カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

集会祭儀かみことばの祭儀かー典礼研修会に出て(3)

2019-02-14 09:23:22 | 教会


 午後の講演はまず、O師による「ことばの典礼ーみことばを受ける、応える-」というタイトルでおこなわれた。午前中の師の講演とは異なり、よく準備され、テーマが絞られたよい講演であった。

 師はまず、ことばの典礼はユーカリスチア(聖餐、共食、聖体、イエスのパン割き)の前半部分なのではなく、独立した「場面」であると強調された。聖変化前の単なる導入、準備ではないということなのであろう。
 続いて、「第一朗読・答唱詩編・第二朗読・アレルヤ唱・福音朗読・説教・信仰宣言・共同祈願」と、式次第の流れに沿って個別に詳しく説明された。

 特に強調されたのは、ことばの典礼は「神と人とのやりとりー応答」だという点だった。応答とは信者の「参加」が不可欠であり、具体的には神からの呼びかけに信者が応える「態勢」をとることだという。典礼憲章がいう信徒の行動的参加の話である。
 例として、多くの信者はミサの最中に、「神ではなく、紙に心を向けている」と言って皆さんの笑いをとっていた。つまり、信者はミサの最中に「聖書と典礼」に印刷されている第一朗読・第二朗読・福音朗読の部分を眼で読んでいて、顔を下に向けている。それはよくない。顔を上げて、朗読を「聴いて」、神に心を向けなければならない、という。よくわかる話であった(1)。

 典礼憲章(2)は信徒の「行動的参加」論が中心だが、この本には「啓示」に関する教義憲章も含まれている。O師もパウロの回心の例を取り上げながら、啓示の「突然」性について興味深い説明をされた。キリスト教は啓示宗教だが、その啓示は常に「突然」の出来事なのだという。キリストとの出会いというのは、徐々に準備されて到達するというものではなく、「突然」起こることなのだという。幼児洗礼だが叙階は2016年だったという今年48歳だというご自身の例を挙げながらの説明は説得力のあるものであった。

 続いて、昨日の主日の第二朗読部分、コリントⅠの151~11が朗読され、また、手話による通訳もおこなわれた。ここでも、「耳で聴く」「眼で聴く」ことの重要性が強調された(3)。 教会での「奉仕」とは神への奉仕のことであり、それは信者の側からの神への「応答」なのだという。教会での奉仕活動をこのように性格づける話は私は初めて聞いたので、なにか目が開かれる思いであった。O師が巨体を震わせながら説かれるとよくわかった気がした。これといった教会奉仕はなにもしていないわたしだが、教会での奉仕活動をなにか義務みたいに思っていたことを大いに反省させられた。

 この後、しばしの休憩をはさんで、「みことばの祭儀」が実際に試行された。わたしは初めての経験だったが、あまりとまどうことはなかった。某教会の典礼委員の方(女性)が「司会」役を務められた(4)。流れとしては通常のミサと変わらず、入祭の歌から共同祈願まで普通に続いた。
 感謝の典礼には入らないのだから、奉納の歌もないし、献金もない。もちろん聖体拝領はない。終わった後なにかもの足らなさを感じたが、これがみことばの祭儀だといわれればそうかなと思った(5)。

 この後の質疑応答は熱のこもったものであった。予定時間を大幅に超えた。個々の質問は典礼委員としてのかなり個別的・具体的質問が多かった。それほど普段判断に困っていることが多いということなのであろう。わたしにはフォローしきれない質問が多かったのでここでは紹介できないが、みことばの祭儀はまだ試行の段階であるように思えた(6)。


注1 とはいっても、聖書が発音しやすい、聴いてわかりやすい日本語に翻訳されているか、という問題や、耳が遠い高齢者はいつもワイヤレスイアフォンをつけてきかなければならないのか、とか、いろいろ難点も指摘された。
注2 2014年に日本語で翻訳出版された『典礼憲章』は全7章からなる。第1章では「行動的参加」と「典礼の刷新」が述べられている。この本には『神の啓示に関する教義憲章』も含まれている。この教義憲章は6章からなるが、ページ数としては短いものである。
注3 「聴」という漢字は、耳と目と心、からできているという比喩を使って、聴くことの重要性を強調しておられた。
注4 奉仕者がおこなうこの奉仕が「司会」なのか「司式」なのか、という質問が質疑応答の時に出された。また、そのときの「服装」のありかたとか、実際にはいろいろと判断を迫られることあるらしい。ことばの祭儀の細部はまだ煮詰まっていないようだ。
注5 聖体拝領がないと信徒は教会に来ないのではないかと思わなくもないが、近隣の教会の典礼委員の方の話によれば、実際には集会祭儀の参列者の数は大きくは減ったりはしていないという。教会に来る、行く、ことの意味を考えさせる事例だ。
注6 ミサのない主日としての集会祭儀は式次第が確定して司教様の認可も出ているらしい。そこでは、集会司式者と司会者がきちんと区別され、奉仕者の服装や司式者の別の席の用意など定まっているらしい。わたしは集会祭儀式次第の確定版は持っていないので確認はできていない。また、みことばの祭儀では、感謝の典礼の部分に相当するところがどうなるのか、特に交わりの儀はどうなるのか、興味深い。少し調べてみたい。

 

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