カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

仏教とキリスト教ー歴史と大乗経典(5)(学びあいの会)

2018-02-28 15:10:05 | 神学


6・3 法華経(妙法蓮華教)

1 法華経は大乗仏典の王とされている重要な経典だ。「般若経」誕生後50~150年に作られたお経。般若経を批判否定し、「一仏乗」を主張しているという。諸宗派の開祖(最澄・法然・親鸞・栄西・道元・日蓮など)が帰依している。日蓮宗などはこれ一本だという。全8章で28品(章)、迹門(1~14章)、本門(15~28章)からなり、二門六段からなるドラマ仕立ての経文だという。といっても内容はかなり矛盾した教えが含まれ、どれを正しいとするかで日本の宗派が分かれてくるようだ。
 如来寿量品第16は天台宗や日蓮宗では日常的に読経が行われていて、「自我偈」とか「久遠偈」と呼ばれているらしい。「諸法実相」を説く方便品第二も思想的には重要なお経だという。
 法華経は、聖書でいえば、ヨハネの黙示録みたいなものらしい。

2 法華経の主な教え
①仏のみが真理を知る。仏のものの見方、知見を知ることが大事である。
②久遠実成の仏 久遠実成(くおんじつじょう)の仏とは、遠い過去(久遠)に仏(如来)となった釈迦が現在も生き続け、未来永劫に渡って人を救い続けてくれるという意味だという。
つまり、シャカは無限の昔に仏となっている。仏は永遠に存在する。シャカはある時生まれて、覚りを開いて仏になった歴史的存在、という理解を覆す教理。「仏に生死、生滅、実も無もない」(如来寿量品第16)。これは革命的な主張だったのだろう。イエスは遠い昔から存在していたというヨハネの描き方に似ているといったら言い過ぎだろうか。
③法華七喩
三車火宅の喩・長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩・三草二木の喩・化城宝処(けじょうほうしょ)の喩・衣裏繋珠(えりけいじゅ)の喩・髪中明珠(けいちゅうみょうじゅ)の喩・良医治子(ろういじし)の喩。法華七喩の話は最近はマンガにもよく出てくる有名な譬えのようだが、マンガを読まない私は知らない。カト研の皆様のなかにも聞いたこともないという人がおられるかもしれない。ネットを覗いてみましょうか。といっても仏教関連の本には必ず紹介・説明があるようだ。

 さて、ここで仏教の典礼の紹介に入った。「三礼(さんらい)・三宝礼(さんぼうらい)」というらしい。ごミサもその内容は構造化されており(ことばの典礼・感謝の典礼)、姿勢(所作・動作)も、起立・着席・跪く(立ったり、座ったり、跪いたり)があるが、仏教の典礼にも同じような構造、姿勢があるようだ。一つの例が紹介された。もちろん宗派によって言葉や所作に違いはあるようだが、基本は同じと考えてもよいらしい。

 三礼は、本尊に向かって、3回立ったり座ったり(和室なら、畳に額をつけ)して、「普禮真言」を唱える作法のことをいう。お寺の法要などでよく見かけるシーンである。

①三礼
②「南無十方法界常住三宝」奉唱(三遍、二丁)
③懺悔文 奉唱(一遍、一丁)
我昔所造諸悪業 (がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡 (かいゆうむしとんじんち)
従身語意之所生 (じゅうしんごいししょしょう)[2]
一切我今皆懺悔 (いっさいがこんかいさんげ
④三帰依文 奉唱(三遍、一丁)
弟子某甲 (でしむこう)
盡未来際 (じんみらいさい)
帰依仏 (きえぶつ)
帰依法 (きえほう)
帰依僧 (きえそう)
⑤三竟 奉唱(三遍、一丁)
弟子某甲 (でしむこう)
盡未来際 (じんみらいさい)
帰依仏竟 (きえぶっきょう)
帰依法竟 (きえほうきょう)
帰依僧竟 (きえそうきょう)
⑥三聚浄戒(さんじゅじょうかい) 奉唱(三遍、一丁)
摂律儀戒 (しょうりつぎかい)(一切の諸悪をみな断じ捨てさること)
摂善法戒 (しょうぜんぼうかい)(積極的に一切の諸善を実行すること)
摂衆生戒 (しょうしゅじょうかい)(一切の衆生をみな摂取して、救済する)
⑦開経偈 奉唱(一遍、一丁)
無上甚深微妙法 (むじょうじんじんみみょうほう)
百千万劫難遭遇 (ひゃくせんまんごうなんそうぐう)
我今見聞得受持 (がこんけんもんとくじゅじ)
願解如来真実義 (がんげにょらいしんじつぎ)
⑧読経
「オン・アロリキャ・ソワカ」 (観世音菩薩の真言、まるで呪文のよう。事実マントラは呪文とも訳される。日本に入ってくる過程で発音が変化してしまったらしい)
⑨回向文 奉唱(一遍、五丁)
願以此功徳 (がんにしくどく)(願わくは私の行った善い行いの果報が)
普及於一切 (ふぎゅうおいっさい)(この世のありとあらゆる存在すべてに行きわたり)
我等与衆生 (がとうよしゅじょう)(自分を含めたすべての人々と生きとし生けるものとが)
皆共成仏道 (かいぐじょうぶつどう)(皆と共にあらゆるものに対しての慈しみの心を持ちつつ自らが勤め励む道を日々たえまなく進んでいきますように)
⑩三礼

 この構造化された典礼は興味深い。まるで、「キリストと我等のミサ」を読んでいるようだ。動作にも意味があるのも同じだ。問題は言葉だ。日本語ではないので何を言っているのかわからない。文字にすればなんとなく類推できるが、漢字で音読されるとまったくわからない。なぜ日本語訳で唱えないのか。といってもカトリック教会でもついこの間まではラテン語でごミサをあげていた。ミサの現地言語化がいかに革命的であったかを思い起こす。なぜ漢訳された梵語のまま使い続けているのか。冗談好きのお坊さんによれば、お経を上げていても誰も意味はわからないのだから、いつどこで止めても誰も気づかないから重宝だという。日本語化したらありがたみがなくなるという説よりなんとなく説得力があるといったら、お坊さんに叱られるか。


6・4 観音経

 これは、観世音菩薩普門品第25が独立したもので、観世音菩薩(観音菩薩)の来歴や功徳について説かれているという。日本では、真言宗・天台宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などで、法要で良く読まれるという。すでにインドで信仰されていて、中国、日本でも多くの信仰を保ち続けているという。日本ではこの経典に基づいて西国33観音霊場が整備され、多くの人が霊場巡りをしているという(四国88カ所のお遍路さんではない)。観音経は般若心経についで良く読まれるお経だという。般若心経がどちらかといえば庶民的・大衆的なお経なのにたいして、観音経は人生の糧として真剣に信仰されているという(写経は般若心経で、観音経ではないようだ)。
 観音菩薩を称えれば「七難」から救われるという教えが中心らしい。七難とは、
火難・水難・羅刹難・刀杖難・鬼難・枷鎖難・怨賊難 という。
 観音は菩薩だから、出家前の王子だった頃の釈迦の姿に似せて豪華な衣装や装飾品を身にまとう。菩薩は如来ではないから、現世利益、救済信仰の対象で、33のの姿に身を変え(33化身 注1)、現世利益をかなえるという(注2)。観音はじっとしている。なにもしない。じっと聞き耳を立てて皆の訴えを聞いているのだという。
 観音経は般若心経より長文なので、出だしだけちょっとのぞいてみよう。

(01) 世尊妙相具 我今重問彼 仏子何因縁 名為観世音
(02) 具足妙相尊 偈答無盡意 汝聴観音行 善応諸方所
(03) 弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億仏 発大清浄願

真言宗での訳は、

(01) 仏陀釈尊は、とても優れたお姿をされています。「私(無尽意菩薩)は今再びこれについて質問させて頂きます。仏の子(観世音菩薩)はどのような理由によって、「観世音」と名づけられたのでしょうか?」。
(02) 素晴らしいお姿をされたお釈迦様は、詩を唱えて無尽意菩薩に答えられた。「無尽意菩薩よ、聞きなさい。観音菩薩の修行は、あらゆる場所(からの救いの求めに)に答えるものです。
(03) その誓願の大きく深いことは海のようであり、永遠とも思える時間を経ても、伺い知れないほどである。幾千億というほど多くの仏陀のもとで修行し、大いにして清らかな誓願を発したのである。

 今日は時間切れでここまでだった。来月もお経の話が続く。


注1 33という数字は古代インドでは特別な宗教的意味を持っていたという。数そのものに意味があるわけではなさそうだ。
注2 先日、上野の国立博物館に「特別展「仁和寺と御室派のみほとけ ― 天平と真言密教の名宝 ―」を見に行った。京都仁和寺の阿弥陀如来座像も立派だったが、驚いたのは大阪・葛井寺(ふじいでら)の千手観音菩薩坐像だった。千手観音像は普通40本の手で1000本をあらわすのに、これはなんと1041本の手を持っている。像の裏に回ってみるとこの1041本の手がみな突き刺すように組み込まれていた。しかも大きい。8世紀の作とは思えないほどの美しさを保っている。国宝とか芸術作品というより、やはり信仰の対象だったことがよくわかる。事実、この座像の前で真剣にお祈りしている人もいた。観音信仰は今も生きているのだろう。

 

 

コメント (1)
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