カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ルターと芸術家たち

2017-10-25 10:34:12 | 神学

 10月31日がルターの「95ヶ条の論題」提示から500年の記念日ということで10月24日に「アカシア会」(教会の信徒の集まり)でM氏が講演された。演題は「ウイッテンベルクの小夜啼鳥マルティン・ルターと芸術家たちーそのⅠ ザックスとワーグナー」であった。カト研には音楽に詳しい方がたくさんおられるが、わたしは音楽や絵画には全くの素人でなんの知見もない。そんなわたしが、碩学のM氏のルター論、芸術論をここで紹介するのはまったくお門違いであることは重々承知しているが、学ぶことが多かったので恥を忍んでふれてみたい。私が誤解しているところが多々あるかもしれないと危惧しているが、カト研の皆様にはお役に立つところがあるかと思い、少し講演の内容を紹介してみたい。

 「M.ルターと芸術」というテーマは私には新鮮な問題意識だ。普通ルター論は①神学論か②人物論に照準が別れてしまう。神学論では福音派の義認論などが論じられ、改革派との異同が議論の中心となる。人物論・性格論ではルターが神経症を病んでいたとか、健康はすぐれなかったとかいう話になる。だが、③ルターの芸術への関心・貢献というのは面白い視点だ。音楽でいえば、ルターはコラール(賛美歌)を作詞したり、作曲したりしていて、『神はわがやぐら』『深き悩みの淵より』くらいは私でも知っているが、ルター自身の音楽論とはどんなものなのであろうか。また、絵画についてもルターはどのような態度をとり、関心を持っていたのだろうか。わたしには見当もつかない。

 ルター論でもう一つ考えなければならないのは、ルターその人ではなく、ルターを取り囲む人々、ルターの支持者たちが果たした音楽への貢献、絵画への貢献だ。こういう人々の働きがなければ、ルターの思想はあれほどのスピードで、あれほど広範囲に広がることもなかったのではないか。つまり、ルター本人の芸術との関わりと、ルター支持者たちの芸術との関わりを区別する必要があるように思えるが、どうなのだろうか。今日のM氏の講演は、ザックスとワーグナーというルター支持者二人の音楽家をとおして、ルターの特徴を明らかにしてくれた。音楽や絵に造詣の深いM氏の講演はおもしろかった。今日は音楽家が取り上げられた。次回は、L・クラナーハ、A・デューラー、P・ブリューゲルというルターを支持した画家たちを紹介しれくれるという。クラナーハやブリューゲルは私は名前くらいしか知らないので楽しみだ。今日は、クラナーハが描いたルターの画が数枚紹介され、興味深いものであった。

 さて、本題に入ろう。表題の「小夜啼鳥」とはルターのことだ。それは、H・ザックス(Hans Sachs 1494-1576)が、ルターを讃えて書いた長編詩、『ヴィッテンベルクの鶯(Die Wittenbergisch Nachtigall)』または『ウイッテンベルクの小夜啼鳥』(1523年7月8日発表、Nachtigallとはナイチンゲール、英語でnightingale)からきているのだという。これは当時の教皇とカトリック教会を糾弾する激しい詩だという。ザックスは、靴職人ギルドの親方で、画家であり、ドイツのマイスタージンガー(職匠歌人と訳されるらしい)の栄誉を与えられたルネッサンス期ドイツの百科全書学派の人文主義者だという。

 このザックスは、ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー( Wilhelm Richard Wagner 1813-1883)の楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(1868年)に登場する。第3幕でニュルンベルクの民衆が歌うコラール「目覚めよ。朝は近づいた」は、ザックスの詩『ヴィッテンベルクの鶯』の冒頭の一節に基づいているのだという。M氏が紹介された詩をのぞいてみよう。出典は藤代幸一『ヴィッテンベルクの小夜啼鳥』2000年だという。

目覚めよ、夜明けが近づいている。
緑の森で一羽の小夜啼鳥が
喜ばしげにさえずっているのが聞こえる
その鳴き声は山や谷に響き渡る。
夜は西に傾き、朝は東から昇る。
茜に照り映える曙が
どんよりした雲間から現れ、
そこから明るい太陽が輝きわたる。

 文字通りルターを讃える歌のように読める。ワーグナー自身にはルターを讃える意図があったかは判然としないらしい。また、ワーグナーの楽劇は宗教改革とは直接の関係はないようだ。だが、当時の北ドイツの庶民の中にあった教会高位聖職者への反感と、改革を希求する心情をすくい上げることに成功したから、傑作としての評判をよんだのだという。 こうして、ザックスとワーグナーによって、ルターと「小夜啼鳥」が結びつけられ、「ウイッテンベルクの小夜啼鳥」といえばルターのことを指すようになったのだという。ルターと音楽といえば、ヨハン・セバスチャン・バッハの名前がすぐでてくるが、ザックスとワーグナーの貢献も忘れてはならない、というのがM氏の話のポイントだと理解した。私は楽劇と歌劇の区別もつかない。おそらくオペラのことを指しているのだろうが、なぜ「マイスタージンガー」が「楽劇」と呼ばれ、「タンホイザー」が「歌劇」とよばれるのか、その区別はどこにあるのかまったくわからない。それでも、M氏の説明は詳細で説得力があった。

 このあと、M氏はルターの経歴を時系列的に説明された。それはそれで興味深い話もあったがここでは省略して、M氏が最後に強調された「要約」をまとめておきたい。
①ルターの教説の伝搬は、聖書のドイツ語訳の普及、北ドイツ・ネーデルランド地方の芸術家たちの協力、活版印刷術普及、に負うところが大であった
②「95ヶ条の論題」を扉に打ち付けたというメランヒトン(ルターの同志)の記述は誤りで、アルブレヒト・フォン・ブランデンブルグ大司教あてに1517年10月31日づけで書簡とともに送ったものである
③この10月31日にルターはカトリック教会と決別したわけではない。問題が始まっただけである。ルターが破門され、両者が決別したのは1522年1月3日のことで、3年余の月日が経った後である。ルターは、当初、教会の改革を求めていたのであり、決別しようとは思っていなかった。
④岩下壮一師は、ルターはカントに代表される近代思潮の原型だが、カント以上に「自我」中心であると評価していた。「ルターによれば・・・救いの重心は自己の心の中のこと、即ち純主観的のこととなって了った」(『信仰の遺産』1929)

 どれももっともな要約である。このあと若干の質疑応答があった。たとえば、M氏のルター評価は「甘すぎる」のではないか、いや、『マリアの賛歌』(1521)を上梓したときはまだマリア崇敬の気持ちを持っていたのではないか、ルター派とカトリック教会はどうして「和解」の方向に進みつつあるのか、などなど多岐にわたった。M氏の次回の講演が楽しみである。

 

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