カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ヨハネ福音書の主要な象徴:水・ぶどう・パン・牧者

2017-01-23 17:53:43 | 神学

 2017年1月の「学び合いの会」は厳寒の23日に開かれました。あまりの寒さの故か参加者は8名にとどまりました。過去数回ヨハネ福音書について学んできた流れで、今回は、ベネディクト16世著里野泰昭訳『ナザレのイエス』(2008・春秋社)をベースに、ヨハネ福音書における主要な象徴である水・ぶどう・パン・牧者の4つが一つ一つ取り上げられ、その象徴的意味が説明されました。
 ベネディクト16世『ナザレのイエス』は三部作で、第二部は「十字架と復活」、第三部は「イエスの幼年時代」と題された大著で、本書はその第一部ということになる。カト研の例会でもむかしMさんによってこの本の重要性が紹介されたことがあったように記憶している。
 本書は基本的には「史的イエス研究」の一つと見なしうるだろうが、既存の聖書学者によるイエス伝とは大きく異なる。ベネディクト16世は、「史的イエス」と「信仰のイエス」を切り離すことに強く抵抗し、全く新しいアプローチをとる。具体的には、ヨハネ福音書を史的に読み解くことによって、旧約と新約の読み比べ作業の中から、生きたイエスを描き出そうとする。教皇になった後でもかれがこういう研究を続けていたことに、今更ながら敬服の念を抱かざるを得ない。
 報告は4つの象徴が順番に取り上げられ、それが持つ意味が細かく紹介された。4つの象徴と言っても、水はいかなる宗教でも象徴的意味をもってあつかわれているが、ぶどう・パン・牧者〈羊飼い)は砂漠の宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など)の象徴である。日本ならさしづめ稲・米・かかしならなじみがあるが、ぶどうだ、オリーブだ、羊だとなるとちょっとなじみがない(オリーブはヨハネ福音書にはでてこない)。また水も、日本ではあまりにも豊富に存在するが故に、その希少性が徹底的にあがめられる砂漠の宗教の感覚はなかなか肌身で感じ取ることが難しい。
 まず水は、泉という形では物事の清さ、純粋さの象徴となる。川という形では、ナイル河であれ、チグリス・ユー不ラティス河であれ、ガンジス河であれ、生命の与え主とされる。他方、海はなにか壮大で恐れられる存在で、場合によっては悪魔の印象を与えることもあるようだ。
 ヨハネ3-5~7はイエスとニコデモとの対話だが、水による生まれ変わりが洗礼なのだとされる。また、ヨハネ4-13~15はサマリアの女との対話だが、その水を飲むものは乾くことがないとして、救いのシンボルとされる。
ヨハネ19-31~34では、血と水が聖体と洗礼を表すとされる。ヨハネの手紙Ⅰ 5-6~8では、イエスの十字架上の死がとりあげられ、グノーシス主義・仮現説が批判される。生身のイエスを見よというのだ。グノーシス主義の知的魅力は現代でも強いが、ベネディクト16世の姿勢は一貫している。当然と言えば当然だが、名誉教皇からこういう言葉を聞くとなにか安心する。
 旧約でも、出エジプト記17-4~7,エゼキエル47-1~4,ゼカリア13-1~2、黙示録22-1~2などで、水が登場する。イエスは自らを生ける水、天からのパンとする。
 第二の象徴はぶどうの木と葡萄酒である。ヨハネ2-1~10はカナの婚宴の話だが、冒頭「三日目に、」とくる。何の三日目なのだろう?これは神の顕現の時、イエスの時、栄光の時、の先取りなのだという。葡萄酒は律法の完成を象徴しているのであろう。
ヨハネ15-1~8では、「イエスは真のぶどうの木」という。イエスと信者との一致を述べており、きわめて教会論的で、詩編80-15~17が下敷きのようだ。パウロのキリストの体を思いおこさせる。ヨハネのこういう論の運び方はとてもパウロ的だ。イェルサレムにとどまったペテロら主流派の使徒たちと激しく対立しながら、パウロはキリスト教をユダヤ教から切り離し、異邦人の世界へ広く開放していく。一応は主流派から断絶されないために旧約の関係箇所を引用したりするが、ヨハネが、パウロが、見据えていたキリスト教の世界はなにか別のところだったのであろう。
 第三の象徴はパンである。ヨハネ6-1~15は例のパンの増加の奇跡の話である。この奇跡話は福音書には6回も出てくるそうで、そのうちマタイとマルコには二回づつ出てくる。誰にもよく知られた有名な奇跡話だったのであろう。ヨハネ6-48~51ではイエスは命のパンとされる。モーゼと対比されながらマンナと聖体が比較される。モーゼは神を見ることができなかった。神から来た者のみが神を直視できる。ヨハネ12-24で一粒の種パンのなかに受難の神秘が隠されていると述べられているとはいえ、イエスは命のパンであるという考えがすでにはっきりと成立しているわけだ。
 第四の象徴は牧者である。牧者とは羊飼いのことだが、この時代のこの地域の人々にとっては牧者とは「王」の象徴である。王というと、日本語〈漢字)ではなにか支配者とか抑圧する者とかのイメージが付着しているが、聖書の世界では王とは弱者への心遣いを象徴している。現在の教会でも、牧職は王職とも呼ばれる。旧約で言えば、エゼキエル34-1~5はイスラエルの牧者を語り、ザカリア13-7~8は羊飼いを撃てと、マタイ26-31と対比的である。ヨハネ10-3~5は羊の囲いの譬えであり、牧者と羊は互いをよく知っている者として描かれる。ヨハネ10ー7~10ではイエスは良き羊飼いと呼ばれる。ヨハネ10-11~13では良き羊飼いは羊のために命を捨てるといわれ、十字架が暗喩される。ヨハネ10-16では羊の囲いに入っていない羊もイエスが牧するという。広くは教会一致のテーマにつながり、イエスを知らずに生まれ、死んだ者も、イエスはすべての人の牧者なのだから、みな一つにしてくださる、と結ばれる。
 というわけで、四つのシンボルが取り上げられたわけだが、水はすべての世界宗教のシンボルではあるが、ぶどう・パン・オリーブ・羊はどれも地中海海域に固有のシンボルである。あちらの世界の物事だから日本には関係ないと目を背けるのではなく、これらが指し示している普遍的メッセージを読み取っていく必要がある。これは、日本の文化が持つ豊かな伝統と象徴も、その個別性・特殊性を強調するだけではなく、むしろそれが持つ普遍性を明らかにし、世界に向けて伝えていくことが重要なのと同じことなのだ。ヨハネ福音書は読み応えのある福音書のようだ。

<a href="//philosophy.blogmura.com/religion/ranking.html" target="_blank"><img src="//philosophy.blogmura.com/religion/img/religion88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ" /></a><br /><a href="//philosophy.blogmura.com/religion/ranking.html" target="_blank">にほんブログ村</a>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする