カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

イエスは誰に話しかけていたのかーエッセンス(3)

2020-06-04 10:57:23 | 教会

 第2章は「イエスをめぐ歴史的な背景」と題されている。ここでは、イスラエル民族についての簡単な説明と、イエスが誕生した頃の
イスラエル社会の特徴が素描される。イエスがどういう世界に生まれ、誰に向かって話しかけていたのか、を説明している。よく知られた
話ではあるが、小笠原師の整理の仕方が興味深い。

1 イエスに至るまでの長い道のり

 イエスを理解するためには、ユダヤ教についての知識が必要であるとして、師はユダヤ教の説明から入る。
まず、イエスラエルは民族名、ユダヤは宗教名、パレスチナは地域名 としておこう。イスラエル民族のルーツはアブラハムで、神は
「ヤーヴェ」と呼んでいた。イスラエル民族はBC1250年頃の「エジプトからの解放」という出来事を通して深い神体験を持つ。
ヤーヴェはモーゼを通してイスラエルの民とシナイ山で「契約」(1)を結ぶ。神は、自分がイスラエルの神となることの見返りに
イスラエル人が「神の民」になるよう命じる。強烈な選民意識の誕生である。


(嘆きの壁)

 

 第二イザヤ(2)によると、BC6世紀頃、メシア(救世主)到来の期待が高まる。やがて、民族解放のメシアではなく、人々の罪を負う
「苦しむメシア」像が生まれる。そしてこれはやがてBC2世紀頃には死を乗り越える「祝福のメシア」像に変化していく。
イエスはこういう歴史的背景の中で生まれる。

2 イエスの時代

 イエスが生きた時代のイスラエルの社会の様子が素描される。当時の地中海世界とヨーロッパ大陸はローマ帝国の支配下にあった。
ローマ帝国(3)は共和制の時代から帝政の時代に入っていた。イエスの時代、パレスチナは中・南部はローマ総督ピラトが統治し、
北部のガリラヤ地方はユダヤ人のヘロデ・アンティパスが領主として統治していた。イエスは南部のベツレヘムで生まれとされるが、
これはおそらく後世の伝説らしい(4)。育つのは北部のナザレという寒村である。両親はヨゼフとマリア、大工または石工として
育ったらしい。ガリラヤ出身と言うだけで危険視されていたようだ。

 当時のイスラエル社会は政教一致で、議長の大祭司の下の70名の議員からなる最高法院(サンヘドリン)が支配していた。主に、
祭司貴族はサドカイ派、指導者はファリサイ派で占められていた。そこでは「神殿」と「律法」が二本の柱で、神殿はサドカイ派、
律法はファリサイ派が支配していた。政治的解放を目ざす「急進派」(5)と、砂漠に退き、ひたすら信仰に生きようとした
「エッセネ派」(6)の人々がいた。洗礼者ヨハネやイエスはエッセネ派だったという説が強いらしい。

 

(IHS イエスはギリシャ語でイエスースと発音され、この語の最初の3文字をローマ字表記にしたもの イエスのイニシャル)

 不思議なことに、イエス誕生の話はルカ福音書2:1-14に書かれているだけである。ルカは「イエスの誕生物語」を詳しく語る。
この文章では、ルカの喜びようがそのまま伝わってくるようである。

 イエスが話しかけたのは圧政に苦しむこういうイエスラエルの虐げられた人びとであった。イエスの教えは単なる観念論、道徳論ではなく、
こういう「地の塵の民」(アム・ハアーレツ)と呼ばれた貧困層ー寡婦・孤児・娼婦・盲人・身体障害者・皮膚病患者などーであった。
かれらはその不幸のゆえに、神に呪われた者、汚れた罪人として厳しい差別を受けていた。イエスが語りかけたのは貧困者層であった。

 


1 聖書の世界では、契約とは、対等に責任を負い合うという現代的意味ではなく、神の一方的働きかけに人間が応えるという恵みの関係の
ことを意味する。契約概念の特殊性、聖書的意味を、理解しておきたい。
2 普通、第1イザヤ書は1-39章、第2は40-55章、第3は56-66章と言われる。第1イザヤは前539年のバビロン捕囚の
終焉前後、第2イザヤはバビロン捕囚解放後、第3イザヤは前6世紀頃のエルサレムの神殿再建が背景のようだ。特に第2イザヤでは
4つの「主の僕の歌」が歌われる。メシア自身が人々の罪を背負って苦しむ僕(しもべ)として描かれる。
3 ローマ帝国は、世界史上、最も長く続いた帝国である。共和制時代は前6世紀末から前27年まで。100年に及ぶ内乱のあと
前27年頃帝政に移行する。2世紀初めが全盛期で、最大版図を達成する。4世紀末に東西に分裂する。西ローマ帝国は5世紀末に
滅亡するが、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は15世紀まで存続する。800年のフランク王カール大帝の戴冠を西ローマ帝国の復興と
みなすなら、神聖ローマ帝国(962-1806)は19世紀まで続いた。
4 小笠原師は、「クリスマス」についての詳しい説明の中で、どこで生まれたかという話より、「低くされている人々の中で生まれた」
点を強調している。
5 急進派は「熱心党(ゼロータイ)」と呼ばれた。イエスの弟子のシモンは熱心党だったようだ(ルカ6:15)。
6 エッセネ派はファリサイ派の一派だったらしく、独身主義・平和主義を貫いた。後のキリスト教の修道生活のルーツとなったという。

 

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