「はじめに」での問いは「なぜ仏教を学ぶのか」であった。報告では4点が指摘された。
①現代は「諸宗教の神学」の時代だから
②仏教はキリスト教、イスラームとならぶ世界三大宗教だから
③仏教が日本の精神文化に与えた影響が大きいから
④仏教研究を通してキリスト教信仰を再確認したいから
どれももっともな理由だが、それ以上ではない。
現代日本の仏教は「葬式仏教」として我々の目の前にある。普遍宗教だというが、日本が乗り越えなければならない諸問題、たとえば財政破綻について、ウクライナについて、コロナについて、津波と原発事故について、なにかを語っているわけでもない。一人一人の人間の苦難と救いについて手がかりを与えてくれているわけでもない。キリスト教やイスラム教ではそれが出来ているというわけではないが、仏教はなぜか静かに佇んでいる。
葬式仏教であることが悪いわけではない。ではなぜ黙っているのか。仏教が語らないからではなく、われわれが問いかけないからではないか。仏教よ、お前ならなんと答えるのか、と問うてみよう。そのためには、問うためには、こちらに仏教について少しは知識がなければならない。われわれクリスチャンは仏教について何を知っているというのか。よく聞く般若心経ですらサンスクリットだから、日本語ではないから、何を言っているのかわからない。少しは勉強してみましょうということであろう。
第1章は「仏教とはなにか」と題されていた。大げさな問いかけだが、仏教の定義なしでは義論が進まない。
勉強会では主に仏教の歴史的発展の経緯をみながらシャカの教えを整理した(1)。仏教といっても原始仏教・大乗教・小乗教・浄土教・密教・禅といろいろある。というより、仏教は大きく見てこの6種類に分類される。そして相互にあまり交流はなさそうだ。なので、そのなかで共通の定義を探すのは至難の業だが、キリスト教との比較で考えてみる。
キリスト教の定義はー難しい議論は別としてー最低限、「イエス・キリストの復活を信じる」宗教といえる。この伝で言えば、仏教は「ゴーダマ・シッダルタが悟りを開いたことを信じる」宗教と言えるのではないか。ゴーダマ・シッダルタとはシャカのことであり、仏陀のことである。キリスト教の「復活」、仏教の「覚り」が定義上のキーワードと考えてみる(2)。
といっても、覚りとはなにかは誰もわからない。ゴーダマ・シッダルタが沙羅双樹の下で悟りを開いたとき、一言も発しなかったという。悟りは言語化できないもののようだ。イエスは書き物を残さなかった。ムハンマドは文盲だったといわれる。シャカも文書を残していない。
シャカの教え、言説は、結集(けつじゅう 経典の編集会議)を通して数百年にわたって文字として整理されてくる(3)。だから、覚りとはなにかは尽きることのない論点なのであろう。
覚り論は結局は「空とはなにか」という問いへの答えをめぐってなされる。「空」(くう)こそ初期仏教の定義論の中心となっているようだ(4)。空は英語ではnothingnessと訳されるらしい。empitiness ではないという。つまり、空とは「無」のことではなく、なにかが有るとか無いとかいう存在論の話ではないらしい。こういう議論は哲学好きには面白い話だが、実証系の人には絵空事に聞こえるだろう。わたしは現役時代の仕事は実証系だったが、この種の議論は嫌いなほうではない。次稿につなぎたい。
注
1 歴史的発展の話で使われた資料を載せておきたい。
【資料1】
2 「覚り」と「悟り」の区別は議論が尽きないらしい。ここでは「覚り」とは「真理」を獲得すること、「悟り」とは「煩悩」を克服すること、と理解しておきたい。それぞれ議論が尽きない概念なので次稿以降どこかで触れてみたい。
【シャカは何を悟ったか 資料2】
3 【ブッダの教え概略 資料3】
4 佐々木閑『集中講義 大乗仏教』 NHK出版 2017
橋本大三郎・大沢真幸『ゆかいな仏教』 サンガ 2013