カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

み顔を探す霊性 ー カルメル会中川博道師講話(1)

2018-11-03 21:50:51 | 神学

 中川神父様の講演会に行ってきた。印象が消えないうちに簡単にまとめておきたい。横浜教区カテキスタ会主催(注1)の講演会で、演題は「今の時代をイエスとともに生きる教会 ー み顔を探す霊性」で、場所はカトリック雪の下教会。秋晴れの文化の日で、八幡さまは混んでいたが、段葛の桜は塩害でやられ無残であった。
 講演会は出席者が多く、椅子が足らないほどであった。ざっと100人以上はおられたのではないだろうか。殆ど女性。テロだの暗殺だのと物騒な話ばかり多い昨今、「霊性」についてのお話しで、しかもカルメル会の神父様のお話となれば、たくさんの人が集まるのは当然といえば当然だろう。わたしも中川師のお名前は存じ上げてはいたが、講話を聞くのは初めてであった。
 講話は午前、午後の二回にわかれて長時間だった。聴衆は高齢の女性ばかりだから、神父様も笑いをとるのに苦労しておられたようだ。話題も多岐にわたっていた。講話は、師の著作『存在の根を探してーイエスとともに』(2015)と同じかと思ったが、そうではなく、最近師が考えていることをそのまままとめられたようで、師の個性、主張が強くでていた印象を受けた。

 

 


 講話は、フランシスコ教皇の回勅『ラウダート・シ ー ともに暮らす家を大切に』(2015)が中心だった。講話の趣旨は、今の変革期の世界の中でイエスの「み顔」をさがすことが現代的霊性のあり方だ、と聞こえた。少しレジュメに沿って要約してみよう。
 
 師はまず、「霊性」の「霊」という言葉の説明から入られた。霊という言葉は日本語としてはまだ落ち着いていないため、spirit という単語を主に説明された。結局、「霊」とは「神とのつながり」のことで、それは「イエスのみ顔」探しのことだという。何のことなんだろう。師は何を言いたいのか。

 師は言う。現代は人類史上まれにみる新しい時代で、科学技術の発達はすさまじいが、人間の霊的成長はそれに追いついていない。かっての内向きの、個人主義的霊性の誘惑を避け、「真実の霊性」を求めねばならない。真実の霊性は、「目覚めて生きること(注意深くあること)」を通して獲得できる。「目覚めている」(マルコ13・32-37)こと、「注意深くある」(L.S.226)(注2)こと。目覚めている、注意深い、が現代的霊性のキーワードのようだ。では、目覚めているとは、注意深いとは、どういうことなのか。

 この説明に入る前に、中川師は、松井氏の議論(注3)に依拠しながら、地球の既存のシステムが崩壊し、世界の枠組みが激変したことを説く。続いて、この地球規模の大変革に教会がどのように対応したらよいのかを、『ラウダート・シ』のなかに読み解いていく。

Ⅰ 「ともに暮らす家」で今起こっていること

1 今、地球上で起こっていること

 師はここで、「科学技術」の急速な進歩と「人口爆発」を、いま地球上で起こっていることの二大特徴として指摘する。特に人口爆発については国連のデータを使いながらその規模のすさまじさを歴史的に詳しく説明していく。また科学技術の発達に関してはAIによる「第四次産業革命」にまでふれる(注4)。この二つの巨大な変化が「人間の再定義」を要求し始めたという。つまり、AIや、ロボットや遺伝子操作を前にして「人間にしかできないこと」が問い始められた、という。「人間にしかできないこと」、教会のメッセージはここに向けられる。

2.既存の地球システムの崩壊と世界の枠組みの激変

ここは松井氏の議論を中心に、このままのエネルギー消費と生産の拡大は限界に来ていることが説明される。

3 教会の全人類への呼びかけ

 ここでフランシスコ教皇の回勅『ラウダート・シ』のポイントが紹介される。この回勅は、読みようによっては、地球の生態的危機をこれでもかこれでもかと訴えているように読める。だが、実は教会は、 Integral Ecology (生態的統合 とでも訳せるか)の実現を目指しているという。インテグラル・エコロジーとは、人間は「あらゆる存在と兄弟姉妹性」を持っている、宇宙・地球・生物・人類はみな兄弟姉妹なのだ、という意味だ。これは、ビッグバン・ミロコンドリア イヴ・ヒトゲノム解読など現代科学の裏付けを持った視点だ、という。「宇宙・地球・生物・人類はみな兄弟姉妹なのだ」、というのがこの回勅のメッセージだ(注5)。

4 教会の自覚

1)先送りにはできない教会の刷新

 「教会の刷新はすべて宣教を目的とすべきです。教会の内向性というものに陥らないために」(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』27項 37頁)。教会の刷新こそ現在の教会に求められている。そのためには外に眼を向けねばならない。師はバチカン第二公会議の初心に戻るべきだと繰り返された(注6)。
2)「不毛な悲観主義」への警戒を促す教会

 地球は危機に陥っている。だけどそれを破壊や災難としかみないのは間違いだ。確かな「希望」に支えられて生きるためには、変化における様々なプラスの側面の認識が必要だ。ここで中川師は、S・ピンカー『暴力の人類史』(2015)、Y・ハラリ『サピエンス全史』などを使い、世界の動向についてマイナスイメージを持ちやすいわれわれの認識システムを意識化する必要性を強調する。要は、もっとポジティブな面にも眼を向けよと言っているようだ。思い込みからの解放こそ回心への糸口だという。師は、現状肯定論でも、保守派でも、なさそうだ。むしろ反対かもしれない。だが、こういう複眼的視点をお持ちのようで、聞いていて安心感があった。

 では、イエスのみ顔を探すためには、具体的にはどうしたらよいのか。
長くなりそうなので次稿にまわしたい。


注1 カテキスタとは公教要理(カトリック要理)を教える人。シスターや修道士とは限らないようだ。具体的には各教会でキリスト教入門講座を担当されている方々をさすようだ。
注2 L.S.とは『ラウダート・シ』のこと。数字は項目の番号。
注3 松井孝典『我関わるゆえに我あり』 集英社新書 2012
注4 師はこういう実証的な議論がお好きなような印象を受けた。配付資料には詳しい図や表が載っていたが、ここで詳説する紙幅はない。
注5 こう表現されるとなにか汎神論的響きがしないでもないが、われわれ日本人にはストンとくる視点だ。
注6 フランシスコ教皇のこういう姿勢を批判する人々がいることはよく知られている。だが実はこれは、訳本の注釈によれば、教皇ヨハネ・パウロ二世の言葉らしい。わたしにはむしろ中川師の教皇さまへの温かい視点が印象的であった。とはいえ、司祭による幼児虐待問題など、教会の刷新は外だけではなく、中でも必要だろう。16世紀の宗教改革が贖宥状を発端とした改革であったのなら、この問題は、第二の宗教改革、21世紀の宗教改革をもたらしかねないほどの大問題のように思える。

コメント (3)
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