カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

洗礼者ヨハネとイエスー新約聖書とイエス(6)

2018-09-27 16:56:34 | 神学


 洗礼者ヨハネが重要なのは、かれがイエスの親類、おそらくは「又従兄弟」(親同士が従兄弟)だったからではない。史的イエス論では、イエスは誰からユダヤ教を学んだのか、イエスの師匠は誰だったのか、という問いが重要だからだ。イエスは独学だったのか、それとも先生がいたのか。
 洗礼者ヨハネはなにも文書を残していないという。イエスと同じだ。イエスの弟子たちはイエスの言行を記録したが、洗礼者ヨハネの弟子たちは師匠の伝記を書いたりしなかった。しかし、大貫隆『イエスという経験』によると、洗礼者ヨハネに関する資料は豊富だという。先に挙げた「源泉資料」だ。
 洗礼者ヨハネとイエスの関係について考えるとき、いつも、誰でも、疑問に思うのは、イエスは神なのになぜ洗礼を受けたのか、罪人ではないのだから洗礼を受ける必要などなかったのではないか、という問いだ。そしてこの問いは、洗礼者ヨハネは本当にイエスの師匠だったのか、本当にイエスに洗礼を授けたのか、という問いにつながる。だから洗者ヨハネ(という言葉を使ってみる ついこの言葉がでてしまう)は史的イエス研究では中心的テーマの一つになっているのだろう。

1)洗礼者ヨハネ

a) 洗礼者ヨハネは、ヨセフスの『古代誌』に「『洗礼者』と呼ばれたヨハネ」という表現で登場するという。「しかしユダヤ人のある人々には、ヘロデの軍隊の敗戦は神の復讐であるように思われたが、たしかにそれは「洗礼者」と呼ばれたヨハネになされた仕業に対する正義の復讐であった。」 ヘロデによる洗礼者ヨハネの死刑の時の話であろう。

b) 根本使信 洗礼者ヨハネの根本使信は明白である。それは、「来たるべき方到来のための準備」である。マルコ1・4-7をみてみよう。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた・・・わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履き物のひもを解く値打ちもない。」 キリストの到来を準備することだ。やがてイエスが現れる。本当にこの人がわたしが待っていた人なのだろうか、という問いから洗礼者ヨハネの使信は始まる。

2)イエスの洗礼

 イエスの洗礼の話は、マルコ1・9-11,マタイ3・13-17,ルカ3・21 にある。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(マルコ1・9)。「洗礼を受けられた・授けられた」は3人称男性で受動態(受け身形)だという。(注1)

a) 洗礼の年代 AD28年か29年らしいが、確定できていないようだ。

b) 洗礼の場所 ヨルダン川のベトサイダ付近らしい(ガリラヤ湖の北西)。根拠はヨハネ1・40-44で、イエスはベトサイダでアンデレとペテロに出合っている。イエスの最初の弟子たちである。

c) イエスは、受洗後、活動を開始する。マルコ1・14に、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、」とある。洗礼者ヨハネの投獄後にイエスが活動を開始したことは、マタイ11・2,ルカ7・18からもわかる。

 洗礼者ヨハネによるイエスの洗礼に関しては、マルコとルカの間に矛盾があるとか(ルカではイエスの洗礼以前にヨハネは投獄されている)、マタイはイエスが洗礼を受けたことを断言していないとか、プロテスタント系の聖書学者の間では議論があるらしい。この問題は、ヨハネ教団とイエス教団の競合とか難しい問題につながるようだが、それは専門家の議論に任せるにして、われわれは素直に洗礼者ヨハネはイエスの師匠であり、イエスに洗礼を授けたと理解しておきたい。

3)洗礼者ヨハネとイエスの関係

 この点に関する川中師の、つまりカトリック教会の説明は明解である。

a) 洗礼者ヨハネは「先駆者」(Vorlaeufer Forerunner)である マルコ1・9 「イエスは・・・ヨハネから洗礼を受けられた」から、教会は洗礼者ヨハネを「先駆者」として高く評価する。

b) だが、洗礼者ヨハネに対するイエスの優位性を強調する。ヨハネ福音書1・8「彼(洗礼者)は光ではなく、光について証しをするために来た。」 イエスの優位性は明らかである。
 フルッサーの「救済史の三段階」説というのがあるという(注2)。フルッサーによると、「こうして、イエスは救済史を三つの時期に分けた。第一期は聖書の時代であり、それは洗礼者ヨハネの生涯とともに頂点に達した。第二期はイエス自身の宣教に始まった。天の王国が突入して来た時期である。第三期は誰にも分からない未来における人の子の到来と最後の審判をもって開始する。」
 つまり、第一期は聖書の時代、第二期はメシアの時代、第三期は来たるべき時代、で、現在は第二期ということになる。
 イエスはなぜ洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのか。イエスは「天の王国の突入」が始まることを感じ取り、その備えとして洗礼を受けた、というのが川中師の理解のようだ。では、「天の王国の突入」は、いつ、どこで、どのように始まるのか(始まっているのか)。これは、イエスは宣教の話になる。

c) 洗礼者ヨハネとイエスの使信の相違
 とはいっても、洗礼者ヨハネとイエスの使信の違いは大きい。洗礼者ヨハネは終末における「裁き」の告知を強調する。禁欲主義を強調する。ルカ3・9,マタイ3・10だ。「斧はすでに木の根元に置かれている」。
 他方、イエスは「よき知らせ」を告知する。洗礼者ヨハネの告知よりもっと肯定的・積極的だ。
 マルコ1・14 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。これは、神の国の到来を知らせる使信だ。「神の国」を「王国」ととるならこれは大変なメッセージだ。
 ルカ7・22「・・・死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」これは貧しい人への福音の告知だ。なにか励ましているように聞こえる。洗礼者ヨハネの使信とは異なっている印象を受けるがどうだろうか。ここからイエスと洗礼者ヨハネとの間に何らかの緊張関係、競合関係があったとみる聖書学者もいるようだが、それはまた別の話である。

 イエスはおそらく洗礼者ヨハネのもとで学んでいた。そして彼から洗礼を受けた。やがてイエスは洗礼者ヨハネから離れ、ガリラヤへ向かう。洗礼者ヨハネのもとには多くの人が集まっていた。イエスは弟子を求めてひとりガリラヤへ向かったのかもしれない。この先は、神の国、神の支配、神の王国に関するイエスの宣教の話になる。次回に続けたい。

注1 聖書ではイエスの言動は受動態で表現されることが多いという。
注2 D・フルッサー 『ユダヤ人イエス』 2001 教文館 著者はユダヤ人で、ユダヤ教のイエス研究の史的イエス論への貢献を強調し、キリスト教の反ユダヤ主義の克服を求めているという。

 

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イエスの生涯ー新約聖書とイエス(5)

2018-09-26 11:38:59 | 神学


 イエスはいつ、どこで生まれたのか? わかりきっている、紀元前4年、ベツレヘムで、と言われればそれまでだが、どうもそうとも言い切れないようだ。イエスの誕生物語は福音書によれば「最後に」成文化されたストーリーだ。最も大事な物語とはいえない。
 「受難物語」こそ福音書にある最も大事な物語で、しかも「最古の」物語だ。受難物語は4福音書すべてに共有されている。エルサレムへの入城から処刑、十字架と埋葬にいたる一週間の物語こそ、伝承が成文化された最古のものだ。直接目撃した人々が記憶を共有して話し合ったりしていたのであろう。やがてこの伝承がさまざまなルートで成文化されていく。そしてやがて福音書という形をとってくる。
 イエスがいつ、どこで生まれたか、誕生物語は信仰には関わりない事柄だし、イエスの生涯を昔風に私生涯と公生涯にわけるなら、イエスの誕生や青年時代の物語は私生涯の話で、いわば個人的な出来事である。信仰にはあまり関係ないという考え方もあるだろう。だが、実はその伝承の背後にある歴史は単純ではなさそうだ。

3 イエスの生涯

3・1 イエスの誕生

 結論的言えば、イエスの誕生年は確定できていないようだ。一つには、ディオニュソス・エクシブゥス(497-550)がおこなったローマ歴754年を西暦0年とする換算が計算ミスだったからという説明もあるようだが、そもそも誕生年に関して福音書が一致していないのが大きな理由だろう。

a)マタイ福音書
 普通は、マタイ福音書の2・1 「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムで、お生まれになった」が、イエスの誕生年と誕生地判断の根拠とされている。ヘロデ大王はローマ歴750年死亡だから、紀元前4年だろう、ということだったらしい。
 イエスの誕生に関するマタイ福音書はユニークだという。マタイだけが、占星術の学者たちの訪問を記し、マタイだけがイエスの家族のエジプトへの逃避に言及し、マタイだけがヘロデ大王による幼児虐殺を書き、マタイだけがイエスの家族のエジプトからナザレへの帰還に触れている。どれも旧約聖書の話を背景に持っており、マタイが神学的な強調をおこなっていることは明らかだ。他の箇所などを総合すると、マタイ福音書ではイエスの誕生年は6~4BCのようだ。紀元前6年から4年の間だということになる。
b)ルカ福音書
 ルカもイエスはベツレヘムで誕生したと報告している。だがルカだけが報告している物語がある。ザカリアへの告知、マリアによるエリザベトの訪問、マリアの賛歌、洗礼者ヨハネの誕生と割礼、ザカリアの賛歌、人口調査時のイエスの誕生、羊飼いたちへの告知、神殿におけるイエスの割礼と奉献、神殿における早熟のイエスのエピソード。ルカはマタイとは異なり、歴史や女性や社会的弱者に強い関心を持っていたようだ。
 ルカ福音書1・5は、ヘロデ大王の死以前のイエスの誕生を語っている。2・1では、ローマの属州ユダヤにおけるシリア総督キリニウスによる人口調査(6AD)以前のイエスの誕生が語られる。つまり、ルカ福音書からはイエスの生年は4BC~6ADと読み取れるという。紀元前4年から紀元後6年と随分と幅があることになる。
 生年は何年でもよいともいえるが、これはイエスの公生涯を3年とするか、1年こっきりとするかに関わってくるので大事な論点であるらしい。

 誕生物語以上に、イエスの「幼児物語」については聖書の中に不一致が多くあるという。たとえば「イエスの系図」の話だ。イエスは本当にダビデの家系で、ダビデの子孫だったのか。王の血統なのか。マタイとルカの系図は整合していないという。たとえば、イエスの祖父はルカによれば「エリ」なのに、マタイでは「ヤコブ」にされているという。これらはキリスト論であり、イエス論の範疇では論じきれないテーマなのであろう。
 イエスの青年期は、公生涯に入る前の姿は、13歳前後の唯一の話を除いて、皆目わからない。30歳で突然宣教を始める。どこで何をしていたのか。本当に石工だったのか。外典、僞典、諸々の認められていない正典外福音書にはいろいろな話が書かれているようだが、イエスの青年時代に関してはどれにも書かれていないという。青年イエスは霧の中のようだ。といっても、考えようによっては、30~33歳のイエスは青年だったのかもしれない(注1)。

3・2 イエスの誕生地

 「ナザレのイエス」とは言うが、「ベツレヘムのイエス」とは言わない。歴史的事実としてはイエスはガリラヤのナザレで生まれたというのが現在の聖書学者や歴史学者の共通の理解のようである。より正確には、イエスの確実な誕生地は知り得ない、というのが学者たちの正直な判断であろう。では、なぜイエスはベツレヘムで生まれたことになっているのか。繰り返しになるが、マタイ福音書の2・1 「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムで、お生まれになった」が根拠らしい。ベトレヘムはダビデの町で、イエスがメシアならここで生まれるしかなかった、というマタイの神学的主張と理解できそうだ。

a)「ナザレのイエス」 という説明はマルコ1・24,10・47,14・67,16・6、マタイ2・23、ヨハネ18・5などにある。使徒言行録2・23 にも出てくる。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」。
b)イエスの誕生地 誕生地はナザレだという根拠もある。マルコ1・9 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」。ヨハネ福音書1・45 「それはナザレ人で、ヨセフの子イエスだ」。イエスはナザレで生まれ育ったと理解できそうな表現だ。

 でも、歴史的事実はそうであっても、イエスがベツレヘムの馬小屋で生まれなかったら、クリスマスのお祝いはどうなってしまうのだろう。子どもたちを悲しませるわけにもいかない気がする(苦笑)。
 神学的に言っても、もしイエスがベツレヘムで生まれたのではなかったら、イエスはメシアとして、神に油注がれたものとして、ユダヤの王として、認められたのだろうか。聖書学者たちは何と答えてくれるのだろうか。

注1 この時代、「青春期」は無かっただろう。こどもからある日突然大人に変化する。大人入りする。中間の期間は制度的にはない。中世ヨーロッパで、イエスが青年として描かれたり、老人として描かれたりするが、少年イエスも描かれたりしたのだろうか。

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イエスに関する源泉資料ー学びあいの会(4)

2018-09-25 15:28:13 | 神学


 久しぶりの学びあいの会は振替休日にぶつかり、天気もよかったにもかかわらず、いつもの顔ぶれが集まった。
 今回の題材は、川中師の上智大学神学夏期集中講座「新約聖書とイエス」の続きである。いわゆる「史的イエス論」である。最近の研究成果を師がまとめられたもののようで、師の独自の見解が展開されているわけではなさそうだ。それでも、カトリック教会が史的エイス研究をどう見ているかを垣間見ることはできそうで、とても興味深かった。議論はかなり細かいが、基本的な点だけを要約してみたい。

2 イエスに関する源泉資料

 イエスは文書を残さなかった。書いただろうが、残っていない。だから、イエスの思想を知るためには、使徒や福音書記者らの文書から見ていくほかはない。だが、イエスが語った思想と、使徒たちが理解したイエスの思想、福音書記者たちが伝えようとした教えが、必ずしも一致しているわけではなさそうだ。
 かって、福音書は使徒マタイ、ペテロの書記マルコ、パウロの同伴者ルカ、使徒ヨハネによって書かれ、中身は一言一句神の言葉で満たされ、編集の手は加わっていない、と教えられていた。だが実際には福音書は編集された伝承の塊であることがわかってきた。この伝承の塊からイエスの本来の思想を抽出することが、後世の追加された神学的主張を取り除くことが、信仰の強化につながるとというのが史的イエス論の主張のようだ。

 源泉資料とは Quelle のことだ。英語で言えば Spring。 「泉」という意味もあるが、「源」という意味もある。イエスに関する資料は、キリスト教以外のものと、福音書を中心とするキリスト教のものがあり、前者はイエスが実在の人物であったことを明らかにし、後者はナザレのイエスという人物の言動と、それに付け加えられた記者たちの神学的主張である。

2・1 キリスト教外資料

1)ローマの歴史家

 資料論では、タキトゥス(56-118)とヨセフス(38-100)の名前が必ず出てくる。特にヨセフスは特別に重要らしく、かれの『ユダヤ古代誌』と『ユダヤ戦記』は資料中の資料のようだ。

a) スエトニウス(70-130)『皇帝列伝』の「クラウデゥス伝」(ca.120)(注1)
使徒言行録(使徒行録、使徒行伝)18・2にはクラウディウス帝によるユダヤ人のローマ退去命令(49AD)の話が出てくるが、このクラウディウス伝には、「ユダヤ人たちはクレストウスの扇動で絶えず騒擾を起こしたから、クラウデゥスはかれらをローマから追放した」とある。クレストウスとはキリスト教徒という意味だ。
b)タキトウス 『年代記』(115-117)
ローマ市の64ADの大火とネロのキリスト者迫害、キリストによる「有害な迷信」と、ポンティオ・ピラテゥスによるキリストの処刑の話が記されている。
c)フラウィウス・ヨセフス 『ユダヤ古代誌』
ヨセフスは第一次ユダヤ戦争(66-70)のガリラヤの司令官(マサダの陥落は73/74年)。次の文章はいろいろなところで引用される有名な文章のようだ。
「さてそのころ、イエスという賢人ー実際に、彼を人と呼ぶことが許されるならばーが現れた。彼は驚くべき業を行う者であり、また、喜んで真理を受け入れる人たちの教師でもあった。・・・」
 これは専門家の中では「フラウィス証言」と呼ばれるらしく、「イエスという賢人」とか「キリスト者となずけられた族」という表現があり、さらに、イエスの兄弟ヤコブにも言及している。紀元1世紀末、パレスチナで起ころうとしている暴動を記録するときなぜイエスに言及する必要があったのか、が論点らしい。もちろん「かれを人とよぶことが許されるならば」は後世のキリスト者による原文への挿入・改ざんであろう。写本の時におこなったのであろう。古スラブ語訳のフラウィス証言(11/12世紀)にはこういうキリスト教的文言は入っていないという。
 イエスは実在しなかったという過去数百年繰り返されてきた主張が誤りであることを、タキトウスやヨセフスが示している。


2・2 キリスト教資料

1)基礎資料:福音書

福音書は当然資料の第一に来るが、特にマルコ福音書の優先性は圧倒的である。とにかく一番古い。マタイもルカもそれぞれ独自にではあれマルコを下敷きにしていることがわかっている。

a)二資料説 

 新約聖書学者たちは文献資料は「10文書」あると考えているようだ。イエス伝承のなかでイエスの言葉や業とされるものが、たったひとつの資料に書かれているよりは複数の資料に書かれている方が信憑性が高いと考えられる。だから複数の資料を比較するわけだ。
 二資料説(Zwei-Quellen-Theorie)とは、マルコ資料(マルコ福音書)とQ資料(Q語録資料)のことで、特殊資料とはマタイ特殊資料とルカ特殊資料をさす。特殊資料とは、編集の手が加わっていないマタイやルカに固有の伝承をさす。聖書学者のチャールズワースは「多様な証言という基準」(Multiple attestation)という言葉を使って説明しているので、こちらの説明をみてみよう(注2)。

Q マタイとルカが用いたと推定されているイエスの言葉資料
S ヨハネによって用いられたと考えられている「しるし資料」(Sとはセーメイアでしるしのこと しるしとは奇跡を含む)
P1 パウロによるイエスについての言及とイエスの言葉の引用ないし暗示
Mk マルコ福音書
J1 ヨハネ福音書の第1版
M マタイだけによって受けつがれた諸伝承
L ルカだけによって受けつがれた諸伝承
A 使徒行伝の著者によって保存されたイエス伝承
J2 ヨハネ福音書の第二版(7・53~8・11は除く これは大事な除外項目)
T トマス福音書 

(MとLは川中師がいう特殊資料)
以下の表はマルコ・マタイ・ルカ相互の共通項目数を整理したものだという。

            マタイ  マルコ  ルカ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
三つに共通        330  330   330
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
マタイ/マルコ      180  180
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
マルコ/ルカ          100   100
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
マタイ/ルカ       230      230
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
独自な部分        330   50   500
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 共観福音書に共通した項目数を多いと感じられるだろうか、少ないと感じられるだろうか。

b) ヨハネ福音書の特殊性

①共観福音書との年代的な齟齬がある。例えば、イエスによる神殿商人追放の話は、マルコ福音書ではイエスの受難直前の話だが(マルコ11/15-19)、ヨハネ福音書ではイエスの公的活動の開始期の話になっている(ヨハネ2・13-22)。また、イエスのエルサレム行きは、マルコではただ一回のエルサレム行きだが(10・32)、ヨハネでは三回のエルサレム行きとなっている(2・13-4・54,5・1-7・9,7・10-20・29)。
②ヨハネ福音書固有の資料がある。「しるし資料」(Zeichen-Quelle)と呼ばれる(2・11,4・54、12・37、20・30)。たとえば、ヨハネ福音書2・11では、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナでおこなって、その栄光を現された」、20・30では「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」。しるし Semeia 概念はヨハネ福新書の特徴のようだ。

2)イエスの言葉

a)アグラファ(Agrapha) :福音書以外における生前のイエスの言葉。書簡などに残っている。例えば、1テサロニケ4・15 「主の言葉に基づいて次の言葉を伝えます。主が来られる日まで生き残る私たちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」。使徒言行録20・35 「受けるよりは与える方が幸いである」もそのひとつらしい。
b)パウロ書簡と福音書に共通するイエスの言葉
パウロ書簡と福音書にも共通する言葉が記されている。主の晩餐については1コリント11・23-25とマルコ14・22-26,福音宣教者のロジスティックというか生活必需品の援助について1コリント
14とルカ10・7,離縁の禁止に関しての1コリント7・10とマルコ10・12など。

 このように新約聖書のテキストは、イエスに関する歴史的事実とその後の神学的主張とが入り交じっていることになる。
 川中氏はこのように文書資料を整理している。基本3資料(マルコ福音書、マタイ特殊資料、ルカ特殊資料、二つのキリスト教外の資料(タキトゥスとヨセフス)、そして10個の独立した文書資料だ。聖書学者はこれらをベースに研究を進めているらしい。
 ところが、資料と言っても文書以外の資料もあるようだ。チャールズワースは考古学の成果をあげている。パレスチナという土地を「第五の福音書」とよび、その地形や文化を検討する。実物教材とよぶ考古学的発掘調査で見つかった当時の網、ボート、剣、衣服、外套、ベッド、金貨、銀貨を紹介している。イエスが生きていた世界を理解しようとする。イエスの生きていた世界は紀元後70年(神殿破壊)以前の第二神殿時代のなかの一時期というというきわめて特殊な時代だ。イエスはユダヤ人であり、ユダヤ教徒だった。イエスはキリスト教徒ではない。考古学的研究はこの時代のユダヤ教の「清浄」観念の重要性を明らかにし、イエスの処刑をこの清浄観念への挑戦の帰結とも示唆している。仏教風に言えば「お清め」への挑戦である。文書以外の資料の話も面白そうなので、別の機会に勉強してみたい。
 長くなったので続きは次回にまわしたい。それにしても、文字だけではなく、ほかの方のようにきれいな写真でも入れて少しは読みやすくしたいと思うのだが、なにぶんgooブログへの写真の挿入の仕方が分からない。困ったものだ。

注1 ca. とは circa のことでaboutのこと。ラテン語。歴史物にはよく出てくる表記。
注2 J・H・チャールズワース 中野実訳『これだけは知っておきたい 史的イエス』2008 93頁。なお、カト研の皆さんの中でもトマス福音書なんて聞いたことがないという方がおられるかもしれない。これはナグ・ハマディ文書(1940年代にエジプトで発見される)のなかで第二写本の第二文書として収められているコプト語の文書だという。福音書といってもイエスの語録集らしい。グノーシス主義がベースにあるという。わたしはもちろん見たことはない。また、Q資料については繰り返し出てきているので改めて説明する必要はないであろう。

 

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