カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

天国も三密ーエッセンス(6)

2020-06-10 09:18:09 | 教会

第4章は「イエスの死と復活」と題されている。
いよいよ復活論である。復活論には二つある。イエスの復活の話と、われわれの復活の話だ。これは区別しておかないと、話が混乱する。
イエスの復活はキリスト教信仰の原点だ。この出来事がなければキリスト教は生まれなかった。
本章は4節からなり、50頁余におよぶ。要約は無理なので、ポイントだけをふれる。神学の話も入るので、小笠原師の神学院での講義を
彷彿とさせる。人間の復活の話は第6章でとりあげられる。

1 イエスの宣教活動の終わり

 イエスは過ぎ越し祭(1)に合わせて日曜日に都エルサレムに入り、月曜日から水曜日まで神殿内でサンヘドリン(最高法院)と
論争する(2)。大雑把に言えば、木曜日(過越祭)の夕方に最後の晩餐をし(3)、捕まる。金曜日に処刑され、夕方に葬られる。
土曜日は安息日で、日曜日に復活する(一日は夕方日没から始まるので時間は目安)。

 師はここで、過ぎ越し祭の意味と、最後の晩餐でイエスが言い残したことを詳しく説明する。最後の晩餐でのイエスの言葉は、
各共観福音書ごとに細かい言葉遣いは少しずつ違っているという。パウロもコリント前書で記述しているが、こちらのほうがより
整備された表現になっていると言う。ポイントは、キリストの血によってなされた神との契約を「新約(新しい契約)」と呼び、
この「新約信仰」が「旧い契約(旧約)」を完成させたという点のようだ。
 我々が普段与るミサはこの最後の晩餐の再現であることを思い起こしたい。最後の晩餐に今でも日曜日ごとに与っているわけだ。

2 イエスの受難と十字架の死

 聖書はなぜこのような拷問だの十字架刑だのという身の毛もよだつ話を事細かに記しているのか。イエスは立派な人だったという
綺麗事を書き連ねないのか(4)。むしろ各福音書は「受難物語」にかなりの頁を割いて、事細かに述べている。なぜなのか。

 師はこの問いに直接は答えない。イエスは死刑の判決を受け、無残にもそのまま殺される。神は救けてはくれなかった。
イエスの最後の言葉。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」(マルコ15:34)。

 十字架上で死去したイエスは近くの墓に「仮埋葬」される。安息日(土曜日)が迫る金曜日の午後は時間が限られている。正式な
埋葬は一日休んで安息日明けの日曜日の明け方まで待たねばならない。弟子たちはみな散りじりに逃げ去ってしまっている。
イエスの宣教はすべて虚しく終わってしまったかに見える。

3 イエスは復活された

 入門講座では最大の難問の復活論である。日本語の復活はどうしても「蘇生」を連想させるので、復活と蘇生は別のことだと説明する
ことが最初の課題となる。ましてや「からだの復活」と言われると、どうしても蘇生を、黄泉の国からこの世に戻ってくることを、
連想してしまう。だがそれは間違った解釈だ。

 細かいことは聖書学者に任せるとして、復活とは、原文では、「起き上がらされて」と「受動態」で表現されているようだ。イエスは
自分で立ち上がると言うよりは、誰かによって死から立ち上がらされた、と受け身形で表現されると言う。

 イエスの復活物語は2つの部分からなる。一つは「空の墓の物語」、もうひとつは「復活したイエスとの出会い物語」だ。イエスの
復活物語は、共観福音書では「宣教」が中心なので、信者相手の信仰の書であるヨハネ福音書とは描き方の強調点が異なるようだ。
ヨハネはイエスが「神の子キリスト」であることを強調する。ここでは、復活が受動態として、受け身の出来事として、表現されている点が
興味深い。

(復活のイエス・天国も三密か)


4 イエスの復活が意味すること

 イエスが受難と十字架刑にあうと、弟子たちは恐ろしくて逃げ去り、師を裏切る。だがかれらはイエスに再び出会い、赦され、大きく
変えられていく。ヨハネ福音書第21章は弟子たちの赦しを描く。その描写は感動的だ。小笠原師はこのイエスの復活の啓示を以下の6点に
整理している。

①イエスの復活は、救いの本当のあり方を告げる福音の目標だった
②イエスの復活は、イエスが救い主キリストであることを証ししている
③イエスの復活を体験した弟子たちは、最後の晩餐でイエスが言い残していったことの真意を理解した
④イエスの死と復活は、神の介入によってなされた救いをもたらす過ぎ越しの出来事であった
⑤イエスは過ぎ越しの出来事に自分自身をすべて差し出し、「新しい契約」を成し遂げた
⑥イエスにおいて示された「贖いの出来事」は、イエスが「父」と呼んだ神のの望みであった

 つまり、弟子たちはイエスの復活を体験することによって、イエスが私達の間に遣わされた「神の子」であることを悟った(5)。
復活論は説明も理解も難しい。復活はヨハネ福音書では「永遠のいのち」と呼ばれている。復活を直接論じるよりは、永遠のいのちのほうが
論じやすいのかもしれない(6)。



1 イスラエル民族の最大の祭りは過ぎ越し祭と呼ばれ、ユダヤ教の正月(ニサンの月)の15日から7日間(1週間となる)
おこなわれる。これは祖先たちのエジプトからの脱出(解放)を記念するお祝いだ。
2 神殿内で暴れまわるイエスの行動は驚きだ。おそらく聖書の中で暴力を振るうイエスの場面はここだけではないか。最高法院は
イエス殺害の決意を固める。
3 ヨハネ福音書は、最後の晩餐を「過ぎ越しの祭りの前」(13:1)としている。一日早めている。これだと水曜日になる。
聖書学者のあいだでは議論があるようだ。ヨハネ福音書は「洗足」を詳しく描くとか、ゲッセマネの祈りに触れないとか、
共観福音書とは異なるところがあるらしい。
4 イエスは自分では手紙など書き物を残していない。書いたかもしれないが見つかっていない。
5 小笠原師はさらに、この章の「理解を深めるために」欄で、多くの神学的概念の説明を重ね、自説を展開しておられる。「からだとは」、
「契約とは」、「聖書における神理解」、「死に打ち勝つとは」、「永遠のいのちとは」と題されている。難しい神学用語を、日本文化の脈絡の
なかにおいて説明しようとしている。例えば、「神理解」の説明の中で西行の和歌を引用して、「神体験/超越体験」の根本はこのような
ことだろうという。「なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」。日本文化の中で聖書的概念を説明しようとする
師の面目躍如である。
6 師は「永遠のいのち」の説明の中で、永遠とは「時間を超えた状態/超時間」と呼んでいる。「初めも終わりもない状態」とも言っている。
これはもう存在するのはみ言葉のみ(物質のみ)で、時間なるものは存在しないと言っているように聞こえる。だから、「いのち」も
「霊」「息吹き」であって、天国や極楽浄土のようななにか「場所」(空間)ではなく、「今、ここで生きている自分にかかわる
ダイナミックななにか」と述べている(159頁)。師の神学を支える哲学的基盤が浮かんでくる。

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