カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

『使徒信条を詠む』(完)(神学講座)

2017-11-01 15:00:28 | 神学

 諸聖人の祭日の今日は晴天に恵まれ、多くの方がごミサにあずかっていました。11月の神学講座はお休みとのことだ。H神父様は担当する教会の巡回で時間がとれなくなっているという。10月29日のバザーは台風にみまわれたが無事に済んでよかった。わたしも出店されたサンパウロさんから、ジョンストン師の『愛と英知の道』(Mystical Theology の日本語訳)を入手できラッキーだった。監訳者のカルメル会の九里彰師は存じ上げないが、いずれ機会を見て読後感を紹介し、カト研のみなさんと一緒に学んでみたい。


 さて、「使徒信条」は前半が三位一体論、後半が教会論だ。前半部分は今までの第1節ですでに読んできたので、今回の第2節では教会論をとりあげる。第2節の表題は「人間の救いーあらゆる人間にとっての救いの諸要素への同意」と題されている。全体で5講義からなっている。

第15講 「聖なる普遍の教会」および「聖徒のまじわり」を信じます
sanctam ecclesiam chatholicam; sanctorum communionem;

 教会共同体の特徴は従来4つあるとされてきた。「一」・「聖」・「公」・「使徒継承」の4つだ。ニケア・コンスタンチノープル信条で「一」と「使徒継承」という特徴が付け加えられたが、古くから「聖」と「公(普遍)」が強調されてきた。「聖なる普遍の教会」とはそういう意味だ。では「聖」とはなにか。これは聖俗論として宗教学・人類学で果てしない議論が今でも続いている。阿部師は「聖とは神との親しさ」とストレートに定義し、マルコ8・27~35をてがかりに論じているが、さっとふれているだけである。「普遍の教会」の「普遍」という言葉を聞くとわれわれはすぐ実在論と唯名論をめぐる中世の「普遍論争」を思い起こすが、普遍の教会とは「公教会」のことでエクレジアのことだ。岩下壮一師は「聖公会」と呼んでいる(『カトリックの信仰』)。また最近は「普遍」(カトリック)はナショナリズム論との関連で「ナショナル」の対概念として使われることもあるようだ。ところが阿部師はここでは教会における「召し出し」(召命)の話をはじめる。講話だから話が飛ぶのはわからなくもないが、話の流れがよくわからない部分だった。
 もともと阿部師はエクレーシアの訳語として「信仰協働態」をあてるべきで、「従来の教会教同体という訳はエクレーシアという原義の豊かさを損なうと思います」(7頁)と述べている。興味深い訳語だが師はこの話題には深入りせず、、教会はゲマインシャフトかという大問題に立ち入らなかったのは賢明だったとも思える。とはいえ、「協働態」という日本語はちょっとなじまないという印象も受けた。

 「聖徒のまじわり」も簡単に説明されているだけだ。かっては「諸聖人の通功」と言っていたが、Communio Sanctorum のとらえ方がカトリックは広いのでプロテスタントは認めないところが多かった。そのためだろうか、現在は「まじわり」と表現されるようになったようだ。阿部師は聖徒のまじわりとは「幅広い層に広がる教会の信仰者たちの交流のことを指しています」と定義している(203頁)。「幅広い層」とはなんのことか。それはカトリックでは、「天上の教会」[煉獄の教会」「地上の教会」のことをさす。つまり聖徒には「すでに死んだ」聖人も含まれることになる。プロテスタントとの対立点のひとつでもあったのだから阿部師にはもう少し丁寧な説明をしてほしかった。
 そのかわりというか、ここで阿部師は「悪の問題について」と「救いの神学的理解について」という二つの大問題をとりあげる。「悪」の問題については、キリスト教がアウグスティヌス的な「善の欠如」として理解したのはオリエント的な善悪二元論が認めがたかったからだという説明をおこなう。ベネディクト16世を引用しながら悪を克服する手段にふれているが、それにしてもなぜ今時「善の欠如論」など持ち出すのだろう。師の意図がよくわからなかった。


 他方、「救いの神学的理解」の部分は説得力がある。救いの理解についてはラテン教会型、東方教会型の二種類があるらしい。義化論と神化論の違いと言っても良いらしい。師は、「神と人間との親密なかかわり」を重視するギリシャ教父の理解、東方教会型の理解がいかに優れているかを力説している。師はこの対比を図式化しており、それはとても興味深い説明なので、念のために書き写しておきました。ここで描かれているように、ギリシャ教父の救い理解の特徴は二点あるという。①キリストをとおして神の栄光に導かれる(神化する)②歴史そのものが神によって救われる(すべての人の救い)。師は最後に岩島忠彦師にならって、救いの特徴を以下の三点に整理する。①救いは神からだけ来る(旧約聖書の理解)②救いはイエス=キリストにおいてのみ現れた(新約聖書の理解)③人間はキリストに従う時、救いの何であるかを知ることができる。ギリシャ教父は師の専門領域のようだから力が入っている。師が書かれた図を載せておきます。

第16講 「罪のゆるし」を信じます remissionem peccatorum;

 実は『カトリック教会のカテキズム』には、「ゆるし」に就いての記述はすごく少ないのだそうだ。確かに調べてみると、第2編第二部の「いやしの秘跡」の部分で軽くふれられているだけだ。それは、ゆるしとは理論的に論じても意味がなく、具体的な実践のことだからだという。ということで師は聖書の中から「ゆるし」の場面を拾ってきて解説を重ねる。特に変わった説明はない。
 むしろ興味深いのは最後に師が突然「修復的司法」(Restorative Justice)の話を始めることだ。修復的司法とは従来の「応報的司法(Retributive Justice)の限界を乗り越えるためにおもにプロテスタント系の法学者にあいだで提唱されている被害者救済策の一つのようだ。日本でも犯罪社会学のなかで被害者論が登場してきている。重要な論点であることは間違いないが、阿部師がなぜここで修復的司法の話を持ち出してきたのかよくわからない。むしろ、具体的なゆるしの問題としては、例えば、いわゆる「チャプレン」問題をどう考えるのかを論じてほしかった。日本では論じられることのない、軍隊における従軍司祭・牧師とか、刑務所の「教誨師」とか、病院・介護・医療施設において宗教的ニーズに対応する宗教関係者の役割とか、神学者に踏み込んで論じてほしい論点だ。

第17講 「からだの復活」を信じます carnis resurrectionem,

 ここでは、「復活」とは何かについては論じられず、もっぱら「からだ」の意味が論じられる。からだとは「人間のありのままのすべて」のことで、「丸ごとの人間」のことをいうという。つまり、人間を「身体」と「魂」に分解して、その合成物として人間をとらえる近代主義的人間観を批判していく。ここから阿部師は近代社会の「人間中心主義」と、それがもたらした「無神論」を批判していく。キリスト教は、ギリシャ哲学、とくにプラトン主義にみられる「たましい」(近世以降のヨーロッパの[魂」理解とは少し異なるので表現をかえてひらがな表記している)の肯定的評価と「肉体」の蔑視観を批判し、肉体の価値の見直しをしたことを強調する。人間をたましいと肉体に峻別するギリシャ的価値観は神の創造のわざを否定する思想として拒否し、見直しを求めたという。具体的には創世記を中心に説明していく。これはこれでよくわかる説明であるが、「近代主義」批判を「人間中心主義」批判からのみ展開し、社会構造の変化や歴史的視点に言及しないのはラッチンガーを慕う阿部師らしくない気がちょっとした。

第18講 「永遠のいのち」を信じます et vitam aeternam.

 この最後の講話は力が入っている。説明も21頁におよび、しかも詳しい。
阿部師はまず「永遠のいのち」とは「人間が神と一緒に安らぎを得る状態」のことをいうと定義する。。これは阿部師が繰り返し行っている主張だが、自己中心的で自分のことしか考えない人間が、「相手に寄り添っていっしょに幸せになっていけること、相手のことを大切にできるような状態」のことを「永遠のいのち」とよび、「これがキリスト者が目指す生き方の究極目標だと、いまは考えています」(230頁)と述べている。「相手に寄り添って生きる」というのが阿部師の持論だ。
 さて、師はこの講話をごミサの「入祭のあいさつ」の説明から始める。三位一体の神は人間の「回心」(立ち返り)を待ち焦がれており、それはミサの冒頭から明らかだという。ごミサが始まると、司祭がまず「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに」と唱えるとわれわれはオーム返しに「また司祭とともに」と応答する。わたしはただミサが始まったなと思うだけでそれほど深く考えたことはないが、阿部師はここにこそ三位一体の神の特徴が集約されているという。恵み・愛・まじわり、という言葉だ。それほど大事なら、念のために『6カ国語ミサ式次第』での表現を覗いてみよう。

ラテン語
Gratia Domini nostri Jesu Christi, et caritas Dei, et communicatio Sancti Spiritus sit cum omnibus vobis.

Et cum spiritu tuo.

英語
The grace of our Lord, Jesus Christ and the love of God and the
fellowship of the Holy Spirit be with you all.

And also with you.

フランス語
La grace de Jesus notre Seigneur, l'amour de Dieu la Pere, et la communion de l'Esprit Saint,soient toujours avec vous.

Et avec votre esprit.

スペイン語
La gracia de nuestro Senor Jesucristo,el amon del Padre y la communion del Espiritu Santo este con todos vosotros.

Y con tu espiritu.

日本語ではこうなっている

司祭 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに
会衆 また司祭とともに


 阿部師は触れていないが、日本語訳でいつも指摘される問題点は、「また司祭と共に」のほうだ。バチカンはこの訳文にずっとクレームをつけている。原文通りでない、忠実な訳ではないという。原文の et cum spiritu tuo は直訳すれば「またあなたの霊とともに」となるらしい。「霊」という日本語はあまりにも多義的なので日本司教団は「司祭とともに」と訳した。訳語の「霊」を押しつけようとするバチカンと、霊は日本語訳としてはなじまないと抵抗する日本司教団の対立は根深い。日本司教団はいまのところここは頑として譲ろうとしないようだ。
 英語も曖昧だ。フランス語は esprit が使えているが、英語では  And also with you で you だ。英語はヨーロッパ言語としては珍しく動詞や名詞などの「格支配」をほとんど失っている。ドイツ語やフランス語にみられる格変化はほとんど消え、前置詞を多用することでなんとかごまかしている。2人称人称代名詞もyouだけで、親称代名詞はない。いまどきthouは使わない。英語は時制も不安定だ。これはこれで文法が単純化されてきているのだからいいともいえるが、こういう英語がいまや世界共通語になろうとしているのだからわれわれ非英語ユーザーは苦労する。日本語は主語が明示されなくとも話は通じる。人称代名詞はないも同然だ。話の「主題」がわかっていればいちいち主語や代名詞なんていらないのだ。と、あれやこれやで、この一番大事な入祭の典礼文も問題含みであることは確かだが、阿部師の論点はここにはない。恵み・愛・交わり が三位一体の神の特徴であり、それがこの入祭の式文に表現されているというわけだ。


 ここから阿部師はヨハネ福音書を使って永遠のいのち・奇跡・復活の説明を始める。どれも阿部師らしい熱のこもった説明だ。そして最後に「四終」の説明をする。四終とは永遠の命に移動する過程を表現するらしいが、具体的には「死」・「天国」・「私審判(煉獄)」・「地獄」のことだという。最近はあまり聞かれない言葉だが、キリスト教の「終末」を理解するための言葉だという。終末とは神の国の完成のことで、「神と万物との和解のとき」とされているという。興味深かったのは阿部師が源信の『往生要集』の第一章「厭離穢土」や世阿弥の『風姿花伝』を使って日本人の死生観をとりあげ、キリスト教の終末論の特徴を対比的に描いていることだ。師は室町時代の日本の文化・芸能(能楽・茶道・絵など)に造詣が深いようだ。そして最後に「善き死の練習」を勧めて講話を終えている。「善き死の練習」とは修道生活の伝統だそうで、「いま、自分が天に召されるとしたら、どうするのかを想定して毎月一回身辺整理をして心を正す修養のこと」(244頁)だそうだ。今風に言えば「終活」でしょうか。

第19講 アーメン-ひとつのまとめ


 アーメンの用法は聖書全体では三つに分類できるのだという。①同意(しかり) ②強調(まことに) ③頌栄(カトリックでは栄唱・しかあれかし)。アーメンという言葉はもともとヘブライ語でユダヤ教のシナゴーグでも使われていたようだし、コリントⅠによればパレスチナのキリスト教会では礼拝の最後で「マラナタ」と唱えてもいたようだ(アラム語・主よ来たりたまえという意味らしい)。阿部師はこのアーメンという唱句を詳しく説明していく。ここも興味深い講話が続く。
 最後に阿部師は、突然、大貫隆『イエスという体験』(2003)を使って、「いま」のイスラエル民族が直面している苦難の現実に目を向けるよう論じ始める。趣旨はあまりはっきりしないがユダヤ人の選民思想のことをいっているようだ。「特別な使命を帯びたイスラエルとして生きているユダヤ人たち」を理解しようと呼びかける。これは現在のパレスチナ問題を考えると、パレスチナ人とは誰か、ユダヤ人とは誰か、イスラエル人とは誰か、という大問題について一つの立場性を選択することだから、講話としてはちょっと踏み込みすぎかなと思わなくもないが、師にはどうしても言っておきたいという思いがおありなのであろう。

 本書はこのあと Ⅲ現代的可能性 Ⅳ番外編 と続くが、使徒信条そのものの解説ではないので省略したい。本書で学ぶことは多かった。内容もさることながら、特に印象的だったのは、阿部師の信仰に対する真摯な態度だった。本書を推薦してくださったH神父様には感謝したい。

 

 

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