カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ギリシャ的からラテン的へのパラダイム変換 ー アウグスティヌス ー

2020-02-16 14:27:56 | 神学

 神学講座2020の第4回である。あいにくの雨であった。第3章のタイトルは「アウグスティヌス ー ラテン的・西方的神学の父」となっている。ヒッポのアウグスティヌス(354-430) Augustin である。知らない人はいないラテン教父の代表者だ。キュンクはバランスのとれた評価を心がけているようだ。アウグスティヌスがキリスト教をラテン化し、西欧化させたことを強調している。

 

 

Ⅰ 新しいパラダイムの父

 キュンクによると、アウグスティヌスには二つの大きな特徴があるという。

①西方の神学と信仰に深い刻印を与えた
②東方から最も厳しく拒絶された神学者 

 どういうことか。アウグスティヌスはキリスト教神学の「パラダイムの大変換」をおこなった。つまり、それまでのギリシャ的・ヘレニズム的キリスト教をラテン的・カトリック的(西欧的)キリスト教に転換したからだという。パラダイム変換は「進歩」だけを意味しない。かならず「喪失」を伴う。アウグスティヌスというこの極めて現世的な男、鋭い弁証家、輝かしい文章家、情熱溢れるキリスト者は、何を捨て、何を作り出したのか。

Ⅱ オリゲネスとアウグスティヌスの共通点と分岐点

 前回取り上げたオリゲネスとこのアウグスティヌスの共通点は多い。二人とも、キリスト教信仰と新プラトニズムを和解させ、神学とはキリスト教信仰についての「方法的」反省だと理解し、聖書解釈は逐語的ではなく霊的・比喩的におこなった。

 だが違いも大きい。ギリシャ教父とラテン教父の違いと言っても良いかもしれない。アウグスティヌスの誕生ははオリゲネスの死後100年だ。ミラノ勅令(313)やニケア公会議(325)の後であり、ローマ帝国はキリスト教になっていた。アウグスティヌスは活躍し、やがてローマ帝国の滅亡を目の前にしながらこの世を去って行く(『神の国』は426年)。この100年の違いは大きい。

 オリゲネスはギリシャ哲学は詳しかったが、アウグスティヌスは修辞学の教師で哲学は素人であり、ギリシャ語も出来なかった(嫌った)という。オリゲネスは聖職位階に批判的だったが、アウグスティヌスは最終的には司祭となり、司教となり、活躍していく。つまり、オリゲネスはギリシャ人であり、アウグスティヌスはラテン人だった。
 オリゲネスは異教的・敵対的環境のなかで殉教者のように生きた。アウグスティヌスは、キリスト教的環境の下に育ちながら、いちどキリスト教を拒否し、マニ教の世界で生き、やがて「回心」を経験する。
 キュンクは、だから、アウグスティヌスは「教会教父の黄金時代」を生きたとはいえ、三つの「危機」を克服せざるを得なかったという。

Ⅲ 危機のなかの生涯

 アウグスティヌスはローマ帝国が支配する北アフリカ(現在のチェニジアあたり)で育った。17歳で結婚しており、子どももいた。マニ教(性的欲望は悪だという善悪の二元論)にまつわる出来事はあまりにも有名な話なので触れるまでもあるまい。やがてかれは30歳でローマへ旅立ち、ミラノで司教アンブロシウスと出会い、司教への途を駆け上っていく。他方、この北アフリカの地ではやがてキリスト教は衰退し、7世紀にはイスラムによって廃墟とされ、歴史の藻屑と消えていった。

Ⅳ キリスト教への転換

 司教アンブロシウスの新プラトン主義との出会いにより、アウグスティヌスは「決定的な回心」を経験する。庭園で聞こえた子どもの言葉「取りて読め」で回心したかれは(『告白録』)、世俗的生活と快楽主義的習慣を捨て、徹底した禁欲的生活に入った。親からの財産をすべて売り払い、私的所有を完全に断念したという。35年もの長い司教生活のなかでかれは厳しい戒律を守った。まわりのかれ以外の司教は大部分が妻帯していたにもかかわらずである。かれのこの姿勢が、後の西方のラテン教会の神学を形作り、修道会の模範になっていった。

Ⅴ ドナティスト派の危機 ー 真の教会をめぐる争い

 アウグスティヌスは司教としても神学者としても精力的だった。『告白録』『神の国』では聖書からの引用は4万を超えるという。
 かれの神学には二つの巨大な「危機」の刻印が押されているという。一つは「ドナティスト派の危機」であり、第二は「ペラギウス派の危機」である。この危機の乗り越え方が、かれの神学を、つまり後のカトリック教会の神学を、①職階主義的にし(聖霊主義教会論を離れ)、②恩寵論的にした(自由意志論を弱めた)という。

 ドナティスト派(1)との闘いに、最後はアウグスティヌスはカトリック教会の代表として勝利する。とはいえ、かれの教会観はこの闘いのなかで「制度主義的」なものに変質していった。ドナテゥス派の成立の背景として、この時代のキリスト教がすでに「大衆化」していたことを忘れてはならない。世俗化した教会は堕落し始めていた。例えば、堕落した、罪を犯した司祭の洗礼は有効なのか、という問いがある。今風にいえばサクラメントの「事効」説と「人効」説の対立だ。闘いは激しく、長く続いた。カトリック教会は今や「迫害される教会」から「迫害する教会」へと変わっていた。アウグスティヌスは「教会の統一」に熱心に取り組んだが、つまり、ニケア派(カトリック派)とドナティスト派の和解を試みたが、司教や皇帝の介入に苦しんだ。結局かれは、例えば典礼に関していえば、有効性の問題と合法性の問題を区別しなければならないと述べた。つまり、不品行な司祭が何をするかではなく、神がキリストにおいて何をするかが重要だと主張した。要は、ダメな司祭による典礼も教会の意向のなかで秩序正しくおこなわれれば有効だ、という考えだ。これは後の神学では「働きそのものによって エクス・オペレ・オペラート ex opere operato 」とよばれ、典礼は単純にそれが遂行されさえすれば有効だということになった。これは現在でも有効な教義である。

Ⅵ 宗教の事柄における暴力の正当化

 このドナテゥス論争で、アウグスティヌスは「見える教会」と「見えざる教会」の区別をおこない、教会論と典礼論を細部にわたって明確化した。411年のカルタゴでの両派の論争でアウグスティヌスは勝利を収める。だがそれは暴力と流血をともなう勝利であった。
 この勝利は、アウグスティヌスがそれを望んだか否かは別として、異端者や教会分裂(Schisma)を起こす者たちに対する暴力の行使を神学的に正当化していった。こうしてドナテゥス派は壊滅した。大多数は国家の暴力に屈した。だがこの勝利は高くついた。ドナティストの没落と共に誇り高いアフリカの教会は消えていく。そこにイスラムが入ってくるのは時間の問題だった。

 アウグスティヌスはこうして、逸脱者に対する強制改宗・異端審問・聖戦の神学的正当化の共犯者となる。これは他のギリシャ教父たちは決して足を踏み入れなかった領域だという。

 といっても、アウグスティヌス個人はヒッポに住む非キリスト者たちを根絶しようとはしなかったという。救いといえば救いだろう。キュンクはアウグスティヌスを一方的に批判しているわけではない。

Ⅶ ペラギウス派の危機 ー 恩寵をめぐる論争

 アウグスティヌスは神学者から司教になる過程で制度的な思考に傾き、厳格になり、非寛容になっていった。ペラギウス派の挑戦を受けて立ったのである(2)。これは結局は「恩寵か自由意志か」にかかわる神学論争である。そしてあまりにも大きな(悪)影響を後世に残した「原罪論」を作り出した。キュンクは、この危機は「アウグスティヌスの神学を先鋭化し狭隘化した」(123頁)とまでのべている。
 ペラギウスも恩寵の重要性を認めていた。だが、ひとたびキリスト者になれば自らの「自由意志」に基づいて、自分の行為によって救いへの途を切り開かなければならないと主張した。だから「原罪」という表象を拒絶した。
 譬えはよくないが具体的に考えてみよう。たとえば、生まれたばかりの赤ん坊は「原罪」を持っているのか。ペラギウスは、人間は罪無くして生まれてくる。人間は自分の責任で堕落する。だが自分の自由意志で回心することもできるとした。これはまるで昔の古典的なストア派の倫理観である。
 アウグスティヌスは違うという。「新生児の無罪性」の主張は、神と人間の関係の歪曲であり、救済の必要性を無視する議論だと考えた。恩寵による救済を重視した。
 やがて公会議の開催、破門、と激しい政治闘争と神学論争が続く。アウグスティヌスはマニ教のかどで告発される。ペラギウス派のユアヌスは性的な事柄になんら道徳的問題はないと主張した。婚姻関係にある男女の性行為は問題ないと主張した。アウグスティヌスは反論する。性行為には悪魔の烙印が押されており、肉の悦びからの節制によってしか人間は救われないとした。若き日の自堕落な生活を思い起こしていたのだろうか。

 性行為を罪悪視するこういう原罪観は本当にカトリックの見解なのだろうか。アウグスティヌスが『告白録』で描いた人間の意志の弱さ。肉の衝動が神の意志を遂行することをいかに妨げるか、それゆえ絶え間なく神の恩寵を必要としていると述べたのはアウグスティヌスだ。意志の支えのために恩寵を必要としているという。

 だが、最後の疑問が残る。この「意志」そのものが、意志すること自体が、「悪」なのではないか。アウグスティヌスの問いは続く。

Ⅷ 原罪と予定説

 世界のすべての「悲惨な出来事」の背後には一つの巨大な罪が隠れている。「原罪」だ。この罪がすべての人間の上に作用を及ぼしている。こういう思想は古くから、どこにでもあった。
 キュンクによると、アウグスティヌスはこの原罪観を、①堕罪の歴史化 ②堕罪の心理学化 の2点から説明したという。

 堕罪の歴史化とはなにか。アウグスティヌスによれば、人間はアダムの堕罪によって最初から深く腐敗させられている。ローマ書5:12 「彼においてすべての人が罪を犯した」。アウグスティヌスはこの「彼」をアダムと読んだ。ギリシャ語の原テキストとラテン語の翻訳の問題もあり、聖書学者の間でも議論がある問題らしいが、アウグスティヌスはここに、アダムの「原ー罪 Ur-Suende」のみならず、「原罪 継承ー罪 Erb-Suende 」を読み取ったという。これが人間が生まれながらにして身体と心を毒され、死の虜になっている理由なのだという。

 もっと大きなアウグスティヌスの原罪観の問題は、かれが「原罪の継承を性行為と結びつけ」(129頁)たことだという。かれは人間の本性の中心を性的なものに置く。特に性欲は人間本性の腐敗の源だという。性欲は行為の最初と絶頂において、また睡眠中に、意志のコントロールから引き離される。性的な事柄そのものが悪なのではない(それではマニ教になってしまう)。コントロールできないことが悪なのだという。だから、洗礼という救済のわざが必要だという。特に幼児洗礼が必要だという(3)。

 だが、これらすべてが神の恩寵によって起きているのなら、どこに人間の自由の余地があるのだろうか。恩寵と自由の問題である(4)。
 アウグスティヌスによれば、人間の自由が神の恩寵に動機を与えることはない。逆である。人間は恩寵によって自由へと突き動かされる。恩寵は獲得するものではない。贈り与えられるものだ。神の贈与のみが人間においてすべてを生じさせるのであり、人間の救済の根拠である。

 ここで素朴な疑問が湧いてくる。では、なぜこの世には救われない人間がこれほど多くいるのか。悪をなす人間が多くいるのか。アウグスティヌスの答えは「二重予定説」だ。すなわち、神は、天使の堕罪によって生じた欠員を他の理性的存在によって補充するためにごく少数の人間だけを祝福へと予定している、と考えた。他の「断罪にあう大多数」とはちがうごく少数の人間だけが救われるというのだ。

①人間の「救済」は神の「憐れみ」だ
②人間の大多数の「棄却」は神の「義」だ 自由意志で悪を選択した人間は断罪への道を歩むが神はそれを放置している

 オリゲネスなら、ギリシャ教父なら、こんなことは決して言わない。やがてカルヴィンはこの予定説をさらに徹底化していくが、キュンクによれば、これは「恐るべき教え」である。アウグスティヌスは一体全体何を考えていたのか。

Ⅸ アウグスティヌスに対する批判的反問

 アウグスティヌスの功績は疑問の余地はない。わざの重視に傾きがちな西欧の神学を、パウロの義認の神学へと方向付けた。そして「恩寵」の意味を明らかにした。恩寵論が西方教会の神学の中心になってくる。
 他方、東方教会は、ヨハネの神学そのままに「人間の神化」に関心を集中し、パウロの義認論を無視した。やがて西方のキリスト教は、わざの宗教や律法の宗教から、恩寵の宗教へと脱皮していく。だが、このアウグスティヌスにして、後のラテン教会の発展に関して責任のある問題を残してしまった。キュンクは3点指摘している。

①性的な事柄の抑圧

 性と罪に関するアウグスティヌスの教説である。性行為は子どもを産むためにのみおこなわれるべきであると主張した。性的悦びが夫婦の関係を豊かにするなどかれには考えられなかった。性的リビドーは異端の烙印が押されてしまったのだ。キュンクは、ベネディクト16世を皮肉って言う。いまだに教皇が大真面目に次のような見解を表明している。「男が自分の妻を見るという行為がまさに純粋に快楽のために起こるなら、それは淫らに見ることになる」。こういうことを言うようでは、キュンクがヴァチカンに受けがよくないのはよくわかる(5)。

②恩寵の物象化

 東方教会では、人間の「神化」、「不死性」、「永遠性」に関心が集中し、「恩寵」論は全く発展しなかった。西方教会では、恩寵はすでに単に聖書的にではなく、神の御心として、罪の免除として、理解されてきていた。アウグスティヌスはさらに恩寵を人間のなかの「力」として理解する。それは「注入された恩寵」とされた。これは、神ご自身というよりは、「被造的恩寵 gratia creata 」と呼ばれ、ラテン的な神学と中世の教会が合体していく基礎となったという。

③予定説

 予定説は人を不安に陥れる。他のギリシャ教父たちは、堕罪の後でも人間には決定能力があるという教理を保持し続けた。かれらは、救われるか救われないかについて神が前もって無条件に予定のようなものを持っているとは考えもしなかった。だがアウグスティヌスは、ペラギウス派への過剰な恐怖心と防衛心から、マニ教的な予定説を引き継いでしまった。未受洗の赤ん坊さえ神は義のために最初から永遠の断罪に定めているという。キュンクは何と恐ろしい教説だろうと詳しく批判していく。イエスの使信にこんなことは書かれていない。アウグスティヌスの責任は大きい。

④新しい三位一体論

 ギリシャ人にとり、すべては唯一の父なる神から始まる。父こそ神である。子の神性、聖霊の神性は父から与えられる。一つの星が他の二つの星に光を与えているともいえようか。
 だがアウグスティヌスは違う。三つのペルソナのすべてに共通な、神的本質・栄光・尊厳から出発する。父は御子において自身を認識し、御子は父において自身を認識する。ここから人格化された愛として聖霊が出てくる。聖霊の根源は父と子の両方だ。ニケア・コンスタンチノープル信条にあるように、「聖霊は父から、そして御子からも発出した」(『カトリック教会のカテキズム』では「聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され」)となる。東方教会では聖霊は父からのみ発出していると考え、現在でも聖霊の二重の根源説は否定されているようだ。
 アウグスティヌスのこの新しい三位一体論は完成されたものではない。キュンクは「構想」と呼んでいる。だが大きな貢献であることは間違いない。だがアウグスティヌスにはこの構想を完成させる時間は残されていなかった。

Ⅹ ローマ帝国の重大な危機

 410年8月に、フン族に圧迫されたゲルマン系の西ゴート族がローマを攻略し、数日にわたって略奪した。北アフリカにとり対岸の火事では済まない。この古代世界の首都が滅亡するなどありうるのか。なぜこんなことになったのか。

①異教的な古ローマの答え:ローマの神々の復讐であり、キリスト教徒こそ責任がある
②キリスト教的な新ローマの答え:これは神の罰だ。キリスト教的なビザンチンが古いローマに取って代わるのだ
③アウグスティヌスの答え:『神の国』を執筆した(6)。

 22巻のうち最初の10巻は「弁明と論争」だという。そこではローマ史の「非神話化」がなされる。ローマには国家の正義が欠けていた。国家の目的は正義を基礎に置いた秩序のなかで平和を維持することである。
 ローマの古い神々も非神話化される。ローマの没落には、キリスト教徒に責任がないだけではなく、ローマの神々が無力だったからだ。そもそも神々など存在しないとした。アウグスティヌスはギリシャ・ローマの神々への信仰を徹底的に批判し、破壊した。
 アウグスティヌスはキリスト教徒にも語りかける。キリストという神による保護を異教徒に持ち出すことを批判した。キリスト教徒の神は、人間を不幸から守るために地上で富や幸運を確保してやるなどとは約束していない。そんなことを信じているのは神を信じていないからだ。「神を信じる者は、ただ神の前で心の貧しい(謙虚な)者だけである」(143頁)。人間は人生の遍歴において苦悩を避けることは出来ないが、それに耐えることは出来る。そして終末がすべての苦悩からの解放と永遠の平安をもたらしてくれる。これはアウグスティヌスの「神義論」である。

ⅩⅠ 歴史の意味とは何か

 『神の国』の後半12巻は、歴史の根拠と意味の考察に向けられているという。歴史とは現世の国(地上の国)と神の国との対決である。それは救いの歴史であり、災いの歴史である。アウグスティヌスは歴史を「七つの時代」にわけて歴史の「目的」を描いている。
 私にはこの描写を要約する力は無い(7)。キュンクによれば、アウグスティヌスはキリスト教帝国には不信感を抱いている。だが、神の国はこの地上の時間のなかでは「カトリック教会」として姿を現している。神の国の地上における具体化であり、可視化である。だがそれは神の国と同一ではない。現世の国家が作用を及ぼしているからだという。

 アウグスティヌスは現代的意味での歴史家ではない。歴史の意味の見取り図を描いているだけである。だが、かれは「歴史神学」の創始者と呼べるという。歴史をなにか目的を目指して進む一本道の直線的動きとして捉える史観だ。到達すべき目的は永遠の神の都、平和の国、神の国である。こういうキリスト教的史観は、「循環的な、ヘレニズム的な、インド的な理解とは全く異なり」(146頁)、一つの神によって導かれる、方向付けられた運動である(8)。

 ヴァンダル族はアリュース派だった(9)。ヒッポもかれらによって包囲された。430年8月、かれらが防衛戦を突破する前に、アウグスティヌスは息を引き取った。西ゴート族がローマを略奪してからちょうど20年目である。ローマの世界支配はここでも終焉を迎えた。だがアウグスティヌスの神学はヨーロッパ大陸にわたり、世界史を形作っていく。
 
 キュンクはつぎのようなアウグスティヌスの言葉で本章を結んでいる。『神の国』の最後の文章だという。

「第七の現世の時代は、われわれの安息日であるだろう。その日の終わりには夕暮れは来ないで、永遠の第八の日が、主の日が来るだろう・・・その時わたしたちは自由になり、見るだろう。愛して、讃えるだろう。見よ、終わりなき終わりにはそのようになる。なぜなら、終わりなきこの国に至るという以外に、どこに私たちの終わり(目的)があるというのだろうか。」(148頁)



1 ドナトゥス派は、ローマ帝国で既に多数派となっていたキリスト教が堕落したことに反発し、教会の純粋性を強調した。昔の殉教時代、教会迫害時代を覚えていた人々は、「聖霊主義的な」教会理解とサクラメント理解をまだ保持していた。当然、教会と典礼の「客観的聖性」を主張するカトリック派と対立する。長い闘いの後、カトリック教会はアウグスティヌスの指導の下に412年にかれらを強制的に自分たちの教会へ併合する。
2 ペラギウス(生没年不詳)とは、英国出身だがローマで活躍した禁欲的修道者だという。カルタゴには410年に来ている。堕落したキリスト教徒に厳格な道徳的規律を求めたという。
3 成人洗礼ばかりであった初期キリスト教の時代とは異なり、幼児洗礼が主流になるほどキリスト教徒が増えていたとも解釈できよう。
4 恩寵とは、grace(英)、gratia(ラテン)、charis(ギリシャ)のこと。「恩恵」とも訳される。人間の側の条件なしに神から授けられる無償の賜物のこと。旧約では「選び」、新約では「義認」と呼ばれることもあるようだ。自由意志さえ恩寵を前提とすると考える。自由意志論争(恩寵論争)は、普通、宗教改革期の論争とされるが、実際には昔からあるもので、キリスト教神学を貫いている論争のようだ。キュンクのこういう言い方は後世のイエズス会とヤンセニズムの論争を想起させる。
5 たまたま、今日年間第6主日の福音書朗読はマタイ5:17-37だった。「山上の説教」のところだ。殺すな、腹を立てるな、姦淫するな、離縁するな、誓うな、復讐するな、敵を愛せ、などなどと続くところだ。神父様はお説教で主に「義」という文脈で説明しておられた。
6 『告白録』は良く読まれるが、『神の国』の通読は難しいらしい。
山田晶 『アウグスティヌス講話』新地書房 1986
加藤信朗 『アウグスティヌス 告白録 講義』知泉書館 2006
金子晴勇『アウグスティヌス『神の国』を読む -その構想と神学-』 教文館 2019
 ちなみに、私の洗礼名はアウグスティヌスだ。男子では結構ポピュラーな洗礼名らしい。現在はやりはやはり、アシジのフランシスコか。日本では、ヨゼフ、フランシスコ・ザビエル、マルコ、洗者ヨハネ、トマス・アクィナス、などが多いという。
7 キュンクも、上掲の金子氏も説明してくれているが、わたしにはあまり良くはわからない。
8 こういう直線的な発達史観そのものの評価についてはキュンクは何も語らない。こういう直線的・終末論的時間の観念と、輪廻的・円環的時間の観念との比較が欲しいところである。
9 アリュース派はキリストの神性を父なる神の下に置く。キリスト従属説とも呼ばれるらしい。カトリック(ニカイア派、アタナシオス派)とは異なり三位一体論を否定する。かれらは短期間にハンガリーからヨーロッパ全土を通過し、スペインに至り、北アフリカにまで進んだという。

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