カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

現代神学はポストモダンを乗り越えたか ー 『今日のカトリック神学』の要約(6)

2021-09-25 17:03:37 | 神学

 第3章は「神の真理を説明すること」と題されている。大仰なタイトルだが、文章は謙虚に書かれている。
 この章は3節からなっている。本章は、神学は神の真理を説明できると言っているわけではない。神学が神の「真理」を説明するとは、神学が神の「啓示」を、「理性」を用いて、「合理的方法」を使って、「霊的体験」と結びつけて、真の「知恵」(英知とでも訳すべきか(1))へ通じようと努力することを意味する、と述べているようだ。

 神のことばは啓示だが、啓示はなにか神から人間に一方的に与えられ、人間がただ受動的に受け取るもの、という印象を持ちやすい。本文書はこれは間違いだという。啓示は受動的に受け取るものではない。人間は「知性」を通じて、啓示された真理を能動的に受け入れる(2)。知性は、真理を理性的で学術的に表現しようとする(3)。


第1節 神の真理と神学の合理性

 神の真理は、信仰において受け入れられると、人間の理性と出会う。そして学術は理性の意識がとる最も高次の形式である。学術は多様な複数の形式を持ち、「実証的な科学」(数学・経験科学など)に限定されない。
 だから、神の真理は信じる者の理性を必要とする。信仰は姿勢を刺激し、その限界を拡張する。そのため、信仰と理性の対話、神学と哲学の対話は、信仰の面からのみならず、理性の面からも要請される。ここで、教皇ヨハネ・パウロ二世の回勅「信仰と理性」が説明される。要は、信仰が受け入れる真理と、理性が発見する真理とは、矛盾するものではない。
 同じように、宗教と哲学も長らく対立してきたが、キリスト教は神話神学や政治神学から自然神学を自立させることに成功した。自然神学とは、啓示によらない神認識という意味だが、スコラ神学は代表例だろう(4)。
 同じように、東方の神学者たちはギリシャ哲学を援用し、神学を神秘主義化させずに「否定神学」を発展させた(5)。
 ここから、回勅にそって、中世から啓蒙時代までのスコラ神学の発達と挫折、啓蒙思想との出会いと打撃と克服の過程が簡明に叙述される。そして現代の新しい挑戦として「ポストモダンの危機」をあげている(6)。真理は一つしかないのか、理性は本当に真理に到達できるのか、それほど重要な理性がなぜ暴力や不寛容につながるのか、などなどポストモダンの挑戦は厳しい。だがカトリック神学は哲学による形而上学的方向付けの力を受けてこの危機を乗り越えていかねばならない。神学は哲学と対話する。
 このように回勅『信仰と理性』は哲学的懐疑主義と信仰主義をともに拒否し、神学と哲学の関係刷新を求めている。
 カトリック神学の基準は、信仰の真理を、理性を用いて知的・論理的に提示することにある。そのためにも哲学的理性との緊密な関係を認めねばならない。

 


1 わたしはカテーテル手術でしばらく入院していたので前回の投稿から少し間が空いてしまった。この第3章は結論部分で大事なところだ。
 知恵も英知もwisdomの訳語なのだが、英知という訳語は14世紀以降の霊性神学の中で好んで用いられるようだ。W・ジョンストン『愛と英知の道』(サンパウロ 2017)。なお、『広辞苑第7版』は英知を「深遠な道理をさとりうる優れた才知」と説明しているがちょっと一般的な説明で、知恵概念との異同は意識されていないようだ。
2 ここでは「理性」と「知性」ということばが訳し分けられている。原語がわからないのでなんとも言えないが、どう訳し分けているのだろう。理性・知性・悟性・感性などの用語の使い分け・訳し分けは、歴史的経緯もあり、哲学・心理学でも難問のようだ。理性 reason Vernunft と知性 intellect Verstand を敢えて使い分けるなら、理性は推論的能力で間接的、知性は直感的で直接的とでもいえようか(知性は直感的との説はカントによる大批判があるようだが)。日本語では「悟性」 understanding Verstand という用語も知性と同義語として使われることがある。カント以降は、「理性ー悟性ー感性」という認識能力の序列論が受け入れられているので、悟性は理性と感性の中間的存在で、理解力一般という程度の意味らしい。この場合、感性 sensibility Sinnlichkeit は知性に対立して、感覚・情念を指すようだ。真・善・美のうち、善と美は感性の対象だが、真(理)は知性の対象となるらしい。要は、本文書は、理性と知性を訳し分けている、使い分けている点が重要だ。
3 「学術」の原語はわからないが、学問と芸術を含むという意味か、学問と技術(応用)を含むという意味かは本文書ではっきりしない。ことによったら単に学問という意味かもしれない。
4 現代哲学では理性と信仰は区別されており、自然神学に存在の場はない。だが、近年の日本におけるネオ・トミズムへの関心の増大には目を見張らせるものがある。近代理性への不信が、日本人の関心を信仰には向かわせず(せいぜいスピリッチュアル)、自然神学に向かわせているのかもしれない。
5 否定神学 negative theology とは、神は全能であるなどの肯定的表現は神の無限性を表現できないとして、神は「・・・ではない」という否定的陳述でしか表現できないとする神学のこと。アレキサンドリアのクレメンスやオリゲネスなどギリシャ教父に遡るといわれる。霊性神学に大きな影響を与えている。いわゆる不可知論ではない。
6 ポストモダンと言っても具体的に何を念頭に置いているのかははっきりしない。ポストモダンとは普通は、理性による啓蒙を基礎とした近代の制度や思考は袋小路に陥っており、消費社会や情報社会に対応する新しい実践を求める思想を指す。脱近代主義とも訳される。いわゆる「大きな物語」を否定し、懐疑主義的で、自己言及的で、相対主義的な思想を含むようだ。社会学では機能主義の時代の後ポストモダニズム論の影響が強く働いた時期があり、1980・90年代には大いにもてはやされた。フェミニズム論はその例と言えるかもしれない。

(ポストモダンのシンボルだったルーズソックス)

 

 

 

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