カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

教会論的異端と修道生活ー転機(その2)

2020-09-30 20:56:04 | 教会

Ⅱ 教会論的異端

 「異端」という言葉は日本語では「正統」の対概念で、「正統から外れている・・・思想・信仰・学説」(広辞苑第7版)とされ、「謬説」と同義語とされることが多い。ギリシャ語(hairesis)では、分派、選択を意味していたらしく、日本語の語感とは少し異なるようだ。つまり、異端にはいろいろあるが、ここでは「教会論的」異端が取り上げられる。異端とは教会論的には、信仰の真理のある一面のみを極端に主張することを意味する。謬説とか間違いとか敵の思想とかいう文脈で理解すると異端は何でも悪いという誤解を導きかねない。

 古代教会では教会理解に関して3つの大きな異端が生まれた。これらと戦うことで教会は自分自身を鍛え上げていく。

1 モンタノス派

 創始者モンタノスは2世紀後半の人らしい。パラクレートス(聖霊)の働きを重視し、キリストの再臨が近いこと(終末が近いこと)を告げ、禁欲主義的生活(再婚の否定、断食など)を勧めた。この厳格主義は6世紀に至るまで命脈を保ったという。これに対抗して教会は掟を厳しくし、教会の制度を整備していった。

2 ノヴァティアヌス派

 ノヴァティアヌスは3世紀前半ばの人でローマの司祭。仮現説に対抗するなど神学的には極めて正統的な教義に立つ司教だったようだ。しかし棄教者の悔悛に寛容なコルネリュウスが教皇に選ばれるとこれを許さず、厳格主義に加わる。やがて対立教皇に選出される。この派の厳格主義は6世紀まで続き、教会分裂(シスマ)の背景にもなったという(1)。

3 ドナティアヌス派

 4世紀北アフリカの厳格主義派。カルタゴの司教セイリアヌスを叙階したフェリックスに棄教の経歴があったため北アフリカの司教たちはこの叙階を認めず、やがてドナティアヌスを司教に選んだ。事効論と人効論の対立である。やがてアウグスティヌスは教会の事効説を精緻化していくことになる(2)。


(異端裁判)


4 教会論的異端の共通性

 さまざまな教会論的異端には共通して主観的聖性への傾向が強い。聖霊への信仰や、厳格主義的生活を勧める点で、しばしば教会内に不足するものを指摘する(3)。教会が堕落すればいつでもかならず登場する。だがこれは行き過ぎると信仰のある一面の極端な強調となり、偏向となる(4)。


Ⅲ 修道生活の発生と展開

1 修道生活の意義

 修道生活は、迫害終了によって、この世に属さない迫害の教会から、この世の教会への転換による教会の世俗化への反動として生まれた。いわば迫害の状況を受け継ぐものであった(5)。

 歴史的には、「隠修士型」から「共同体生活型」へと変化したと言われる(6)。

①隠修士型 砂漠の独居型の隠修士。聖アントニウス(~356)が典型。隠修士としてのカリスマで教会に奉仕したが、独居型には欠陥があるとされた。
②共同体生活型 パコミオス(290~346)は共同生活の重要性を意識し、9つの男子修道院と2つの女子修道院を設立した。「祈りと労働」の共同生活である。

(トラピスチヌ修道院)

 モンテカシーのベネディクト(~548)からシトー会のベルナルド(~1153)に至る時代は修道院の時代で、キリスト教社会を構成する中世的ファクターとなった(7)。

Ⅳ アウグスチヌスの教会理解

 古代教会の教会論は結局はアウグスチヌスの教会論に集約される。

①キリストの体(司牧的関心)
教会はキリストの体であり、祭司はキリストのみと言う考え方。但し聖書の権威は認めていた。教会はキリストの現存と一体になった信仰共同体という理解だ。現在まで続くオーソドックスな教会論だ。

②秘跡の教会と聖者の教会の区別
広義の教会とは秘跡の教会のことで、洗礼を受けた人の交わりで、罪人も含まれる。
他方、狭義の教会とは聖者の教会で、善人のみからなる。実際の教会には罪人もいるが、これは「外的教会」であり、本来の教会は善人のみからなる。

 こういう秘跡の教会という考え方は、教会は善人のみからなり、人効説をとるドナトウス派との対決のなかで生み出されてきたようだ。アウグスチヌスは、秘跡は神の恵みであり、事効説をとる(ペテロの洗礼もユダの洗礼も効果は同じだという考え方)。

 アウグスチヌスの教会論の特徴は以下の3点にあるという。

①聖書中心主義:論理よりはシンボルを重視する
②聖者の教会とは、厳しい生活を営んでいた殉教の教会に対応する
③秘跡の教会、広義の教会とは、キリスト教公認後の世俗化した教会を反映している

 以上のように、14章は個々の論点は興味深いが、全体の流れがはっきりしない。さて、次章は、本書の最大の難所、「教会の外に救いなし」論への岩島師の立場表明だ。


1 シスマ(教会分裂)とは、普通は、11世紀の東西教会の分裂、16世紀の宗教改革、英国国教会の分裂を指すことが多い。とはいえ、教会が教義や組織の面で分裂することは既に4世紀頃から始まっていたようだ。ローマ教皇とコンスタンチノープル総主教の対立、相互破門の歴史的背景は長い。
2 教会は典礼の客観的聖性を主張する(事効説)。たとえば、堕落した司祭の洗礼やミサも有効なものとして認めるという考え方だ。教会でこの話になると結構うなずく人が多い。
3 現在の日本の教会でも神秘主義神学への警戒心は強い。キリスト教の禅への接近は遠い昔の話のようである。
4 これは岩島師の興味深い指摘であり、表現だ。異端だが、間違っているとは言っていない。
5 修道生活とは、教会の承認の下に、特定の修道会または修道院において「清貧・貞潔・従順」の誓願を通してキリストに従おうとする生活様式のことを言う。大ききく見て、「観想的生活」と「活動的生活」の二つがある(例えば、ベネディクト会、トラピスト会、女子カルメル会のような観想修道会、ドミニコ会やフランシスコ会のような托鉢修道会、イエズス会のような活動修道会がある。現代の修道生活は多様化が進んでおり、実際にはさまざまな模索が続いているようだ)。
6 修士 monk とは修道士のこと。概念の範囲は広い。一般的には修道誓願を立てた者のことで、修道者ともいう。女性の場合は修道女となる。しかし叙階を受けていない者という狭い意味もあり、この場合はブラザーとかシスターと呼ばれる。たとえば、マザー・テレサr(1910-1997)は、「神の愛の宣教者会」という修道会の設立を認められ、聖人とされたが、修道女である。マザーと呼ばれたが、マザーは指導的なシスターという意味で敬称だという。
7 中世から近世(近代初期)への修道会の発展・堕落・変貌の歴史は本書では取り上げられていない。なお、プロテスタントは宗教改革以来修道会を認めてこなかったが、19世紀になっていくつか生まれたとも言われる。

 

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