カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

神学講座(その14)ヨゼフ・ラッツインガー Joseph Ratzinger (1927- )(その1)

2016-03-08 15:01:12 | 神学
 神学講座は、3月7日に、F・カー著『二十世紀のカトリック神学』の第11章「ヨゼフ・ラッツインガー」に入りました。台風のような豪雨のせいか参加者は20名でした
 いよいよラッツインガーです。本書は10人の神学者を取り上げていますが、最後に取り上げられる神学者となります。神父様によると、本章では著者カーにしては珍しく皮肉っぽい表現が随所に見受けられます。その理由はよくわかりませんが、ラッツインガーがトミストでないことを著者が気に入らないのか、または、第二バチカン公会議をK.ラーナーとともに支えた神学者ラッツインガーが、教理省長官(注1)となり(1981)、教皇となる(2005-2013)とともに保守派に転じていったことが気に入らないのか(注2)、他の章とは文章のトーンが異なることに気づきます。この違和感の源は、本章が本書の最終章であるからだけではなさそうです。
 本書(原著)の出版は2007年です。原稿はおそらくその数年前に書かれたのでしょう。つまり、ラッツインガーが教皇になる前後に本書が書かれたとするならば、ラッツインガーの評価が定まっていないことも頷けます。もちろんかれが2013年に退位して「名誉教皇」になることは知るよしもなかったわけです。
 神父様もベネディクト16世についてはいろいろ言いたいことがあるのか、思い出すことが多いのか、今日は本章の三分の一も進みませんでした。序説の履歴部分で終わってしまいました。つまり今日はラッツインガー神学の中身までは踏み込まれませんでした。
 ラッツインガー神学の特徴とは何なのだろうか。著者カーは、ラッツインガーが教理省長官になる前の神学理論と、それ以後の神学理論とを区別して紹介しているように思える。前期のラッツインガー神学は、理性重視の伝統的な自然神学と、三位一体や受肉を中心とする啓示神学との不毛な対立を避けようとする。救済史論や人間論を重視する。これらは現代カトリック神学の中核部分を構成していると著者カーは考えているようだ。後期は、神学理論では「神の似姿」論を用いて解放の神学やフェミニズム論に対抗する。組織面ではピオ十世会や聖霊復興運動などの異端的動き、司祭の幼児虐待問題やバチカンの資金問題などの対処に精力を奪われていき、ついに力尽きて退位に至ったとみてよいだろう。どうもラッツインガーの評価とベネディクト16世の評価は慎重に区別して行う必要があるのかもしれない。といっても現役名誉教皇のことだから、その評価は今後の歴史に委ねられることになるのだろう。本書の訳者たちはフランシスコ会系らしく、カーの神学者の評価には賛同していない面もあるようだ。
 著者カーによると、ラッチンガーがラーナーとともに(ラーナーの導きの下に)作ったバチカン第二公会議の教会に関する公文書は、特に教皇制や司教制に関する草案は、あまりにも革新的であったために、当時の検邪聖省長官は彼らを「危険な者たち」として糾弾したという。ラッツインガーは、聖書論では「Q資料」仮説(注3)を受け入れていたようだし、当時流行していた「救済史」論を受け入れていたという。つまり使徒継承を中心とする「過去」を無視して、希望・革命・未来などの概念を中心とする「政治神学」を批判していたという。存在論と救済史論をなにか相対立するものとしてとらえる視点には批判的だったということであろう。若かりし頃のラッツインガーはラーナーと共有する点が多かったようだ。二人の神学的背景は異なるようだが、「無名のキリスト者」を主張したラーナーとともに、二人は「恩寵」論を深く自分のものにしていたという(注4)。超越とか啓示とかいう言葉を使っても良いが、なにか「上からの声」を聴く姿勢を強調していたという。ベネディクト16世のあの渋面からは想像できないドイツ人神学者の言葉は魅力的である。ラッツインガーは言う。イエスを理解するには他宗教の霊性の光に照らしてみることが必要である、祈りとは自分の心の奥底をのぞき込むことではなく、他者に向かって自分の心を開いていくことなである。こういう表現はトマス主義者にはとてもできない。若きラッツインガーは良い。本講義は次回からラッツインガー神学の中身の検討に入っていく。神父様が著者カーの紹介をどのように整理し、説明してくださるのか楽しみだ。
注1 私はつい「教理聖省」と言ってしまうが、現在は「教理省」と言うのが正しいらしい。カト研の先輩方には「検邪聖省」という名前の方がなじみ深いのかもしれない。
注2 神学教授としての発言と、教理省長官・教皇としての発言に連続性がないことを、地位に応じて発言が異なるのは当然と考えるか、矛盾しているのはけしからんと考えるのかは、人によって評価は異なることでしょう。私は個人的には一致していないのは致し方ないと思う。神父様も「パンドラの箱を開けるわけにはいかない」という表現を使っておられた。
注3 カト研の皆さんには釈迦に説法ですが、Q Quelle(Q Source) のこと
注4 いまは「恩寵」とはいわず、「恩恵」というらしい。時代に合わせてやたらに訳語を変えていくのはどうかと思うが、これは日本の司教団の判断なので、別の機会にまとめて考えてみたい。
コメント
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