カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

サダム・フセインの野望と3回の戦争 ー イスラム教概論26(学び合いの会)

2021-11-28 14:19:19 | 神学


 古代から中東の覇権争いのプレイヤーは変わっていない。エジプト・メソポタミア・ペルシャだ。やがてトルコが覇権争いに加わる。

①イラン・イラク戦争 1980・9-1988 痛み分け

 イラクのサダム・フセイン(1937-2006)は中東制覇の野望を抱き、革命後のイランを攻撃した。1979年にイラン革命によってイランにシーア派のイスラム共和国が成立したばかりだ。イラン・イラク戦争が始まる。、欧米各国、ソ連や中国は革命の波及を恐れてイラクを支援した。戦いは実に8年におよんだ。両軍は多大な犠牲を払いながらも決着はつかず、1988年にイランは国連の停戦決議を受け入れた。形式的にはイラクの勝利だが、実質痛み分けと言って良いようだ。

②クエート侵入と湾岸戦争

 1990年8月2日にフセインは突如クエートを侵攻し、占領した。小国クエートはひとたまりもなく侵入を許し、王族(サバーハ家)は辛くも陸路サウジへ亡命した。この亡命は奇跡に近いほど切迫したものだったようだ。1991年1月17日に多国籍軍がイラクを空爆し、湾岸戦争が始まった。
 フセインは、アメリカは黙認すると読み間違えたようだ。米軍を中心とする多国籍軍がイラクに侵攻し、フセインは勢力範囲を縮小した。ブッシュ大統領(父)はフセインを残存させた(1)。

③アメリカによるイラク征服
 米国同時多発テロを経験したアメリカはブッシュ大統領(子)がイラクを征服し、フセイン体制は完全に崩壊する。フセインは2006年に絞首刑で死刑が執行された。シーア派住民は喜び、スンニ派住民は政府を非難したという。
 フセイン体制崩壊後のイラクの政情は安定していない。イラクの人口の約60%はシーア派、20%がスンニ派、20%がクルド族といわれる。フセイン政権は少数派のスンニ派主体だった。戦後は立場が逆転し、シーア派がアメリカの支援のもと政権を持っているが安定していないと言われる(2)。


(倒されるフセインの銅像)

 


1 日本も多国籍軍に協力したが、クエートの感謝広告に日本の名前はなく、逆にアメリカから「金だけだして人的支援が無かった」と非難された。1兆円を超す日本の支援額はほとんどアメリカに入りクエートにはわずかしか渡らなかったことが明らかになり、日本では大問題となった。
2 フセインは恐怖政治でシーア派・スンニ派・クルド人の対立を押さえ込んでいた。戦後はアメリカの占領政策の失敗とイラク政府の無能さにより内戦状態に近い状態が生まれているようだ。シリアからイスラム国(IS)が流入し、政府軍・クルド人・シーア派民兵・フセイン派の残党スンニ派などの相互の戦いがが入り乱れ、治安は相当悪いようだ。

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