カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

神学講座(その15)ヨゼフ・ラッツインガー Joseph Ratzinger (1927- )(その2)

2016-06-06 21:33:59 | 神学
 神学講座は、2016年6月6日に、F・カー著『二十世紀のカトリック神学』の第11章「ヨゼフ・ラッツインガー」の第二回目に入りました。参加者は20名弱でしたでしょうか。参加者は殆ど婦人会の方で、H神父様の口は滑らかでした。
 前回はラッチンガー論の入り口で終わってしまいましたが、なにぶん間だが3ヶ月も空いてしまい、神父様も話のつながりが難しかったようです。私個人としては、本書の著者カーがラッティンガーはトマス主義ではないとかなり厳しい評価を下していることを神父様がどう評価されるのかとても興味がありました。この点に関しては神父様は慎重に言葉を選んでおられ、特に個人的立場を表明するということはありませんでした。
 神父様は突然「マタイ福音書」の第1章「イエス・キリストの系図」から話を始められました。アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロン捕囚まで14代、バビロン移住からイエス誕生まで14代。なぜ「14」なのか、という問いから始められました。これは「14」という数字が持つ意味もさることながら、ラッティンガーが「神」という概念に関してトマス的な「存在論的」説明をさけ、「人間論的・聖書論的」説明をとっていることの重要性を指摘するためだったようです。
 神父様はラッティンガー神学の中枢は「神の似姿」論と「婚姻神秘主義」論だという。婚姻神秘主義とは、第二バチカン公会議における教会論の基礎となった神秘主義思想で、神と教会との関係を旧約聖書の雅歌における乙女と若者の愛の関係に重ね合わせる思想である。この思想の解釈は、具体的にはフェミニズム論、司祭独身論、女性司祭論、同性愛論、避妊・堕胎論などの具体的な社会問題に教会がどう対応するかを左右する。神父様はかなり具体的な例をあげて問題の所在にふれられ、とても興味深かったが、紹介は別の機会に譲りたい。
「神の似姿」論も、元来はトマス的であるとはいえ、トマス的な神の似姿論はラッティンガーにおいてはそれほど大きな位置を占めていないという。これは著者カーにとっては不満だろうが、神父様のいうとおりであろう。神は自分に似せて人間を作った、というとき、「人間」をつくったのか、「男と女」をつくったのか、という問いである。こういう問いが現在それほど意味を持たなくなってきているのは、プロテスタント神学者K.バルトの神学的人間論がカトリック神学の中にも入り込み、定着してきているからなのかもしれない。
 神父様はこの文脈で「原罪論」を語り始めた。第二バチカン公会議以降、「アダムとイヴによる原罪」思想は本気で語られることはなくなった。人間は生まれながらにして原罪を持つという原罪説はアウグスチヌスが練り上げた神学の中心に位置するが、ベネディクト16世もフランシスコ教皇様も、原罪説はいまや「強迫観念」で、贖罪神学は影響力を失ったと言っているという。他方、過去の遺物である原罪説は今もメリットがあるという考えも根強く残っており、例えば「悪」の根源は「自分」ではないということで人は罪悪感から解放され、また他者に謙虚・寛容になるという。こういう思想的対立のなかで新たな「神の似姿」論、「婚姻神秘主義」論を打ち出したラッティンガーの神学は、オリゲネスやT.シャルダン、バルタザールという評価の分かれるー立場によっては危険とすら言われた-人々に大きく負っているというのが、神父様の評価であった。神父様は「現象学の影響」という言葉さえ使っておられたのが印象的であった。ラッチンガー神学は、著者カーの評価以上に、これからも深く長い影響力を及ぼしていくように思えた。本書の副題が「新スコラ主義から婚姻神秘主義へ」と題されているのが納得できた気がした。

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