カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

聖変化は実体変化ですよ ー 「キリストの聖体」の祝日に想う

2024-06-02 17:52:29 | 神学


 このところ祝祭日が続く。今日は「キリストの聖体」の祝日(B年)だ。基本的にカトリックでの祝日だ(1)。といっても特定の歴史的出来事を祝うというものでもなさそうで、あえて言えば、最後の晩餐、つまり食事に結びつけられる祝日ということらしい(2)。

 神父様はお説教で、主に福音朗読(マルコ14:12~16、22~26)(3)を説明された。今日は初聖体の女の子が一人いてお祝いがあったので(4)、「食事」と「聖体」の説明をされた。だが難しい話だった。

 聖体とはパンと葡萄酒のことだ。聖体拝領でパンをいただくということは、「パンの形で来られるキリストをいただく」ということだ。パン(ホスチア)は文字通りキリストの体で、それを食するということだ。

 これは難しい話だ。ごミサは構造を持っているとはいえ、複雑な構成をもつ典礼だ。なかでも奉献文がミサの中心であり、さらにいえば聖変化の部分が頂点をなす(5)。聖変化とはパンと葡萄酒がキリストの体に変化するということだ。「変化」するとは「実体」が変化するということだ。パンはイエスの体のシンボルだとか、葡萄酒はイエスの血の象徴だ、ということではない。「実体変化」だというのが教義だ(6)。聖変化とは実体変化です、と神父様はおっしゃっておられたようだ(7)。初聖体の子に意味が通じたのだろうか。

 

【菊池大司教のガーナ時代の聖体行列と聖体顕示台】(週刊大司教第169回)

 


1 日本では考えられないが、国の祝日になっている国・地域も多いようだ。「食事」が中心という意味では、仏教国の日本では「お盆」みたいなものかもしれない。聖体はカトリックでの七つの秘跡の一つだが、プロテスタントでは秘跡の意味が異なるので、聖体は入ってこないようだ。
2 定着したのは13世紀以降らしい。それ以前はミサではいろいろな形の典礼があった、たとえば奉献文は定型化されていなかったが、会衆の関心が典礼から聖体そのものへ移っていったということらしい。
3 ここで13~21節はあえて読まれない。ユダの裏切りの予言の話だからだ。
4 初聖体だから、幼児洗礼だとすれば、おそらく小学校2~3年生くらいか。
5 当教会のM神父様は第3奉献文を使われることが多い。奉献文でいえば、聖別の「エピクレーシス」で「聖霊」を呼び求める(「あなたに捧げるこの供え物を 聖霊によって尊いものにしてください」)。そして聖別の祈りが唱えられる(皆、これを取って食べなさい・・・・・皆、これを受けて飲みなさい・・・」)。
6 「実体」とは神学的には人性(体・血・霊魂)と神性のすべてで、通常はトリエント公会議での定式化が用いられるようだ。アリストテレス風のトマス的理解のようだ。キリストはパンと葡萄酒の形をしてそこに「現存」しておられるという説明だ。哲学的には実体とは多様な概念のようだが、カトリックでは存在そのものというよりは、あくまで概念だとされる。パンや葡萄酒の物資としての性質(化学組成など)は変わらなくとも実体は変化すると考える。実体とは概念で、目で見たり触ったりできるものではないからだという説明だ。こういう神学的・哲学的説明より、聖体拝領でいただくご聖体は(パンは)キリストの体そのものだと信じることがキリストの聖体が秘跡だという意味なのであろう。
7 神父様が強く警告しておられたのは、聖体拝領でいただいたパンをそのまま家に持ち帰ってしまう人がいるようだが、それはしてはいけない。その場ですぐに食べなければならない、ということだった。かって口で聖体拝領をしていた頃、侍者はおしゃもじのような聖体皿を顎の下に差し出して、パンがこぼれ落ちるのを防いでいた。両形態で、葡萄酒をこぼしたりすると大変なことになったりしたことを思い出した。パンはパンだ、と言ってしまえばそれまでなのだが、やはり家に持ち帰るものではないだろう。

 

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なぜ神は「父」なのか ー 三位一体の祝日に想う

2024-05-27 15:34:25 | 神学


 今日は三位一体の主日で多くの方がごミサに与った。神父様はお説教で主に「洗礼」の意味について話されたが、一つ私には興味深く聞こえたお話があった。それは、三位一体のイメージについてのお話で、幼児洗礼の方と成人洗礼の方のイメージは少し異なるのではないかというものであった。
 幼児洗礼の方は三位一体と聞くと「アッバ、父よ」というなにか優しいイメージを抱くが(1)、成人洗礼の方は三位一体と聞くとそれははカトリック信仰の根幹的教義だとなにか難しいもののようなイメージを持たれるのではないかというお話であった。こういう特徴付けができるのかどうか私にはわからないが、三位一体って何だろうと考えさせられた(2)。

 三位一体説はキリスト教がキリスト教である根幹的教義であることはわかっているが(3)、通常は三位一体は「神秘」であり、「秘跡」である、とか説明されて、どうせ自分には理屈ではわからないものと想っていた。神学を少しかじってもわからないものはわからない(4)。

 特に教会での入門講座では三位一体がどのように教えられているのかは興味深い。言葉でいくら説明されてもわかりずらいのではないだろうか。たとえば、小笠原優神父は入門講座用のテキストである『キリスト教のエッセンスを学ぶ』(2018)のなかで、三位一体論の紹介と説明は第5章の「キリスト教の誕生」という歴史の解説の部分でおこなっておられる。具体的には「洗礼」の解説の中で説明している。「唯一の神が「三位一体」という交わりの様相を帯びているということは、人間の思考能力を遙かに超えていることだけに、まことに興味深い問題だと言わなければなりません」(186頁)と延べ、神学的説明には入られない。また、その後続書『信仰の神秘』(2020)でも「キリスト教の人間観」が論じられ、もっぱら神学的人間論が中心で、キリスト論が論じられているわけではない(5)。

 今日の「聖書と典礼」の「三位一体」の解説の箇所でも、小暮泰久師は、「「三位一体の神」は啓示であり、人間の自然本姓たる理性のみでは決して知り得ることのできない神秘です」と、啓示論のテーマだとしている。神学的にはそうなのだろうが、さらなる説明を期待したいところだ。


 われわれはいつも「父と子と聖霊のみ名によって」とオーム返しに唱えているが、もう少しきちんとミサの式次第を勉強しないといけないようだ。

【聖書と典礼】

 

1 マルコ14:36 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります・・・」

2 三位一体の教義は結局使徒信条のことであり、洗礼式で用いられる信仰宣言でもある(使徒信条は12箇条、洗礼式用は9箇条)(阿部仲麻呂『使徒信条を詠む』2014)
3 エホバの証人、旧統一教会、キリストの幕屋などキリスト教(系)を名乗る教団教派は多いようだが、三位一体の教義をとらないのでキリスト教とは呼べない。
4 カトリック大辞典、岩波キリスト教辞典、キリスト教組織神学事典、岩波哲学事典などの身近な辞典類の説明をみてもほとんど同じ方が書いておられ、内容もそれほど変わらない。古代教会のでの三位一体論争(アタナシオスの評価)、三位一体のギリシャ型定式(ヒュポスタシス自存とウーシア実体)、ラテン型定式(ペルソナ位格とエッセンシア本質)の比較と説明、K・。ラーナーの自己譲与論、などが説明される。新約聖書に三位一体論が展開されているわけではなさそうで、教義としての確立は、三位一体論ならニケア公会議(325)頃、聖霊論を含めればコンスタンチノープル公会議(381)頃、とすればかなり遅いことになる。
 神が父であるかという問いも、聖霊の発出論(聖霊は父から来るのか、子(イエス)からも来るのか)の文脈の中での問いで、たとえばフェミニズムの父権性批判の意味ではない。
 同じように問題は日本語の訳で、ペルソナを通常は人格と訳すが、神学では位格と訳している。人格という訳語は個(人間)の独自性を連想させるが、位格という訳語を使わないと神の唯一性を表現できないようだ。
5 三位一体論はキリスト論の中で論じられることが多く、キリスト教的人間論では論じづらいようだ。たとえば、「神学ダイジェスト」No.134(2023夏)は特集が「神学的人間論の現在」として組まれ、K・ラーナーの論文「カトリック神学的人間論の提起」が巻頭を飾っている。

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蔵書整理で廃棄処分のカール・ラーナーとハンス・キュンク

2023-08-30 18:31:09 | 神学


 先日教会の図書室で本棚を覗いていたら驚くべき光景に出くわした。
私どもの教会の図書室は図書室といえるほどの独立した部屋ではなく、集会室の壁の一部に本棚が数本置いてあるだけである。


 とはいえ、この書架には、昔の聖書、カトリック大辞典、資料集、製本された過去の月報、他教会からの会報など重要なものがきちんと整理保存されている。図書室をどの程度充実させるかはその時の主任司祭や教会委員会の意向によって変わるので、時代の変化を知ることもできる。

 今回、「蔵書を整理するので不要な本を処分します。ご入用の方はお持ち帰りください」との掲示とともに段ボール箱に数十冊の本が放り込まれていた。何気なく覗いてみるとそこにはなんと、「キリスト教とは何か」(カール・ラーナー)、「公会議に現れた教会」(ハンス・キュンク)が無造作に置かれていた。前者は(邦訳)は1981年、後者は1966年なので、あまりにも古いということで処分の対象となったのであろう。

 それにしてもラーナーの「キリスト教とは何か」はラーナーの晩年に書かれおそらく代表作といってよい著作だろう。値段が高くて私は手が出なかった書物だ(1994年に新版がでている)。後者はパンフレット風だが第二バチカン公会議の立役者キュンクの教会論だ。私は涙を流しながら喜んでいただいてきた(また返すつもりなので借りてきたと言うべきか)。

 ラーナーとキュンクが選ばれていたのは偶然なのだろうか。キュンクは一昨年訃報が伝えられたばかりだ。ラーナーは現在の日本のカトリック神学者のなかで最も影響力のある神学者だろう。『神学ダイジェスト』(1)では繰り返し特集が組まれており、正平協よりの司祭からは偶像視されているように見える。
 ラーナーとキュンク。両者の比較は専門家たちがいろいろやっているようなので、私も学んでいきたいものだ。ラーナーの「匿名のキリスト者」論、キュンクの「下からのキリスト教」論、ラーナーの超越主義に基づく普遍主義説、キュンクの多様性説に戻づく教会改革論、というような言葉が脳裏に浮かんでくる。二人とも現代の混迷するカトリック教会が将来進むべき道をそれぞれ示しているようだ。

 キリストを知らないで死んだ人も救われるのですか。教皇は不可謬だと聞きますが本当ですか。どうして女性は司祭になれないのですか。死んだらお寺のお墓に入ってもいいのですか・・・などなどごく普通の質問への答えは、ほとんど『カトリック教会の諸宗教対話の手引き――実践Q&A』(2)に記されているが、その神学的な意味はラーナーやキュンクにさかのぼらなければよく理解できない気がする。

 蔵書整理でラーナーとキュンクが廃棄処分される時代がきている。日本社会の分裂を反映するかのようにカトリック教会にも分裂の兆しが訪れているのかもしれない(3)。教会の一致を、教会内の一致を、これからも辛抱強く祈っていこう。

【初版】

 

 


1 上智大学神学会誌。現在は年2回刊行されているようで、著名な外国神学者の論文を翻訳紹介している。編集長は光延一郎師。イエズス会で、元上智大学神学部長。正平協の秘書だという。

2 日本カトリック司教協議会 2009

3 キュンク風に言えば、土着派対ローマ派、ラテンミサ派対公会議派、リベラル派対保守派、正平教派対信仰派、などなど教会の分裂の線はいろいろ引くことができるだろう。しかもそれらの分裂は普通の 保守/革新、伝統/近代、右/左というイデオロギー軸できれいに線引きできない。例えば女性司祭は反対だが護憲一本やりという組み合わせもあるようだ。
 それにしてもラーナーの『キリスト教とは何か』は難しい。「現代カトリック神学基礎論」とサブタイトルがついているが、これはもともと講義録のようだ。原題は Grundkurs des Glaubens:Einfuhrung in den Begriff des Christentums 1976 。キリスト教入門という意味なのだろうが、入門書ではない。ただ。論述の仕方は、神論・人間論・原罪論・救済論・キリスト論・教会論・終末論とオーソドックスな議論の進め方(章立て)となっている。

 

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贖罪論的救済論からの脱出 ー 救済論(3)(学び合いの会)

2023-03-31 09:45:54 | 神学


Ⅴ 中世以降

1 アンセルムスの充足説

 中世の贖罪論的救済論は、カンタベリーのアンセルムス(1033-1109)の充足説によって明確な形をとることになった(1)。アンセルムスは、『神はなにゆえに人と成り給うたか』(Cur Deus homo ?)という著作において次のように述べる。前稿でも紹介したが、繰り返せば、絶対者に対する罪の償いは人間は有限で小さい存在であるゆえに人間には不可能である。神は愛であるから、人間の罪を赦したいと思うが、同時に神は正義であるから、人間の償いを受け入れられない。この矛盾を解決する唯一の方法は、神ご自身が人となって神に償うことである。そのため、キリストが人と成り、十字架上の死を通して人類の罪を贖ったのである。

 こういう罪中心の救済論はアウグスチヌスの原罪論のライン上にあり、キリストの受難と十字架上の死のみが救いをもたらしたと主張するものである。換言すれば、イエスの公生活や教えは意味を持たないことになる。
 こういう贖罪論的な救済論は今日に至るまでカトリック教会に強い影響を与えている。ただし、現代の神学ではこのような贖罪論的救済論には批判的な見解も強まっているという。

2 トマス・アクィナスの仲介者説

 トマス・アクィナス(1225-74)は、聖書をベースに、イエス・キリストを神と人間との間の唯一の仲介者と捉えた。こういう把握の仕方は救済者像としては総合的救済者像ともいえるものである(2)。そして、救済の業の基本は神への愛と人間への愛だと主張した(3)。

3 前回はこのあと、M・ルターの十字架の神学による救済論、19世紀の自由主義神学の救済論が検討されたが、今回は議論の対象になっていない。

Ⅵ 現代神学

 前回はここでも、K・ラーナー(1904-1984)の無名のキリスト者論、、モルトマン(1926- )の希望の神学論、ラテン・アメリカの解放の神学などが論じられたが、今回は言及はなかった。

1 第二バチカン公会議

  現代のカトリック教会の救済論として、『カトリック教会のカテキズム』(2002)にある議論が紹介された。これは、第二バチカン公会議の思想を要約するものとして閉会30周年を記念して編纂されたものである。
 同書の第1編第2部第2章第4項第2節「イエスは十字架につけられて死ぬ」の第2項「神の救いの計画におけるキリストのあがないの死」の部分が紹介された(180~182頁)。太字の部分だけを引用する。

①イエスは神のお定めになった計画によって引き渡された
②聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死なれた
③神は罪と関わりの無いかたを、わたしたちのために罪となさいました
④神はご自分のほうから、普遍的なあがないの愛を示された

 続く第3項は「キリストはわたしたちの罪のためにご自分を御父にささげられた」と題され、五頁にわたって詳しい説明がある。長文なので紹介は省くが、基本は「神の子羊」論・「いけにえ」論である。

 以上の部分が現代のカトリック教会の救済論の中心であり、教会の伝統にそった救済論だという。

2 現代の様々な救済論

 第二バチカン公会議以降、様々な救済論が現れた。伝統的な救済論の一面性、狭隘性を克服し、より包括的な救済論を探究する試みがなされた。これら現代の救済論に共通する特色は以下にようにまとめることが出来る。

①東方教会の救済論を取り入れて、受肉による神の人間性の取得が人間を神との密接な関わりの中におくという、受肉による人間の「神化」という考え方。(神化論
②十字架上の死だけではなく、イエスの全生涯に救済的な意味があることを強調する。イエスの全生涯を踏まえ、「過越の神秘」がイエスによる救済の出来事の頂点であるとする考え方。(過越論
③救いは個人的・霊的次元だけではなく、共同体的・身体的次元をも包括するものである。来世における完成を目指しつつも、すでに現世において始まる神の生命への参与を目指す。神の国の実現を目指すキリスト者はこのような全体的・包括的救いの実現を志向する。(包括的救済論
④救済は究極的には神の働きによるものではあるが、同時に人間の努力がはたす準備的・協同的役割も不可欠である。信仰者の側の個人的・社会的次元での積極的努力も必要である。現世における人類の努力による諸悪からの解放が救いの意味である。(人間の関与)
⑤アンセルムスの充足説は厳格な神の像を前提としているが、これは愛の神の像と一致しない。このため現代人の感覚に合わないので支持を失いつつある。かれの説は当時のゲルマンの封建社会の法概念に強く影響されており、現代性を失っているという考え方。(贖罪説批判
⑥罪や救済の概念の再検討を通して、より広い総合的・包括的な救済論の把握が目指される。救済論は最終的には人間を束縛するあらゆる罪からの解放であり、神が本来的に意図している真の自由を人間にもたらすことである。(自由の実現)(4)

【過越の聖なる三日間】


1 古代教会におけるキリスト論はすでに触れたように第1回ニケア公会議から続く6回の公会議でほぼ確立した。これら公会議は、初期教会のキリスト論(パウロの霊肉キリスト論:ロマ書1~3や、ヨハネのロゴス・キリスト論:ヨハネ1~18)や異端説(キリスト養子説・仮現説・容態説など)への反駁、さらには多くの教父たちの教えを整理したものである。中心的なテーマはキリストにおける神性と人性の結合の問題であり、贖罪論ではなかったといえよう。
2 Ⅰテモテ2:5 「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただお一人なのです」。このテモテへの2通の書簡とテトスへの書簡は伝統的に「司牧書簡」と呼ばれてきた。手紙は、仲介者論というよりは、まだ確立されていない教会組織の在り方についてのパウロの考えが中心のようだ。著者がパウロかどうかは議論があるようだが古くから正典として認められていたようだ。
3 「キリストの十字架は、功徳・償い・犠牲・贖いである。キリストは自由と愛をもって十字架を引き受けられ、神はこれを嘉せられた。キリストは人類の愛のために死んで、神はよみがえらせた」(『神学大全』第3部第48問)。
 なお、山田晶『神学大全Ⅰ・Ⅱ』(2014)によると、神学大全は、第1部「神」、第2部「人間の神への運動」、第3部「神に向かうための道なるキリスト」にわかれる。第3部は、①御言葉の受肉②キリストの誕生・生涯・受難・復活・昇天③秘跡④補遺:終末、という構成だという。第3部第48問は②に含まれているようだ。
4 この6項目の整理は、わたしには、贖罪論的救済論から過越論的救済論へと変化が起きていると言っているように聞こえた。

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贖罪は救済か ー 救済論(2)(学び合いの会)

2023-03-30 10:02:14 | 神学


Ⅱ 旧約聖書 ー 救済とは約束の成就のこと

 救済の歴史は旧約から始まる。出エジプトのシナイ山の「契約」がイスラエルの救済史の基本的出来事である。ここに、「約束を成就する」という意味での救済の構造がみられる。つまり、救済とは約束を実現する、という意味がこめられる。この構造は聖書の救済史的考え方の根本になる。神の業は現在も続いており、終末論的に完成すると考えられている。

Ⅲ 新約聖書 ー 受肉から贖罪へ

 新約聖書はナザレのイエスをキリストだと信じる初代教会の信徒たちの信仰告白である。全文書がイエスの救済の業(わざ)をテーマとする。受肉・公生活・受難と死・復活・再臨が救済の業として提示される。特に人類に罪の赦しをもたらす十字架上の死を中心におく。そして十字架上の死は贖いだと考える(1)。

 こういう贖罪論を示す聖書の該当箇所は枚挙にいとまが無い。

①マタイ26・28「多くの人のために流される私の血」(新共同訳・以下同じ)
②マルコ14・12「過越の食事」
③ルカ22・7~13「過越の食事」
④ヨハネ13・21~30「裏切りの予告」
⑤ロマ4・25「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」
⑥ガラティア3・13「キリストは、私たちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖いだしてくだいさいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」

 とはいえ、こういう説明には少し説明が必要だ(2)。
 この贖罪論、「死の神学」を新約聖書の救済観の中心テーマだという理解は古代から中世にかけて一貫して流れている。アウグスチヌスの原罪論をベースに、中世にはアンセルムスの贖罪論、具体的には「充足説」が主流となる。近代神学や現代神学はこの贖罪説が持つ「仲介者」の位置づけをめぐって様々な角度から批判的検討がなされ、現在は広い意味で「過越説」とも呼べる新しい救済観が登場してきているようだ。つまり、受肉から一足飛びに十字架上の死につなげて議論する贖罪説から、イエスの公生活の期間を含めて旧約と新約の世界全体を救済史としてみる過越説への変化がみられる(3)。

 S氏は救済=贖罪説の立場に立って以下のように述べる。
新約聖書は救済史的考えを旧約聖書から預言書、黙示文学の形態において継承している。イエスは自分の使命を、旧約聖書からの救済史の完成とし、預言者を通じた神の約束の完成と見なす。「神の国」という中心概念は極めて救済史的である。それは歴史において実現する究極的救いを意味する。
 パウロの救済史的発想は、イエスの死における「人を救う神の義」が「神の怒り」(ロマ1・18)に取って代わるとする。旧約は神の怒りの時代であり、新約は神の義の時代だとも言える。

 新約聖書の救済論の構造は以下のようにまとめられる。
①約束(契約)とその成就の構造
②旧約と新約のつながり
③旧約聖書の予型論的見方(4)
④全救済史のキリスト論的構造
⑤全救済史の終末論的方向付け(5)

 こういう整理はもっと説明が必要なのだろうが、これは新約聖書の救済論の特徴というだけではなく、キリスト教の救済論の特徴そのものと理解しても良いのかもしれない。

Ⅳ 古代

 古代教会はキリストのペルソナの探究に議論を集中した。古代教会の6つの公会議のメインテーマを見れば明らかである(6)。
 救済論に関する全教会規模の宣言はない。しかし各時代、各地方で、救済論に関する神学的営みはあった。救いは悪に対する善の勝利、悪魔に対するキリストの勝利、勝利者キリストによる全人類の奴隷状態からの解放、救いはキリストが言葉と行いによって神の道を示したことにある、などの考え方が生まれた。
 東方教会では「神化」論が発展する(7)。受肉が人間性の神化を実現したと考えた。エイレナイオス(2世紀後半の現リヨンの司教)は人間が神の子となるために、神のみ言葉が人となったと述べた。
 西方教会では、イエスの死が人間の罪の赦しをもたらす贖いであると主張した(十字架上の死の神学と呼ばれる)。アウグスチヌスは、キリストの受肉を人間の原罪の贖いのためであるとして、原罪を「幸いなる罪」と呼んだ(8)。原罪論が入ってくる。
 極論すれば、救済に関しては東方教会では「神化」論、西方教会では「贖罪」論が展開されていった。カトリック教会でいえば、このようなキリストの贖罪による救い、と言う考え方は今日まで続いている。

【贖いと償い:カトリック生活2021年6月号】

 

 



1 贖い  redemption(英) Erloesung(独) 英訳も独訳もともに「救済」という日本語訳があてられることもある。救済には贖いという意味がこめられているようだ。だが日本語の贖罪や贖いという言葉からこういうコノテーションを読み取ることは出来ない。贖いの意味はどこでも調べることが出来るので改めて説明する必要はないだろう。日本語では「身代金」とでも訳しておけばわかりやすい。
 贖いとは日本語ではなかなかピンと来ない言葉であり、実際日常語として使われることは希だろう。使われたとしても、贖いと償いはしばしば混同されるようだ。だが区別が必要だ。贖いと償いは別物なのだ。贖いは原義は買い戻すことであり、償いは他人に与えた損失を補うことである。いわば、贖いは「上から目線」であり、償いは「下から目線」のことばだ。
 キリスト教ではこのユダヤ教的な贖いの思想を用いて、イエス・キリストを神の贖いの業の仲介者(神の僕、屠られた羊)と理解した。仲介者は弁護者、扶助者、援助者と訳されることもある。なお、仲介者とはイエス・キリストのことだが、聖母マリアも「すべての恵みの仲介者」と呼ばれる。聖母マリアがなぜ仲介者と呼ばれるかは議論があり、現在のところ教義にはなっていないようだ(光延一郎『主の母マリア』2021)。聖母マリアの場合、取り次ぎ手、媒介者、代願者と呼ばれる(訳される)ことが多いようだ。
2 ここは私の個人的見解である。なお、聖書学的には、これら共観福音書のイエスのことばは本当にイエス自身が語った言葉なのか、予型論ではないか、事後予言ではないかなど議論があるようだ。またパウロには贖罪論的な議論は多くは無いともいわれているようだ。この辺は専門家の議論の世界だろう。ただ、救済を原罪や贖罪に引きつけて説明する仕方は強調しすぎると説得力を欠くように思える。
3 中世の贖罪論はアンセルムスの充足説をベースとしている。アンセルムスはスコラ神学の父とも呼ばれ、「理解するために信ずる」と述べるほどの理性的探究を重視した神学者だ。かれによれば、原罪は神に対する人間の侮辱であり、人間が贖ったり、償ったりすることは不可能だ。神は人間を赦したいが、正統な償いなしに赦すことは神の義と人間の尊厳に反する。これを解決する唯一の方法は神自身が人となって人間の立場で神に償うことだと主張した。充足とは罪の償いを十分になすことを意味する。
 過越とは原義は出エジプトで災いが「過ぎ越す」 passover という意味だが、現在は十字架の死と復活を指すことが多い。だが、過越の意味は拡大され、救済は全人類的・包括的な救済を意味するようになってきているという。
4 予型論 typology  とは、簡単に言えば、新約聖書におけるイエスの行為や摂理はみな旧約聖書のなかであらかじめ象徴されていたり、予告されていたとする考え方。たとえば、出エジプトでイスラエル民族が紅海を渡ったことを洗礼の予型と見なしたりする(Ⅰコリ10:1-6)。キリスト教にとっては都合の良い説明の仕方だが、予型論的説明を好まない神学者や司祭は多いようだ。なお、予型論という用語は聖書学ではアレゴリー(寓喩)と呼ばれる聖書解釈の手法の対概念のようだ。タイポロジー対アレゴリーと言われるが、寓喩は比喩(たとえ)と同じではない。
5 終末論 eschatology(英) とは、歴史の終末から歴史全体を一つの有意味な統一体として理解しようとする歴史的自覚のことをいう。いわば歴史を直線的に理解する。現在を終末の視点から見るという歴史観は捕囚期に確立したようだ。仏教などにみられる循環的・宿命的な時間感覚・歴史意識(輪廻転生など)とは異なる。現在はシュバイツァーの徹底的終末論や、ブルトマンの実存的終末論が主流のようだが、終末を遠い未来に見るのではなく、現在に実現されていると見ようとする点では共通しているようだ。
6 ペルソナとは原義は演劇用の仮面を意味したのだろうが、現在は人格とか神の位格とか法人とかさまざまな訳語があてられる。キリスト教では教父時代に三位一体の位格をあらわすものとされた(父・子・聖霊)。この三位が相互にどういう関係にあるのか議論された。
 古代教会の諸公会議におけるキリスト論の展開を整理してみる。
①第一回ニケア公会議(325):キリストを被造物とするアレイオスの説を退け、キリストは父なる神と同一本質ホモウーシオス)と宣言した。キリストの神性が確認された。キリスト教では救済論は教義では無いとは言え、ニケア信条が事実上、キリスト教の救済論の信仰箇条である。ちなみにニケア信条は事実上も歴史上も東方教会の信仰箇条に近いという。
②第一回コンスタンチノープル公会議(381):聖霊の神性が確認された。三位一体の教義が確立された。
③エフェゾ公会議(431):ネストリウスの説を退け、マリアの神の母の称号(テオトコス)を承認した。
④カルケドン公会議(451):キリストは真の神であり、真の人であり、その本性は一つのペルソナによって一致しているとおいう神人両性説が確立した。
⑤第二回コンスタンチノープル公会議(553):従来の説の確認
⑥第三回コンスタンチノープル公会議(680):キリストは神の意志と人間の意志の両方を有するというキリスト両意説が承認された。
 以上の6回の公会議で古代教会のキリスト論は完成し、その後今日に至るまでキリスト論についての新たな教義は制定されていない。
7 神化論 deification(英)とは、「人間の神化」を意味する。人間が神になる、というよりは、人間は神のであり、神の養子だから神の恵みによって神になろうとする、神に近づく、という意味のようだ。西方教会(ローマ・カトリック)は、行い、善行を重視するので、神化という考え方はとらなかったという。

8 原罪論である。アダムとイヴが罪を犯したからイエスが来られたという逆説的な主張につながる。アウグスチヌスの原罪論の影響力はあまりにも大きすぎたとしか言えない。

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