カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

霊的聖体拝領の潜在的機能(1)

2020-07-08 21:45:51 | 教会


 潜在的機能というとなにか大げさだが、要は、このコロナ禍のなかで霊的聖体拝領が一般化することが、教会に対してどのような意図せざるまたは期待せざる効果をもたらすかを考えてみたいということだ。ほかにうまい表現が思い浮かばないのでこの用語を使うが、カト研の皆様にはおわかりいただけると思う。

 菊池大司教はご自身のブログ「司教の日記」の中で、2月27日に「ミサに関する文書への補足」という文書を載せられた。この文書の中で、「公開ミサ」という表現がもともとあったわけではなく、香港教区で使われている Public Mass ということばを翻訳したものであること、ミサは「中止」されておらず、中止されたのは公開ミサだけであって、「公開されていない」ミサは通常通り挙げられていることが指摘されている。そのうえで、霊的聖体拝領についての『教会憲章』やヨハネ・パウロ二世の回勅などを引用しながら、霊的聖体拝領の司牧的正当性を縷縷説明しておられる。

(ご聖体)

 

 この5ヶ月あまり、非公開ミサや限定公開ミサのネットによる配信(配信ミサ)に与ることが私どもには日常生活の一部になってきている。わたしに限っていえば、「聖書と典礼」をもらいがてら教会にご聖体訪問するとはいえ、ご聖体を直接頂いたのはただの一回きりである。そういうものだと言われればそれまでだが、このところその意味をずっと考えている。ネットで見聞きした範囲では、様々な意見があるとはいえ、霊的聖体拝領はやはりおかしいという否定的意見はあまりみかけない。とはいえ、わたしには、その妥当性を神学的・教会論的にいくら説明されてもしっくりとこないところがある。どうしてミサをあげる司祭(や侍者)だけはご聖体をいただけるのか、神父様の祝福は本当にネット越しに与えられているのか、献金もできないのに月定献金だけで教会はもつのか、洗礼や堅信や叙階などの秘跡はどうなっているのか、などなど子どみじみた疑問がつぎつぎと湧いてくる。教会の神父様や先輩方から教えを得たいと思っても会うことすらままならない。

 SNSでの意見やコメントを読んでいると、霊的聖体拝領に関して大きくみて二つの視点の違いがあることがわかってきた。対立と言うよりは強調点の違いといってもよいかもしれない。
 一つは、ミサは集い(集まり、集会)が中心なのであって、ご聖体とはいえパンをいただくことのみを望むのはおかしいという議論だ。これは、教会の本質は「共同体」であることにあるという視点だ。いくら聖変化(実体変化)すると信じているとはいえパンはパンだ。ミサをパンと同一視するのはおかしいという議論だ。

 第二の視点は言う。そうは言っても、イエスは「これをわたしの記念として行いなさい」と命じられたではないか。「からだ」と「血」が伴わないミサなんてありうるのか(1)。両形態の聖体拝領はかなわないとしてもせめてパンだけはいただきたい、という視点だ。秘跡論に立った視点とでも呼べようか。

 この二つの視点を「共同体論」と「秘跡論」と呼べるのなら、現在は共同体論の視点が強い印象がある。しかも位階制をもつ共同体論だ。「ミサに出ることを免除する」と言われると、なるほどミサに出ることは信徒の務め(義務)だからそうなるのかと思う。共同体論の視点からの霊的聖体拝領の正当化の説明はそのとおりだと思う。だが、集会祭儀すらない現状で、ミサに出ることを免除すると言われてもなにか腑に落ちない。ましてや、高齢者は分散ミサでも出ないほうが良いと言われると単純に「なんで?」と思わざるを得ない。説明の理屈はわかる。だが自分の信仰に訴えてこない。心に響かない。

 この二つの視点の違いは教会をどこに連れて行くのだろうか。教会が、ミサが、元に戻ることなないと言われる。つい半年前まで当たり前だったことがあたりまえでなくなるというわけだ。では、どこが、なにが、どう変わるのか。今は推測することすら難しい。

 だが、もし公開ミサが普通に以前と同じように行われる日が来た時、もともとミサに出ていた信徒がみな戻ってくるのだろうか。秘跡論の視点から見れば、ますます熱心にミサに出る人が増える気がする。パンだけであれ、ご聖体をいただけることが嬉しいのだ。
 他方、共同体論の視点にに立てば、ミサには行かなくたってお祈りはできるし、聖体拝領もできるという考え方が強まり、結局ミサに出る人が減少していくのではないか(2)。若年層にそういう傾向が強まる気がする。教会が老人クラブのような性格を変えないとこの傾向を止められないような気がする。
 ネットによる配信ミサの定着がどちらの傾向を強めるのか注目していきたい。

 もう一点、この二つの視点の違いは、カトリックの信仰をプロテスタントの信仰に近づけていくのではないかと思わなくもない。ミサは、聖餐は、パンではなく、み言葉が中心だという考え方が強まるということだ。エキュメニズム(教会一致)の動きが強まるかもしれない(3)。コロナ禍がこの傾向を強めるとすれば歴史の皮肉としか言いようがない。これは神学的に長い論争の歴史をもつ問題なので軽々には言えないが、霊的聖体拝領の日常化はこういう神学的問いを改めて突きつけているような気がする。今回の霊的聖体拝領の問題は、長い時間的スパンのなかに位置づけてみると、社会的出来事であるだけではなく、霊的・神学的出来事であるように思えてくる。

 私は単純に今まで通りミサに出てご聖体をいただきたいと思っている。だが、なかなかそうはいかない、生きづらい世の中になってきているようだ。

1 日本のプロテスタント教会がコロナ禍にどのように対応し、聖餐式をどのように変えてきているかも注目していきたい。プロテスタント教会といっても、聖餐式を毎週挙げていたところや、月一回のところもあっただろう。礼拝が大事だから、つまり「み言葉」が大事だから、パンやぶどう酒は時々で構わない、という考え方もあるとも聞く。コロナへの対応にカトリックとは違いがあるのかもしれない。
2 今回のコロナ禍以前から、テレビやネットを使った配信ミサが行われている外国ではこういうICT(情報通信技術)の利用はミサの出席率に大きな影響をあたえないという議論もあるようだ。一方的な議論は慎まねばならないようだ。
3 神学的には、カトリックと、聖公会やルター派との距離が近づきつつあるあるという話も聞く。とはいえ、エキュメニズムということばが現在の日本ではあまり聞かれなくなったのはなぜなのだろう。教会が、女性の叙階、司祭の独身制、性的児童虐待などもっと大きな、自分自身の問題に直面していることに気づいたからだろうか。

 

 

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コメント (3)
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