カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

映画「パウロ」を観る

2018-12-20 09:02:28 | 教会

 「パウロ ー 愛と赦しの物語」を観てきた。基本的には獄中のパウロからルカが口述筆記する話だ。時は紀元67年、ローマの大火のあとだ。ルカの視点から見たパウロというストーリーだ。パウロの回心も描かれるが、聖書の知識がないとわかりずらいように思えた。ほとんど室内劇でスペクタクル映画ではない。ストーリーの基本は「使徒言行録(使徒行伝・使徒行録)」だが、字幕では「The Acts of the Apostles」を「使徒の働き」と訳していたのは意図が不明だった。ルカを演じたのはジム・カヴィーゼルで、昔「パッション」でイエスを演じた人だという。パウロはジェームズ・フォークナーという俳優さんが演じているらしいが、「耳」のかたちが印象的だった。映画としては、本当にそこまで赦せるのかと問いかける重い話だが、見終わった後かすかな爽快感というか解放感があったのは脚本兼監督のA.ハイアットの力量なのであろう。
 来秋にはフランシスコ教皇さまが来日されるらしいという。こういう映画を多くの人に見てもらって聖書への理解が深まることを期待したい。

 

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イエスの奇跡 ー 新約聖書とイエス(その13)

2018-12-19 20:47:16 | 教会


4 自然奇跡物語

 湖上歩行の物語を見てみよう。マルコ6:45-52だ。

45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて船に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間にご自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、船は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところへ行き、そばを通り過ぎようとされた。
49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
51 イエスが船に乗り込まれると、嵐は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。

 印象的な描写だ。この節については聖書学では伝統的にいくつかの特徴が指摘されてきたようだ。
①まず、6:51での、「嵐は静まり」という表現だ。実際に嵐はあったのであろうが、これは旧約聖書では神を自然界の支配者として描く一つの方法だという。詩篇107:28f に見られるという。

②「そばを通り過ぎようとされた」(6:48)。これは重要な表現だという。「そばを通りすぎる」とは「神顕現」と呼ばれ、神が自らをお示しになることだ。出エジプト記33:22には、、「わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う」とある。
 また、列王記(上)19:11には、「主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、その時主が通り過ぎて行かれた」とある。ちなみに、今回の聖書協会共同訳では、「主が通り過ぎて行かれると、主の前で非常に激しい風が山を裂き、岩を砕いた」となっている。これは主がエリアに臨んだシーンである。主は「通り過ぎる」というかたちで自らを顕現されるようだ。
③「わたしだ」(6:50)。これは旧約聖書における神の自己啓示の定式的な言辞だという。すべてのものにイエスが現存するという考えだ。「わたしだ」(共同訳では「私だ」)とはなんと力強い自己啓示だろう。有名な出エジプト記3:14f を見てみよう。
「神はモーゼに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われた。また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
 「わたしはあるという者だ」は、前回も触れたように共同訳では、「私はいる、という者である」となっている。「ある」と「いる」の違いはわからないが、神は「わたしだ」のひとことで自己規定しているようだ。

 このマルコ6:45-52を、マタイ14:22-33,ヨハネ6:15-21と比較してみよう。おなじ湖上歩行の話だ。「わたしだ」はどれにも記されている。マタイは詳しい。「そばを通り過ぎる」はマルコだけにある。この三カ所の比較の議論は、ギリシャ語やヘブライ語を照らし合わせながら行われるようで、我々の力量を超えている。今回は皆で読み合わせて味わうにとどめた。

 したがって、この自然奇跡物語の主題は、イエスの現存とそれへの弟子たちの信仰だ。湖の上を歩くなんて、本当のそんなことが起こったの、と問うのはあまり意味は無いように思える。イエスの奇跡の本質は、イエスが人々を憐れみ、人々がイエスにまみえる中で体験した解放のことのように思える。神学的に言えば、奇跡は神の支配の開始の徴であり、人を神との真の関係に導くものといえよう。
 とはいえ、奇跡論はブルトマン流の非神話化論(1)、ひいては史的イエス論や自由主義神学そのものと対峙している。救いに関してもあいかわらず「原罪」論からはいる人と、「復活」論から入る人との対峙は大きい。奇跡論はむずかしい。

注1 聖書にある奇跡はすべて説明できるという極端な非神話化論もあれば、聖書の話はすべて真実だという原理主義的立場もある。たとえばパンの増加の話は、5000人に食べさせたり、4000人だったり人数の違いがあるとはいえ、数そのものにあまり意味は無いだろう。また、パンが増えたのではなく、人々が弁当を持ってきて話を聞き、その弁当をお互いにあげっこした、いわば隣人愛の話だという「弁当」説など、一般に流布している説は多いようだ。非神話化論の影響範囲は広い。

 

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イエスの奇跡 ー 新約聖書とイエス(その12)

2018-12-18 13:27:21 | 神学


 今月の学びあいの会のテーマは、「奇跡物語伝承」についてであった。
今日では、「奇跡」について語ることは難しい。かっては、といっても第二ヴァチカン公会議前後までだが、奇跡物語は信仰への入口だった。洗礼への導きだった。だが現在は、マジックと同一視されるか非科学的だと無視されるかだ。「スピリッチアル」や「厄除け」への関心はあっても、奇跡への関心はない。川中師の講義を中心にあらためて奇跡についての教会の議論を整理しておきたい。

 川中師によると、ゲーテはかって「奇跡は信仰の最愛の子」と語ったという。奇跡は信仰への入口だった。ところが、ラッチンガー(ベネディクト16世)は「奇跡は信仰の問題児」と述べて、非神話化論に言及したという。奇跡を、信ずるか否かと問うのではなく、現代の聖書学が新約聖書の奇跡物語をどのように分析しているかを見てみたい。

 今日は聖書をかたわらに、奇跡物語を一字一句一緒に読み合わせながら共観福音書を比較した。少し細かい引用が入るので読みにくいが、ご勘弁いただきたい。考えてみれば、われわれカト研のメンバーもかまぼこ校舎の部室で同じようなことをしていたのを思い出す。

1 奇跡物語の分類

 新約聖書中の奇跡物語は大きくみて三つに分類されるという(1)。この分類は奇跡を理解する上で重要なので、きちんと整理しておきたい。

①治癒奇跡
 具体的には、病人の治癒と悪霊の追放だ。病人の治癒の話ははマルコに多く、1:40-45、2:1-12、5:25ー34,7:31-37,8:22-26などだ。悪霊の追放は同じくマルコ1:34,5:1-20などだ。「病」を治すことがいかに重要なことであったかを示している。「病気」と「貧困」、これがイエスが一貫して取り上げた論点だった。

②自然奇跡
 自然奇跡とは「嵐鎮め」と「湖上歩行」の物語のことだ。嵐鎮めはマルコ4:35-41だが、そこでのイエスの言葉は福音書ごとに違う。なぜ異なるのか。聖書学者はいろいろ議論しているようだ。湖上歩行は一番有名な物語だろう。マルコ6:45-52だ。自然奇跡は病気を治すこととは違う。同じ奇跡でも対象が異なる。

③供食奇跡
 供食奇跡とは、パンを増やした話だ。マルコ6:30-44が有名だが、共観福音書すべてに出てくる話だ。しかもマタイとマルコは二回もこの話を記している。よほど伝承に残るほど重要な出来事であったのであろう。

2 奇跡物語の発展

 奇跡物語は最初の出来事の伝承から発展していく。元々の伝承は「史的核」とか「最古層」とか呼ばれるが、やがて編集が入っていわゆる「様式化」が始まる。様式化とは物語の「構成」が作られ、やがて「拡大・発展」させられていくプロセスのことを意味するようだ。

①史的核(最古層)
 これは一番最初の出来事だ。イエスが人々を「癒やす」出来事だ。
「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ4:23)。
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた(」マタイ9:35)。
 これは、イエスが実際に病人たちと接触したことを示している。恐らくは不可蝕の病人たちであっただろう。イエスは病人にさわる。癒やすとは触ることから始まったのであろう。

②様式化
 まず、奇跡物語が構成されてくる。病人の治癒や悪霊の追放の話が口伝えに広まる。そして文字で記されていく。マルコ1:34や、マタイ8:16などだ。
 やがて、奇跡物語は拡大発展させられ、イエスは偉大な奇跡行為者として描かれていく。
荒井献氏は著『イエス・キリスト』(下)で次の4点を挙げているという。①奇跡行為におけるイエスの主導権の拡大②奇跡行為の誇張③治癒された者への関心の喪失④奇跡行為者イエスの偉大さの強調。この特徴づけの妥当性はわたしにはわからないが、川中師の視点でもあるようだ。

3 治癒奇跡物語

 ここは、マルコ1:40-44を各行ごとに分析することで説明される。

 「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来て」・・・これは「出会い」の場面という
 「ひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになりますように」と言った」・・・これは「懇願」と呼ばれる
 「イエスは深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、」・・・ここは中心部分で、治癒の行為・活動を描いている 「深く憐れんで」が重要な表現らしい
 「よろしい。清くなれ」と言われると、」・・・これはイエスの「言葉」だ。治癒の行為と並んで中心部分となっている
 「たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」・・・これは治癒行為の確認である
 「イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーゼが定めたものを清めのために捧げて、人々に証明しなさい。」・・・これは治癒行為の実証であり、終結場面となる

「出会い・懇願・行為・言葉・確認・実証」という構成だ。こういう文章の作り方は聖書にはよく見られるらしい。

 ここは史的核(最古層)はどのようなものだったかを想起させる。このマルコを、マタイ8:1-4、ルカ5:12-16と較べてみよう。同じ病人の癒やしの話でも、「深く憐れんで」はマルコにのみ見られる。マルコを下敷きにしたマタイやルカはなぜこの表現を省いたのか。マルコは奇跡を救いの徴(サイン)と見ていたのかもしれない。
 川中師はここから、二つの論点を取り出す。
①まず、「イエスが深く憐れんで」を、イエスが貧しい者の側にたっていることの証とみる考え方だ。この視点は佐藤研『聖書時代史』(2003)のような徹底した非神話化論者に特徴的な視点のようだ(2)。
②他方、イエスによる癒やしの体験は、つまり奇跡は、単なる超常現象ではない。それは、人々がイエスと出会ったことで知った根本的な「解放体験」を示しているという理解だ。

 川中師はこの二つを対比的に論じておられて断定的な評価はしておられない。私は印象的に言えば、治癒行為を、科学的には説明できない超常現象とみるかどうかは重要なことではないと思う。イエスが人々と深くかかわり、憐れみを受けた人々が「変化した」、「解放された」と思ったこと、その体験が重要なのだと思う。福音書はそれを伝えたかったのだと理解したい。

 自然奇跡の物語は次稿にまわしたい。

注1 旧約聖書の奇跡物語はモーゼのエジプト脱出が中心となる(出エジプト記7-18章)が、これは別のテーマである。
注2 非神話化論をどう評価するかは難しいが、あまりに極端な非神話化論もあるので注意が必要だ。ちなみに佐藤研氏は、聖書研究は信仰とは関係ない古文書研究の一つと考える立場のようだ。

 

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「聖書協会共同訳」を購入し、驚く

2018-12-15 12:25:29 | 教会


 日本聖書協会の「共同訳 続編付き・引照 注付き」を購入した。パラパラと読み始めた。サイズは中型(B6版)だ。持ってみると新共同訳より少し軽い感じだ。紙質が変わったのかもしれない。

 新共同訳との違いは、小冊子「特徴と実例」に触れられているが、少しだけ印象を記しておきたい。
 第一印象はやはり、なぜ「共同訳」という名称を使うかだ。どうしても「新共同訳」以前の「共同訳」を思い出してしまう。「新新共同訳」では収まりが悪かったのであろう。

 第二印象は、とにかく読みやすい。「スコポス理論」を使って、「朗読用」の翻訳文だという。スコポスとは目的という意味らしく、朗読という目的に合わせて訳した、という意味らしい。ごミサでの聖書朗読は「聖書と典礼」を見ずに耳で聞くだけの人が増えているというが、これは朗報だ。これで、意訳だ直訳だという議論をしなくて済むようになる。

 第三印象は、最近の聖書学の知見が反映されているという。細かいことは分からないが、これは訳文に面白い変化をもたらしているようだ。好きか嫌いかは評価はわかれるだろうがおもしろい。
 たとえば、小冊子でも説明されているが、旧約では、創世記1:27は、「神のかたち」となっている。新共同訳やフランシスコ会訳では「自分にかたどって」と訳されていた。あれこれと考えが湧いてくる。
 創世記と言えば出だしだが、この共同訳は「初めに神は天と地を創造された」だ。フランシスコ会訳と同じだが、「点、コンマ」がない。一気に読め、ということだろうか。新共同訳では「初めに、神は天地を創造された」だ。「天と地」ではなく、「天地」となっている。違いがあるのだろうか。
 強烈な印象はやはり、神の名前だ。神は名前を持たない。だが、出エジプト記3:13で、神は名乗る。ここは、今回の訳は、「わたしはいる、という者である」。フランシスコ会訳では「わたしは『ある』ものである」だ。新共同訳では、「わたしはあるという者だ」だ。「ある」から「いる」に変わった。「いる」とはどういうことなのだろう、と考え始めたらキリが無い。

 新訳では多くの変更があるようで、「特徴と実例」にも例示されている。わたしが印象深かったのは、「イエス・キリストへの信仰」(ロマ書3:22)だ。これはフランシスコ会訳だ。新共同訳では「イエス・キリストを信じる」となっている。これが、今回の共同訳では、「イエス・キリストの真実」となっている。「信仰」と「真実」。違いはよく分からないが、よほど神学的な意味がこめられているのであろう。

  興味深かったのは真福八端(マタイ5-7)だ。同じともいえるし、違うともいえる。たとえば、「柔和な人々」(新共同訳)は複数形だし、「柔和な人」(フランシスコ会訳)は単数形だ。これが今回の共同訳では、「へりくだった人々」となっている。聞いてわかりやすいと言えばわかりやすい表現だ。
 そのほか、「嗣業」から「相続」へとか、動植物の名前とか、色々変わったようだ。また、さすが「イエズス」は出てこないが、わたしが一つ分からなかったのは、「規定の病」だ。たとえば、マタイ8:2だ。新共同訳でもフランシスコ会訳でも「皮膚病」と訳されていた部分だ。バルバロ訳ではかって「らい病人」と訳されていたところだ。英語の聖書ではleperと訳されることが多いらしく、文字通りの病名のようだ。今回の「規定」とは、どうもこの病は明白ではないので、「旧約聖書に規定されている病」という意味で「規定」という言葉を使っているように見える。わたしにはピンとこないが、聖書の翻訳にもポリティカル・コレクトネスの思想が入ってきているのであろう。この訳語がどう定着していくか、見守っていきたい。
 まだ購入されていない方は「続編付き」をお求めください。あまり読む機会が無いとは言え、無ければ困ることも多い。

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