三重四重にちぐはぐであ
り得ないこの原図を描いたの
は一体誰だ!

悲しすぎるぜ。
いや、これはきっと「古刀は
折り返し鍛錬せずに素延べ造
り」という一説を正確に表現
したものに違いない(と日記
には書いておこう)。

だからきっと正確な構図なの
だ。
もしくは、鍛刀の場面ではな
く、神事としての式典の際に
刀の形の鉄を二人で叩いてい
る儀式の描写なのだ。
苦しいが。
(ならばテコ鉄は?テコ鉄と
いうのは、積み沸かし・折り
返し鍛錬のために近世に考案
されたもの。鎌倉時代には梃
子鉄の存在が確認されていな
い)

※梃子鉄(てこがね)につい
て記載された文献
梃・・・『剣工秘伝志』(水
 心正秀/文政4年)

手・手子金・・・『剣工談』
 (沼田有宗/文化5年)

鉄梃・・・『煉刀造法伝』
 (伯耆守正幸/安永)

梃子鉄の縄巻・・・『刀剣五
 行論』(森岡朝尊/嘉永3年)

結局、何をしているところの
銅像かよくわからない。
福山弁で言うと「こんぎゃー
なんはありえまーが」といっ
たところ。
でも、考えたらよくある有名
な「小鍛冶」の絵をモチーフ
としているのかもしれない。
法華一乗の小太刀は小狐丸と
いうくらいだし。

「小鍛冶」。三条宗近は狐の霊
の導きにより名刀を作り上げた
という伝説。謡曲や能の演目と
もなっており、古くから日本人
に親しまれた。

気を取り直して、一乗鍛冶の
鍛刀跡地という場所をたずね
てみたいと思います。この寺
の近所。


「法華一乗鍛冶場跡
刀鍛冶・法華一乗の鍛冶場跡。
「天目一箇大神・鍛冶の神」
を祀る祠とふいご石があり、
ふいご石は当時祭祀に使われ
ていたと言われる。刀鍛冶・

鍛冶場が町名の「鍛冶谷~鍛
冶屋」となった。

刀鍛冶法華一乗は、千三百年
代の人で後の「妙顕寺」建立
の第三世・妙性上人。」
と記された柱あり。


鍛刀場跡地は現在は一般の方
の住居敷地内となっているよ
うです。(ネット画像)



崖の上の鞆って美しい所です。




吾妹子(わぎもこ)が見し
鞆の浦のむろの木は

常世にあれど見し人ぞなき
(大伴旅人)


この写真に写っているのがムロ
の木です。
この木と古人の詠んだ歌につい
ての現地調査の考察を私は学生
時代に論説にまとめて提出し、
その教科の単位を取ったのでし
た。
最後の一文はこうだった。
「むろのきと共にこの悠久の時
を湛える眼下の海は、いつまで
その面持ちを浮かべ続けるのだ
ろうか」





 


この記事についてブログを書く
« 13日の金曜日 | トップ | 無段階変速車の円滑性(再掲) »