カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

イエスの奇跡 ー 新約聖書とイエス(その13)

2018-12-19 20:47:16 | 教会


4 自然奇跡物語

 湖上歩行の物語を見てみよう。マルコ6:45-52だ。

45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて船に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間にご自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、船は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところへ行き、そばを通り過ぎようとされた。
49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
51 イエスが船に乗り込まれると、嵐は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。

 印象的な描写だ。この節については聖書学では伝統的にいくつかの特徴が指摘されてきたようだ。
①まず、6:51での、「嵐は静まり」という表現だ。実際に嵐はあったのであろうが、これは旧約聖書では神を自然界の支配者として描く一つの方法だという。詩篇107:28f に見られるという。

②「そばを通り過ぎようとされた」(6:48)。これは重要な表現だという。「そばを通りすぎる」とは「神顕現」と呼ばれ、神が自らをお示しになることだ。出エジプト記33:22には、、「わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う」とある。
 また、列王記(上)19:11には、「主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、その時主が通り過ぎて行かれた」とある。ちなみに、今回の聖書協会共同訳では、「主が通り過ぎて行かれると、主の前で非常に激しい風が山を裂き、岩を砕いた」となっている。これは主がエリアに臨んだシーンである。主は「通り過ぎる」というかたちで自らを顕現されるようだ。
③「わたしだ」(6:50)。これは旧約聖書における神の自己啓示の定式的な言辞だという。すべてのものにイエスが現存するという考えだ。「わたしだ」(共同訳では「私だ」)とはなんと力強い自己啓示だろう。有名な出エジプト記3:14f を見てみよう。
「神はモーゼに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われた。また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
 「わたしはあるという者だ」は、前回も触れたように共同訳では、「私はいる、という者である」となっている。「ある」と「いる」の違いはわからないが、神は「わたしだ」のひとことで自己規定しているようだ。

 このマルコ6:45-52を、マタイ14:22-33,ヨハネ6:15-21と比較してみよう。おなじ湖上歩行の話だ。「わたしだ」はどれにも記されている。マタイは詳しい。「そばを通り過ぎる」はマルコだけにある。この三カ所の比較の議論は、ギリシャ語やヘブライ語を照らし合わせながら行われるようで、我々の力量を超えている。今回は皆で読み合わせて味わうにとどめた。

 したがって、この自然奇跡物語の主題は、イエスの現存とそれへの弟子たちの信仰だ。湖の上を歩くなんて、本当のそんなことが起こったの、と問うのはあまり意味は無いように思える。イエスの奇跡の本質は、イエスが人々を憐れみ、人々がイエスにまみえる中で体験した解放のことのように思える。神学的に言えば、奇跡は神の支配の開始の徴であり、人を神との真の関係に導くものといえよう。
 とはいえ、奇跡論はブルトマン流の非神話化論(1)、ひいては史的イエス論や自由主義神学そのものと対峙している。救いに関してもあいかわらず「原罪」論からはいる人と、「復活」論から入る人との対峙は大きい。奇跡論はむずかしい。

注1 聖書にある奇跡はすべて説明できるという極端な非神話化論もあれば、聖書の話はすべて真実だという原理主義的立場もある。たとえばパンの増加の話は、5000人に食べさせたり、4000人だったり人数の違いがあるとはいえ、数そのものにあまり意味は無いだろう。また、パンが増えたのではなく、人々が弁当を持ってきて話を聞き、その弁当をお互いにあげっこした、いわば隣人愛の話だという「弁当」説など、一般に流布している説は多いようだ。非神話化論の影響範囲は広い。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする