カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

カトリック教会側から見た宗教改革の批判的意義(2)(増田祐志師講演)

2017-10-01 18:03:45 | 神学

 増田師の講演の第5節「第二バチカン公会議」は時間切れで省略されてしまった。実はレジュメのこの部分は『カトリック教会論への招き』の第6章からの抜粋で4頁にも及ぶ。ここではレジュメを要約するよりは本の第6章そのものを要約してみたい。
 第6章は「第二バチカン公会議ー適応・刷新・対話・混乱」と題され、5節から成る。第1節 公会議招集 第二節 教会論 第三節 変化と転換 第四節 評価 第五節 新たな旅路へ:第二バチカン公会議からの出発、となっている。

序 ここでは増田師は20世紀を「暗黒の世紀」と呼ぶ。教会の教えではなく、理性が人類に幸福をもたらしてくれると信じてきた近代社会が新たな問題に直面して制御不能になってきているという。例えば、人口爆発・食糧問題・環境問題などをあげている。教会の自己理解はすべて歴史的現実と結びついており、現代では第二バチカン公会議が教会の自己理解の規範となっているという。

1節 公会議招集
増田師は、「カトリック・リベラリズムの断罪、第一バチカン公会議での教皇不可謬権の決定、「近代主義」の拒否といった教会の自己防衛時代が19世紀と20世紀前半ばまで続いた」と書き出す。かなり思い切った表現である。増田師の思想的立場性がはっきりとわかる。ヨハネ23世による第二バチカン公会議の招集と、リュバック・コンガール・ラーナー・キュンクらの公会議での役割を高く評価する。つまり、今までの公会議のようにある思想を断罪したり排斥したりするのではなく、また、新しい教義や神学体系を提示するのではなく、「教会とは何か」について徹底的に自己追求行った。歴史上初めての「教会論の公会議」が第二バチカン公会議だったという。

2節 教会論
公会議は16の公文書を交付した(4つの憲章・9つの教令・3つの宣言)。なかでも教会論として最も大事なのは、『教会憲章』と『現代世界憲章』だという。この二つは我々にも容易に手に入るもので、カテキスタの人たちには必須の文書なのであろう。その特徴を増田師は以下のようにまとめている。
①教会の組織 教会は組織としては二つの次元を持つという。信仰共同体と制度だという。具体的には位階制が原理であり、教皇・司教・司祭・信徒・修道者のヒエラルヒーを持っている。
②教会所属 キリストの教会の構成員は誰なのか。誰が教会を作っているのか。第二バチカン公会議以前の回勅『キリストの神秘体』には「キリストの教会はローマ・カトリック教会」と書かれている。プロテスタントや仏教など他宗派、他宗教はキリストの教会に所属しているとは考えられていなかった。第二バチカン公会議は「神の民」という概念を持ち込むことで、カトリック教会以外にもキリストの教会が存在する可能性をカトリック教会として歴史上初めて認めた。考えてみれば、「神の民」とは遠くルターの言葉である。こういっては言い過ぎかもしれないが、キリストの教会はカトリック信者だけの教会ではない、と宣言したのだ。
③信教の自由 驚くべきことにカトリック教会は公会議まで信教の自由を認めていなかった。「公会議直前まで歴代の教皇は唯一の宗教であるキリスト教、唯一のキリストの教会であるローマ・カトリック教会という主張を固持していた」(198頁)。増田師はピオ9世の「誤謬表」の例などをあげている。だが、信教の自由が基本的人権に属し、人格の尊厳に属するという理解が共通理解となり、政教分離の統治原則が多くの国で採用されるに従い、カトリック教会は自らの姿勢を明確に宣言する必要がでてきた。第二バチカン公会議は、「人格が信教の自由に対する権利を持っていることを宣言する」と述べた。高らかな宣言であった。それまでの教皇文書は信教の自由を認めていなかった。だがついにカトリック教会が信教の自由を認めたのだ。これがいかに革命的な宣言であったか、われわれはベルリンの壁崩壊のなかで知ることになる。
④教会の一致 公会議は、カトリック教会以外にも「聖化と真理の要素が数多く見いだされる」とキリスト教他宗派の教会論的価値を認めただけではない。さらに一歩踏み出して教会一致を推進する「エキュメニズム」への積極的姿勢を示したのだ。増田師は、「一致は、片方が相手を吸収することでも合併することでもない。双方が歴史的に培ってきた伝統・規律・習慣や慣例、霊性を尊重した上での<交わりの回復>である」(200頁)と説明する。だが、「諸教理との比較に際しては、それら諸真理の間に秩序すなわち<順位>が存在することを忘れてはならない」とも述べる。「真理に順位がある」、という神学的命題は、「事実はひとつだが真理は複数ある」という哲学の命題と共に、神学と哲学の違いを際ださせてくれる。わたしにはすぐにはピントこないが、カト研の皆さんはいかがでしょうか。
⑤他宗教との関係 第二バチカン公会議の時点では(1960年代前半、日本で言えば安保闘争のあと)、公会議参加者はほとんどキリスト教圏からであり、アジア・アフリカなど非キリスト教圏の問題に光をあてることはできなかった。「ユダヤ教とイスラム教については親近感を示すが、それら以外の伝統的諸宗教に対しては人間本性に普遍的に備わっている宗教性にもとづくものとして、尊敬の念を表明するにとどまる」(201頁)。それほど強い関心をはらってはいなかったということだ。だが、諸宗教との関係は、グローバル化した現代では問題状況がまったく異なる。仏教的環境が支配的な現代日本で、外国人労働者が増大する将来の日本で、われわれカトリックが他宗教とどのような関係を創っていくのかは、第二バチカン公会議の公文書のなか答えを探しても見つからないだろう。これはわれわれの課題だからだ。

3節 変化と転換
ここでは増田師はまとめをかねて以下の三点を強調する。
①教会観が変わった: 「制度としての教会」観から「秘跡としての教会」・「神の民である教会」・「交わりの教会」観への変化。「仕えられる教会」観から「奉仕する教会」・「連帯する教会」観への変化。「完全な社会である教会」観から「旅する教会」観への変化。「永遠不変の教会」観から「たえず刷新される教会」観への変化。
②教会統治: 司教の団体性指導原理が確認される。(つまり、教皇権主義と公会議主義とのせめぎ合いは今でも続いているということ)。
③教会の本質と使命: 「信仰の遺産」に含まれる「諸真理の順位」の識別の必要性と重要性。キリスト教会内にもカトリック教会内にもみられる「多様性の積極的評価」。カトリック教会だけが救いの道ではなく、聖霊による聖化と恵みは教会の外にも働いているという認識。
 ここで指摘された三点は議論しだしたらキリの無い論点を含むだろうが、増田師の教会論がよくわかるところである。
 最後に師は次のように述べる。これが彼の結論だろう。「450年以上前にルターによって唱えられたテーゼの多くが第二バチカン公会議では受容されている。逆に言えば、ルターによって現代のカトリック教会は活気づけられたというべきであろう・・・それでも一致が難しい問題がある。一つは教皇、つまりペトロ座の理解である。それは位階制の理解とも関係する。さらに、この位階制の中での女性についての立場である。カトリック教会は女性叙階を認めない。しかし、その根拠となるとそれほど明確ではない」。

 このあと質疑応答が30分もたれた。質問ではなく自分の意見を繰り返すだけの人もいたが、大方の質問はまじめで、増田師もにこにこしながら答えておられた。秋の日の良き講演会であった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カトリック教会側から見た宗教改革の批判的意義(1)(増田祐志師講演)

2017-10-01 17:59:55 | 神学

 9月の最終日、カトリック雪の下教会で、横浜教区カテキスタ会主催の第22回公開講座が開かれました。イエズス会司祭の増田祐志(マサシ)師が秋晴れのもと午前・午後と4時間近く講演されました。演題は正確には「宗教改革500年にあたりカトリック教会側から見た宗教改革の批判的意義ー未来に向けてー」と長いものでした。タイトルが魅力的なせいか、司会者によると100名余の参加者がありました。東京教区からの参加者もかなりおられたようで、関心の広がりを感じます。といっても参加者はほとんど女性で、男性は見た目で一割くらいだったのではないでしょうか。
 偶然でしょうか昨日今日と、日本基督教学会が三鷹市のルーテル学院大学で開催され、宗教改革500年記念特別プログラムとして、特別講演やシンポジウムが催されたようだ。プロテスタントもカトリックもルターを記念する行事を共に持つほど、今年は重要な記念すべき年だということでしょう。100年前の1917年にに宗教改革400年記念の催しなんて考えられなかったのではないか。200年前、1817年に宗教改革300年記念行事なんてなかっただろう。カトリックとプロテスタントは、互いの違いを主張するよりは、互いに共通するものを強調しあえる時代になった、そういう時代がやっと到来した、と理解しておきたい。

 さて、今日の増田師の講義は、基本的にはかれの著書『カトリック教会論への招き』(2015 上智大学出版)の第5章・第6章をまとめてくれたものである。とはいえ、本とは違って講演ではご本人の意思や感情がどうしても出てくるのでわかりやすい。増田師はこの講演で特に目新しい話や主張をなされたわけではないが、ルターや宗教改革への高い評価、第二バチカン公会議へのつよいコミットメントが印象的であった。増田師の専門は教会論とのことだが、歴史や音楽に造詣が深いとのことで、話は彼方此方に飛んだ。実際、配布されたシラバスは最後まではたどり着けず、途中で終わってしまった。それほど話題が豊富だった。
残念だったのは音響だ。マイクが機能せず、増田師も途中からマイクなしで話し始められた。師は訥々と話すタイプでそれほど声が通る方ではない。聞く方も高齢者ばかりで耳の遠い方も多い。後席の方は聞き取りに不自由を感じたのではないか。画竜点睛を欠いたのは残念であった。
 増田師は私は初めてお目にかかる神父様であった。昔私の所属教会で黙総会の指導をしていただいたことがあるようだが、私には記憶がない。その増田師は予定の時間が来ると突然ふらっと現れた。ノーネクタイのジーパン姿で、どう見ても文系の大学教師風である。カラーをつけてこられても場にあわないが、師はすぐに講義に入られた。お祈りなし。まぁ、ご本人にしてみれば大学の授業の気分だったのであろう。お見かけしたところ50代半ばか。司祭というよりは研究者という雰囲気であった。といっても上智で副学長も務められたことがあるとのことで、行政手腕もお持ちの方なのであろう。

 さて、本論に入ろう。この講義は5部構成であった。Ⅰ宗教改革関係についての流れ、Ⅱ宗教改革を準備したもの、Ⅲルターの神学、Ⅳ宗教改革がカトリック教会に与えた影響、Ⅴ第二バチカン公会議、という構成である。

 増田師はまず「宗教改革とは」というテーマで宗教改革の定義から始められた。95ヵ条提題の話だ。強調しておられたのは、「現在も世界はその影響下に置かれている」という点だ。われわれはまだ宗教改革の影響下のもとに生きている、という指摘は新鮮であった。
Ⅰ 宗教改革関係についての流れ
ここは、95箇条の提題(1517)→ルターの審問・破門→ドイツ農民戦争→アウグスブルグ信仰告白(1530)→アウグスブルグ宗教和議(1555)→30年戦争(1618~)→ウエスファリア条約(1648)、という歴史的経過の説明。特に変わった話はなかったが、宗教改革がなぜドイツ(当時そんな名称も国もなかったが、ヨーロッパの片田舎で)で起こったのか、についての「地政学的説明」は面白かった。イタリア・フランスとの地理的断絶が大きな要因だったのではという説明は興味深かった。

Ⅱ 宗教改革を準備したもの
ここでは5つの背景が指摘された。
①叙任権闘争を経ての教皇権の強固化
②乱れた教会生活への反動(カタリ派の断罪、アシジのフランシスコやドミニコの容認
③アヴィニヨン捕囚、教会大分裂による複数教皇乱立問題はコンスタンツ公会議(1414-1418)で一応終結するが、公会議至上主義が台頭してしまう
④ウィクリフ(英・14C半ば)、フス(ボヘミア・15C前後)らによる「見える教会」と「見えない教会」の区別(堕落教皇への不服従は合法だという主張)
⑤カトリック教会改革への意欲(意欲はあったが、公会議至上主義への警戒心や、ルネッサンス教皇らの悪習のために教会改革は頓挫し、結局はダメな教皇レオ十世の在位中にルターの宗教改革が始まる)

Ⅲ ルターの神学
増田師はルターが新しい「教会観」をもたらしたという。ルターの神学については増田師は『カトリック教会論への招き』のなかでは、義認論・教会論・サクラメント論を詳しく論じている。今日の講義では、ルターがもたらした新しい教会観として次の三点をあげられた。①制度としての教会から「交わり」としての教会へ ②マナルキア(専制主義)としての教会から「神の民」としての教会へ ③位階制や教会法によって管理される教会から「霊の自由な働き」の場としての教会へ。ルターが教会を変えた、とはいわないが、「教会観」を変えた、という主張は新鮮であった。具体的な説明は、このあとルターの生涯を詳しくたどることでなされたが、ここでは改めて説明する必要もあるまい。師が強調されたのは二点あった。一つは、ルターは贖宥状システムを問題にしたのに、バチカンは教皇権威の問題にすり替えてしまい、紆余曲折を経て結局ルターは破門されてしまう。少し時代が異なればフスのように焚刑に処されていてもおかしくなかったようだ。第二点は、「三つの『のみ」論」に到達した点。つまり、「恵みのみ・信仰のみ・聖書のみ」、の考えだ。救い(義)は信仰のみで得られる、聖書は教皇より権威が上だ、聖書が誰でも読めるなら解釈は司祭や教皇の解釈と異なっても構わない(万人祭司説)という考えだ。
 増田師は、ルターに好意的だ。「ルターはカトリックとしてreformを始めただけであって、カトリック教会や教皇権威を否定するつもりはなかった。ましてや新しい宗派を立ち上げる意図もなかった・・・ルター派(福音主義派)が成立し、キリスト教内を分裂させた」(レジュメ4頁)。師は、「ルター神学」と「ルター派神学」の区別を強調しておられた。これはこれで重要な論点で、おそらくは今日の日本基督教学会でも論じられていたテーマであろう。

Ⅳ 宗教改革がカトリック教会に与えた影響:トリエント公会議
 ルターやカルヴィン後のカトリック教会の自己改革運動についてはいろいろな呼称があるようだ。「反宗教改革」、「対抗宗教改革」、「カトリック教会改革」などだ。増田師は、どれが正しいかというより、それぞれの名称は改革運動のどの点に注目しているかを示唆しているという。
 トリエント公会議(1545~63)は、宗教改革者の主張を念頭に置いて開かれた。会議のテーマや作られた文書はルターらを強く意識しているが、増田師は「教会論としては目新しいものはない」と断定している(147頁)。内容は二つに大別できるという。①ルターが否定した従来のカトリック教会の教理を再確認すること、②教会生活の規律化を目指す自己改革、だという。宗教改革者たちと神学的には同じ立場の教義(三位一体論や受肉論)に触れた文章はなく、また、ルターが批判した教皇制や位階制を取り上げた文書も無いという。ここでは一貫して「制度としての教会」が前提とされ、教皇制が前提とされる。この教皇についてのカトリックの理解は300年後、19世紀半ばに第一バチカン公会議の文書に結実するのだという。
 このトリエント公会議についての増田師の基本的な理解は明快だ。同公会議は教会の分裂という事態に直面して、宗教改革者の存在を認めたくない。宗教改革者たちが言う「三つののみ論」に基づく「目に見えない教会」の理解に対して、教会は位階制・権威・伝統に基づく「目に見える教会」を確認しようとする。このような宗教改革派に対する敵視の態度は第二バチカン公会議まで続くことになるという。

 増田師は具体的には次の4点にまとめて詳しく講義された。
①聖書と伝承(伝統)の確認。聖書のみを主張した宗教改革者に対して、福音は書かれた書物である聖書と、書かれざる伝承の両方で保持されてきたとする。そして聖書の「正典」のリストも示した。これはカトリックとしては決して譲れない視点だろう。聖書のみというが、聖書が伝承(口伝)から書物として書かれたのはいつ頃で、どのような背景があったのか、新約聖書が27文書になったのはいつか、なぜか、なぜ共観福音書はあの順番に並べられているのか、正典とはなにか、偽書とは、などなど、聖書のみ論者が応えねばならない論点は多い。(加藤隆『新約聖書の誕生』2016、田川健三『書物としての新約聖書』1997)。「聖書は教会権威(伝統)のなかで解釈される必要がある」(5頁)というのが増田師の立場だ。
②義認論と義化論。トリエント公会議は、信仰とは啓示された教理への同意のことで、信仰のみは否定。洗礼による義認だけでは不十分で、内的人格において義とされる(義化)が必要だと主張した。だが、増田師は現在はこの義認論と義化論の区別はほとんど意味を失っているという。
③秘跡論では、「事効論」(ex opera operato)が確認され、「人効論」(ex operaoperanto)が否定される。秘跡は秘跡執行者の徳の有無には影響されないという考え方だ。例えば、あの神父様のミサより、この神父様のミサの方がありがたい、効果がある、などということはあり得ないという考え方だ。
④司牧職の改革。司牧者のための神学教育や信徒のためのカテキズムが、必要。また、司教や司祭は管轄する自分の地域に居住する義務を負う。当たり前のことだが、自分が司牧する教区に行ったこともない司教がこの当時たくさんいたということであろう。不在地主みたいなものだったのだろうか。
 このようにトリエント公会議は断続的に20年近くにわたって行われた。教会は、自己改革・修正・確認を試みた。イエズス会など新しいタイプの修道会も誕生してくるし、従来の修道会も再興される。だが、努力はしたが成功しなかった。このあとカトリック教会はついに300年間公会議を開くことができなかった。開く力が無かったというべきか。近代社会が到来したからか。近代思想や近代科学のまえになすすべがなかったと言うべきか。それはそうだろう。だが、それ以上に、教会には公会議中心主義の復活への恐れがそれほど強かったといえないだろうか。教皇権をなんとしても譲りたくない、公会議に従属したくない、の気持ちが強すぎたのではないか。われわれは300年後の第一バチカン公会議、400年後の第二バチカン公会議を待たねばならなかった。(続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする