カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

仏教とキリスト教(3)(学びあいの会)

2018-01-27 11:16:08 | 神学

Ⅲ 修行と教団


 仏教教団の整理も難しそうだ。特に組織論として議論するのは難しそうだ。キリスト教のように聖座(使徒座)があるわけではないし、統一組織があるわけでもなさそうだ。本末制度(本山・末寺のヒエラルヒー)も歴史的議論が中心のようだ。
 仏教教団の特徴を整理するためにここでは「学派」と「宗派」という区別をたてておこう。仏教はインドで生まれたが、中国で発展した仏教はインド仏教そのものではない。取捨選択がなされ、土着化がなされる。それでもインド経典の翻訳解釈だから、どうしても研究集団、「学派」の性格をもっていたようだ。末法思想が広まって浄土信仰が強まると「挌技仏教」と呼ばれる中国化した仏教が生まれてきたらしい。それでも信仰集団とは呼べなかったようだ。やがて、天台宗の開祖智顗(ちぎ)が登場し、学派だらけの仏教をちゃんとした信仰集団に、「宗派」に、切り替えたようだ。そして智顗に教えを受けた最澄こそ日本の信仰集団としての宗派創設の始まりと言って良いらしい。ここに宗派としての日本仏教が動き始める。
 日本には538年に仏教が伝えられたが、そのまま入ってきて定着したわけではなさそうだ。奈良時代に成立したいわゆる「南都六宗」(法相宗・華厳宗・律宗・倶舎宗・成実宗・三論宗)は中国直輸入だから、宗派と言うよりはやはり経典研究を注とする研究集団、学派みたいなものだったらしい。例えば、法相宗は唯識論を研究する集団、律宗は戒律を研究する集団みたいで、諸宗兼学だったという。僧はあっちこっちに行って経を学んだわけだ。だがやがて仏教は日本文化にあわせて変化発展していく。日本仏教として、宗派として、きちんと独立するのは最澄・空海の密教を中心とする平安仏教以降のことと考えて良さそうだ。
 仏教の日本化は、従って、教義的には「諸法実相」論が基礎となり、「本地垂迹説」として現れてくる。諸法実相とは大乗仏教の思想で、原始仏教みたいにすべてが無だとか識だとか考えない。むしろ存在するものをすべてありのままに受け入れ、真実と認める。いってみれば現実主義的な思想だ。本地垂迹説では、日本の神は仏が姿を変えてこの世に現れたもの(権現)とされる。たとえば、天照大神は大日如来の化身だとされる。仏教の日本化はこうして始まったという。やがて日本の仏教は鎌倉仏教として発展していく。
 このように、教団論は結局どうしても日本の宗派の比較か、伝統教団と新教団(創価学会とか立正佼成会とか)の比較の話になってしまう。なにか視点を定めないとうまく整理できないようだ。

3・1 出家の生活様式

 そこでここでは、仏教における「修行」の意味の検討から始めてみたい。まず「三宝論」から入ってみよう。仏教徒の信仰の対象は「仏法僧の三宝」といわれる。三宝とは、仏法僧は仏教の宝物、という意味だ。「仏(ブッダ)」はシャカのことで、「法(ダルマ)」は教えのこと、そして「僧(サンガ)」は教団のことだ。具体的には仏は「仏像」、法は「経典」、僧は「寺院」ということになる。この三宝を信ずることを「三帰(依)」とよび、入信受戒のときの条件となるようだ。僧俄(サンガ samgha)が、つまり出家修行者の集団である教団が、信仰の対象であるというのは、教会を信仰の対象とみなすカトリックと似ていて興味深い。だがサンガは出家修行者の集団だ。本来は在家者を含まない。そこで、修行とはなにか、という問題にぶつかる。
 一般論で言えば、修行(spiritual exercise)とは宗教体験を通して宗教意識を高める精神的・身体的な営みといえよう。つまり身体を訓練すれば精神を変えることができるという考え方がないと修行は成立しない。キリスト教はどちらかといえば「霊肉二元論」が強いのでこの思考様式は弱いが(注1)、仏教は「心身一如論」をとるので、身体の訓練が精神を変えるという考え方に違和感を持たない。ところが、宗教の中には神や仏などの超越者が一方的に恩寵・恩恵を施し、人間側の努力や実践は救いには役立たないと考える立場もある。誤解を恐れずに言えば、恩寵のみのプロテスタントや絶対他力の浄土真宗だ。こういう考え方のなかからは修行というものは生まれてこない。他方、救いには人間の側の努力も必要だと考えれば修行が重視されてくる(注2)。日本人は汎神論的思考が強いので、一道に通じればすべてに通じる、宇宙に通じる、と考える。このため、仏教では、念仏・只管打坐・お題目などが重視される。また、宗教だけではなく、武道・茶道・書道など芸術や行でも修行が大事だと考えたがるようだ。
 修行は、精神(心)だけの修行と、身体の修行と、二つある。心の修行は、ウパニシャッドのヨガとか、仏教の座禅とか、キリスト教の黙想とかがあげられる。身体を使う修行としては巡礼のような歩行、写経があり、不眠のような苦行も入るかもしれない。
 仏教ではこの修行は、「三学」として定式化されている。三学とは「戒・定・慧(かいじょうえ)」という修行の項目のことだ。おのおの戒学・定学・慧学とよばれているという。戒とは五つあって「五戒」といわれ、「不殺生(ふせっしょう)・不偸盗(ふちゅうとう)・不淫・不妄語・不飲酒」からなる。なかなか厳しい戒律だ。定(じょう)とは心の安定、精神統一のための禅定のこと、慧(え)とは般若のこと、つまり真理を悟る知恵のことらしい。仏教の修行とはこの三学を修めることを意味する。
 では誰が修行するのか。それは出家だ。出家とは文字通り家を出て仏門に入ることを意味する。原始仏教の時代、出家はホームレスみたいなもので定住せず、労働せずだった。雨期にのみ数ヶ月定住しただけだったらしい。やがて定住して、精舎で集団生活をするようになる。自ら労働はしないのだから、外部からの援助支援がなければ生きていけない。
 教団を構成するサンガは出家だった。男性修行者は比丘、女性修行者は比丘尼とよばれ、生活は遍歴、つまりホームレスだ。持ち物も、三衣(さんね)・食鉢・座具・漉水袋(ろくすいたい)だけだという(注3)。
 出家して修行する者を「沙門」(しゃもん)と呼ぶ。僧侶のことだろう。修行者のなかで最高位の者を、小乗仏教(部派仏教)では「阿羅漢」(アラカン)とよぶ。聖者とも呼ばれるらしい。仏はシャカのみだ。つまり「覚った」のはシャカのみだ。他方、大乗仏教では成仏した仏を最高位の者と考えるようだ。

 今回は時間切れでここまでだった。詳しい教団論は次回以降ということになる。なお、参考までに、インド仏教の根本分裂の歴史、日本仏教の歴史と概要、主要宗派の比較表などを数枚載せておきました(注4)。

注1 キリスト教における霊肉二元論は議論し出すとキリが無いテーマで、神学の問題になってしまう。ジョンストン師は禅を学ぶことで、身体が、姿勢が、信仰に対して持つ重要性を再確認したと繰り返し述べている。かれは寒い冬でも作務衣を着ていた。
注2 カトリックでいえば善行論だ。キリスト教では、「修行」(praxis)は「修徳」(禁欲 askesis)の対概念で、修道者の節制・禁欲のすべてをさす。たとえば、断食・徹夜の祈り・霊的読書などで、清貧生活のすべてが含まれる。昔のドミニコ会の鞭打ち苦行も含まれるかもしれない。神学的に言えば、恩寵論対自由意志論の対立の話になる。
注3 キリスト教で発展した修道院、修道士と対比して考えると色々感想が浮かぶが、それは改めてふれてみたい。
注4 松濤弘道『』仏教の常識がわかる小辞典」2002

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする