カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

神学講座(その10) ハンス・フォン・バルタザール(上)

2015-09-07 22:02:44 | 神学
 こんばんは。神学講座は夏休みを挟んで再開されました。今日9月7日は、F・カー著『二十世紀のカトリック神学』の第8章「ハンス・ウルス・フォン・バルタザール(1905-1988)に進みました。大雨の後の月曜日ということで、参加者は15名ほどでした。
 バルタザールという神学者のことはわたしはよく知りません。本を読んだこともないし、あちこちの文献では「保守的」とか「反動的」とか評されていることもあり、あまり興味を持ちませんでした。今回少し勉強してみて、これは大事な神学者だと思い至りました。それは、今年度末にも始まる御ミサ(典礼)の変更など、カトリック教会が大きく変わろうとしている今、一つの方向性をだしたバルタザールが再評価され始めていることを知ったからです。今度の典礼の変更(修正?発展? 注1)が、どの方向を向いているのかを知るためにもバルタザールを知る必要があるようです。
 細井神父様は学生時代にバルタザールをちょっと読んだことがあるそうです。何を言っているのかよくはわからなかったが、ハッとするような表現がちりばめられていて、印象に残っているとおっしゃっていました。
 いってみれば、神学者としては難解・多芸多才(ピアニストとして著名という)・カールラーナーと同じ時期に友人として司祭の道を歩み始めるが、やがて袂を分かっていく・プロテスタントの今世紀最大の神学者カール・バルトとも親交があった(第二次大戦中、二人で一日中モーツアルトを聴いていたという)・仕事はシュパイルという女性との共同作業が中心で(やがてイエズス会を離れる)、この点でもバルトと共通点がある・第二バチカン公会議には顧問神学者としては呼ばれなかったが、その神学的影響力は巨大だったという。
 教会を世界に向けて開かれたものにしていく(現代化)というかれの主張は広く受け入れられたが、第二公会議は「カトリックの伝統」を十分には回復していないとして、ラーナー・スキレベークス・キュンクなど当時の「リベラルな」または「進歩的な」神学者たちを次から次へと批判していったようだ。
 バルタザールの神学は難解だという。細井神父様の今日の講義はいやに熱がはいって時間を大幅に超過し、しかも予定の半分にも至らなかったが、その理由は、バルタザールを理解するための予備知識が必要ということで、準備の講義に時間が割かれたためであった。前提となる知識として今日紹介され、資料が配られたのは、①イエズス会とベネディクト会の違い②存在論特に神の存在証明論(4種類の存在証明論の理解)③恩恵論(特にプロテスタントの義認論とカトリックの義化論の対比)④シニフィアンとシニフィエの区別。これら4つのテーマはどれもバルタザールに限らず神学一般の理解に不可欠なテーマだし、理解や強調点の仕方が司祭や神学者により異なるので、細井神父様の説明の仕方の特徴を詳しく紹介したいところだが、それは別の機会を待ちたい。
 これだけの大テーマが並ぶとバルタザールどころではないので、講義は途中で終わりとなった。残りは、または本論は次回に、ということになった。
 わたしは今日の話で一番印象に残ったのは、バルタザールが新スコラ主義をスアレス主義と呼び、「存在の一義性」をとなえるあまり、イエズス会の霊性(精神、spirituality)に適合しないと批判した点だ。どうも「霊性論」がバルタザールを理解するキー概念らしい。バルタザールを今までみたいに「反動的神学者」と呼んで無視するわけにはいかないようだ。次回を楽しみにしたい。
注1 各教会で説明が始まっていると思うが、「ミサの式次第」の変更箇所がこの11月29日から実施される。日本の「ミサの式次」全体は典礼秘蹟省の認証が得られていないので、「ミサ総則」の改訂訳はまだ公表されていない。お祈りから御ミサでの動作などかなりの変更があるようだが、当面は司祭にのみ関わる変更で、われわれ一般信者にすぐに影響があるというものでもなさそうだ。そうとはいえ、この変更が全体として「昔に戻る」という傾向を持っているようだし、また、日本の習慣や文化にあわせたローカライゼーションの傾向も強いようだ。つまり、ローマが、そして日本の司教団が、どの方向に向かおうとしているのか、その思想性はなにか、など注目していきたいと思う。
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