カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

あなたは社会とどう関わっているのか ー キリスト論の展開(3)

2019-04-24 12:59:40 | 神学


 表題は岩島師の「心すべき点」の三点目。師は、「伝統的宗教の踏襲ではなく、今の教会・日本社会・世界との関係で信仰をつかみ直」せ、と言う。個人的信心だけではなく、実践が大事ですよ、ということであろう。私なんぞは、時々駅前で署名したり献金したりして、これといって何もしていない日頃の怠惰から生まれる罪意識をかすかに解消して自己満足しているだけ。師から、何かをしなさい、と言われても何も思いつかない。しょうがないから、続きを書いてみます。

Ⅳ 3世紀のキリスト論

1 異端の再登場

 3世紀のキリスト論は第二の巨大な異端説、モナルキア主義への反駁が中心だ。モナルキアとは神の単一支配を意味する。正統なロゴス・キリスト論(1)、つまりキリストを神のロゴスの受肉と考えた教父たちに対抗して、神の単一支配、一神教に固執した異端が再度登場してくる。
 このモナルキア主義は二つの異なる説として現れたという。一つは、かってのキリスト養子説が200年後に再度登場したのだ。だが永続きはしなかったようだ。
 もう一つはキリスト様態説だ。「岩波キリスト教辞典」によれば、サベリウス主義とか、天父受苦説などとも呼ばれるようだ。つまり、キリストの神性のみを強調し、父なる神がキリストとして顕現したのであり、神・キリスト・聖霊は単一の神の三つの顕現様態にほかならないと主張したという(2)。この説も220年頃には早々と異端とされた。
 では、誰がどういう根拠である説を異端と断罪するのか。ここに4世紀以降の公会議の必要性が浮かび上がってくる。最初の公会議は325年に開かれる。ニケア公会議である。

2 ラテン教父の誕生

 東西文化圏が分裂するに伴い、西方教会にもラテン語を使う教父たちが出現してきたという(3)。地理的にみてギリシャ語圏とラテン語圏がどこで切れていたのかは知らないが、現在のバルカン半島での言語の分布状態(バルカン言語連合と呼ばれるらしい)を見ると少しは推測がつく。

①テルトリアヌス (160-220) カルタゴの神学者(4)で、最初のラテン教父。法律学や哲学の素養を持ち、「ラテン神学の父」と呼ばれる。キリスト論的にはロゴス・キリスト論を継承する。み言葉の受肉論、スブスタンチア(実体)論(5)を展開した。また、三位一体やサクラメントなどの神学用語をラテン語で作り、使った(6)。グノーシス主義やモナルキア主義に反対し、ニケア信条、カルケドン信条を先取りするような三位一体論を主張したという。

②オリゲネス(185-253) ギリシャ教父。アレクサンドリア(エジプト)に生まれ、塾(学校)を開く。思想的にはプラトニズムの影響が強く、父から子への永遠の誕生など「流出説」的な議論があるという。神学的には、超越的・絶対的神性の強調が見られ、父と子のホモウーシオス(7)を唱えるなど、ニケア公会議の教義を先取りしている。膨大な著作を残し、その神学上の影響力は巨大だという。ただ、魂の先在説を唱えたため、後に異端宣告されたという(8)。

 今回の報告はここまでである。S氏のキリスト論が強く出ていたわけではないが、「史的イエス」研究に関する氏の評価がかなり厳しいことを知った。来月以降のもっと詳しい議論を期待したい。


1 ロゴス・キリスト論とは、繰り返しになるが、「キリストは神のロゴスのこの世への現れ」とする神学理論だ。これは、前回触れたようにユスティノスが、ストア哲学(ギリシャ哲学)のロゴス論(ロゴスは宇宙と人間を支配する理性的秩序の原理であり、神的なものである)をキリストに当てはめたものだ。
2 S氏は、様態説を、「一つの神が時代によって変容するとする説」と説明しておられたが、ちょっと意味が違うようにも聞こえた。とはいえ、この説明の妥当性の可否を論ずるだけの力は私にはない。
3 ラテン教父 Latin Fathers of the Church とは、ラテン語を使って著作を著した教父のこと。いつ頃からいつ頃までの教父を指すのかは明確な定義はないようだ。慣例的に、4世紀以降、グレゴリウス一世(540-640)までの期間の教父を指すようだ。アウグスティヌス(354-430)はラテン教父の代表者だが、次の時代の人だ。
4 カルタゴは古代北アフリカの都市。シチリア島の南に位置する。現在のチェニジアあたりか
。カルタゴはかってローマとは独立した平和な海上帝国であった。前150年に滅亡する。
5 スブスタンチアは日本語では「実体」と訳されることが多いようだ。「存在論」(e^tre,Sein)の訳語は難しい。ここでは、父と子と聖霊は3つのペルソナだが一つの実体・本性であるという説のことをいう。「人性と神性の二つの本性が、イエスにおいて混合されることなく、結びつき一致している」と言っているという。この説明の仕方は、まるで現在の公教要理で教えられる、「混ざらず、変わらず、分かれず、離れず」の教えそのものだ。現在でも、三位一体は「分離しないで区別せよ」と教えられる。「実存」(existence,Existenz)と「本質」(essence,Wesen)の違いの理解が前提だから、難しい話だ。入門講座から入って洗礼を受ける人は、お恵みとはいえ、勉強は本当に大変だと思う。
6 たとえば、ギリシャ語のミステリオンがラテン語ではサクラメントとミステリアムの二つに分解されて翻訳される。英語で言えば、sacramentとmysteryだ。日本語で言えば、カトリックでは「秘跡」と「神秘」とう二つの言葉で使い分けられる。ちなみにサクラメントの日本語訳はカトリックでは秘跡だが、プロテスタントでは聖礼典、聖公会では聖奠(せいてん)、正教会では機密、と訳されているようだ。統一することができないほど重要な概念ということであろう。例えば、「過越の神秘を秘跡によって祝うことが教会の典礼」(『カトリック教会のカテキズム』)というような表現が日常的に使われるので、サクラメントが典礼(liturgy)という意味で使われることもあるようだ。とは言っても、こういう多様な訳語はキリスト者以外の人にとってはすぐにはピンとこない言葉遣いではある。
7 homoousios 実体または本質を同じくするという意味で「同一実体」また「同一本性」と訳される。三位一体論ではキー概念である。
8 イエスにおいて神性と人間の肉体がどのように結びついているのか、という大問題について、イエスの「魂」が「結び目」の役目を果たしていると主張したようだ。魂が物質のように質量や重さを持つというよりは、前もって存在していると考えていたのであろう。プラトンの魂の三分説の影響だろうか。

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