カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

大嘗宮は観光施設だった ー 宗教が消費される社会

2019-12-04 10:45:48 | 教会


 今日(12月3日)は晴天に恵まれたので、西洋美術館の「ハプスブルク展」を見るついでにと思い、皇居に大嘗宮をも訪ねた。ところがこれが思いがけず長い大行列で大混雑だった。

 大嘗宮(だいじょうきゅう)は先日の大嘗祭(新嘗祭)で用いられた施設で、大金をかけて作られた施設だがいずれ解体されるという(1)。11月21日から12月8日まで一般参賀が許されるというので訪ねたわけだ。もう公開も終わり間近なので空いているかと思いきや大混雑。参観者は東京駅から並んでおり、観光バスでくる人もいたらしく行列は長かった。手荷物の入場チョックもあり混雑はひどかった。結局2時間はかかったと思う。

 大嘗宮は思いがけず質素というか素朴な印象だった。「清明な建物」という印象であった。ここで受けた印象は、非人格的な、自然的な宗教性だった。神道の宗教性とはこういうものなのかもしれない(2)。

 他方、別の印象も持った。大嘗祭は宗教行事で、大嘗宮は祭祀施設、つまり、宗教施設とされていたので、賽銭箱でもあるのかと思ったが、そういうものはなく、われわれはただ通り過ぎるだけだった。警備のための宮内庁のお役人や皇宮警察とおぼしき人が、立ち止まらないで、写真は撮らないで、と叫んでいたが、言うことを聞いている人はいない。皆カメラやスマホで記念写真を撮っていた。手を合わせたり、お賽銭を上げたりする人はいなかった。これは完全に「観光施設」だと思った。天皇家は仏教徒だったというが、ここは神道の祭神がいるところであろう。神仏混淆の印象はなかった。

 神道は「宗教か習俗か」は決着のつかない争点だが(3)、ここが伊勢神宮や出雲大社とならぶ神道の重要施設とは思えなかった。参観する人は神社にお参りするという気分すら持っていなかったのではないか。すぐに解体され、この先数十年は見ることができない貴重な建物だから見ておこう、というのが大方の気分だったのではないか。現代の日本人は「無神論」者ではないにせよ「無宗教」の人が多く(4)、宗教は「消費の対象」になっているからではないかと思った(5)。

 

 

 このあと、上野に「ハプスブルク展」を見に行った。思いがけずここも混雑していた。1月26日までまだ開催期間は続くのに多くの人が来ていた。私は美術についてはまったく音痴なので詳しいことはわからないが、美術愛好家や歴史好きの人には貴重な展覧会なのであろう。そんな私でもA・デューラーやD・ベラスケスの絵はハプスブルク家の美術収集の功績の偉大さが伝わってきた。特にレンブラントの「使徒パウロ」(1636)は素晴らしかった。おそらくマリア・テレジアやマリー・アントワネットの肖像画におとらず、見る人を離さなかった。

 

 

 私はこの展覧会で強い印象を持ったことがある。それは、これらの絵はハプスブルク家を支えた宗教、カトリック、をぬきにして理解できないはずだ。政略結婚と宗教のかかわりだ。それが、どの絵の説明にも、音声ガイドにも、カトリックのカの字も出てこない。神聖ローマ帝国という言葉が数回出てきただけだった。私は主催者(朝日新聞、TBSなど)の一定の意思を感じたが、それは言いすぎで、これが美術展の標準的な説明の仕方なのであろうか(6)。ここでも宗教が美術の名のもとに「消費されている」と思った。なぜもう少しキリスト教とハプスブルク家のコレクションとの関わりを説明しないのであろうか。それともそれは当然の予備知識なのであろうか。

 今日は奇しくも神道とキリスト教の世界を見た。大嘗宮に行ったからどこか神社にお参りに行ってみようと思った人がいたのだろうか。ハプスブルク展をみたからどこかキリスト教の教会にでも行ってみようと思った人がいたのであろうか。恐らくいないであろう。現代日本は宗教が消費される時代なのだと思った。他方、それはそれで、これは豊かで平和な日本社会がたどりついた宗教との関わり方の到達点の姿なのかもしれない。

 思いがけず愚痴を連ねたが、まさに日本晴れの楽しい一日であった。


1  報道によると、大嘗祭は27億1900万円かかり、大嘗宮は19億900万円かかったという
2 どこか深い森を歩いているとき、または山の頂に登ったときに感じるあの静かな感覚だった。自分のなかに残っている日本人としての心性に触れられた気がして、なにかほっとした喜びがあった。
3 教会は現在は神道を宗教と見なしている。カトリック信者が神社で鈴を鳴らしたり、お賽銭をあげたり、お守りを買うことなどは許されない(『信教の自由と政教分離』中央協議会)。だが、例えば、新年に神社を訪れることは日本人の霊性として尊敬し、「共にかかわりを求める」行為だとしている(教皇庁「神道の皆様への新年の挨拶」)。
4 例えば、磯川全次『日本人は本当に無宗教なのか』2019 もまた、日本人の無宗教になった理由を国家神道にもとめる。国家神道がかっては事実上「国教」であったにもかかわらず「非宗教」とされてきたからだ。「無宗教」とは、特定の宗教団体に属していない、家に仏壇も神棚もない、宗教性のない葬式を受け入れている、迷信や占いを信ずるがそれを宗教とは思っていない、ことなどを指しているようだ。
5 消費社会論には色々あるようだが、要は、消費社会とはモノを大量に消費する社会という意味ではなく、消費行動が他者との「違い」を「記号」に求めることを意味するようだ。例えば、大嘗宮を訪れることは、「私はあなたとは違う」ことを確認する行為ということになる。今日の新聞によれば、大嘗宮を訪れた人は50万人弱で、平成の代替わりの時よりもすでに多いという。
6 美術史の叙述の仕方はこれがスタンダードなのかもしれない。とはいえ、別途販売されていた『公式図録』(¥2800)のなかの説明にはそれなりに宗教への言及はあった。『ハプスブルク帝国』(加藤雅彦著、河出書房新社、2018)のように、宗教や政治と関連させて説明している書物もあるようだ。美術史と政治史のちがいなのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする