カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

麹町教会 vs. 関口教会

2020-06-28 13:43:36 | 教会

 今日は年間第13主日である。自分の教会のミサには次の順番が来るまで参加できないので、
麹町教会(聖イグナチオ教会)の配信ミサ(ネット公開ミサ)に出た。前回まで関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂)にでていて、麹町教会のミサは久しぶりであったので、印象の違いを記しておきたい。

福音朗読の箇所はマタイ10:37-42。聖書の小見出しは「平和ではなく剣を」(新共同訳)、「平和ではなく分裂」(フランシスコ会訳)と、厳しい。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(10:38)。

 麹町教会は信徒数1.6万人以上と日本一大きい教会だ。外国語のミサは、英語・スペイン語・
ポルトガル語・ベトナム語・インドネシア語・ポーランド語であげられ、籍は置いていないがミサに与る外国人も多いと思われる。

 関口教会は信徒数は2200人位で少なくはないが、長い歴史を持つ東京カテドラルだ。所属する司祭の人数、小聖堂の数、告解室、泣き部屋、ホーリーショップ、図書室、集会室、クリプタなど、二つの教会を較べるとその違いは興味深い。特に社会的影響力の方向性の違いに気づかされる。東京教区の信者さんで訪ねたことのない人は少ないだろう。いずれ機会をみて整理してみたい。


(麹町教会)

 

(関口教会)

 菊池大司教の今日の説教は、ミサはまだ完全再開ではないという話から入られた。確かに東京ではまだ感染者が連日一日あたり50人を超えているようだ。

 お説教は、「十字架とはなにか」が中心テーマの話しのように聞こえた。
十字架は、「苦しみを受けてひっそり生きていく」、重荷・苦しみのシンボルなのか。そうではない。それは、福音宣教の呼びかけであり、しかも言葉によるそれではなく、行動、愛の行動による福音宣教の呼びかけであると言われた。フランシスコ教皇の回勅『ラウダート・シ』を引用して、「ライフスタイルを見直すチャンスを与えられていると理解しよう」と述べ、いつものように格調高い話であった。

 麹町教会のミサの司式はグエン・タン・ニャー師であった。日本語とベトナム語のミサの時間が入れ替わって、日本語ミサが10時からになった。初めに英師から紹介があった。ベトナム出身で協力司祭とのことであった。若い司祭による、初々しいミサで印象深かった。
 YouTubeによるミサの中継には、手話による通訳が入っていて驚いた。日本語ですら難しい祈りや典礼文をどのように表現するのか興味深かったが、わたしにはさっぱりわからなかった。また、画面に文字が表示されていたので「聖書と典礼」が手元になくともミサについて行けたのはよかった。聖堂では聖体拝領も普通に行われていたようだが、事前申し込みした方のみのようであった。映像でしか見れないわれわれにはカルメル会の『祈りの友』の霊的聖体拝領の祈りが映し出されていた。良いアイディアだと思った。

 ニャー師の説教は丁寧だった。「わたしよりも父や母を愛する者も、わたしにふさわしくない」というイエスの言葉を、戸惑いながら一生懸命理解し、説明しておられる姿に心を打たれた。将来の教会がこういう若い元気な司祭によって支えられていくのだと思うと、なにか励まされた気分になった。
 鈴木勁介師が今日の主日に読んだ川柳はこうだ。「愛されて 遣わされている 参ったな」。教区司祭の実感なのかもしれない。ニャー師が鈴木師のこういう心境に達する日が近いことを心から祈った。

 

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分散式公開ミサにはじめて与る

2020-06-21 14:33:44 | 教会

 私どもの組にミサの順番が回ってきて、今日はじめてリアルな分散式公開ミサに与った。年間第12主日で、祭服も緑に戻っていた。
分散式なのでミサに集まったのは40人ほどだったと見受けられた。
 4人がけの椅子は二人がけに限定され、しかも椅子も一列あけて座るという安全策が取られていた。祭壇、説教台、司会者席には
アクリル板がおかれ、消毒用のアルコールディスペンサーも置かれていた。
 聖体拝領でも、信者の拝領の時、「キリストの体ーアーメン」とは言わずに、事前に一斉に唱えておいて、いただく時は黙っていただき、
神父様はマスクをしているという徹底ぶりだった。口からの聖体拝領は禁止、祝福もなし、ということだった。聖体拝領の列も間隔をとって
並ぶ。なにもかにもはじめてのことで、面食らうことも多々あった。
 歌は歌わないし、献金袋は回ってこないし奉納はない。平和の挨拶もお互いに遠くからで、眼で挨拶しようにもマスクで顔もわからない。
こういうものだと言われれればそうかと納得するが、聖体拝領ができただけでも有難いと思った。
 ミサも30分くらいで終わり、わたしとしの経験の中では最短のミサだった。神父様のお説教も短かった。今日の福音朗読は
マタイ10:26−33で、「体を殺す者どもを恐れるな」で、神父様の今日の川柳はこうなっている。
「信仰を どこまで深めりゃ そうなるの」。信仰浅き私には信仰を深めるなんて無理なので、コロナを恐れてこの4ヶ月じっとしていた。
ミサの後、新たに洗礼を受けられた方々の挨拶があり、教会が動き出していることを実感させてくれた。

(年間第12主日)

 

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洗礼後のあゆみ ―下巻『信仰の神秘』―

2020-06-19 11:26:26 | 教会

 今まで見てきた『キリスト教信仰のエッセンスを学ぶーより善く生きるための希望の道しるべ』は、入門講座の「基礎コース」用で、
このあとの「発展コース」用の本が『信仰の神秘』である。下巻とも銘打たれている。師のカテキスタ養成講座ではもうすでに
用いられているようだが、まだ刊行されてはいないようだ。発展コースではどういうテーマが取り上げられるのだろうか。

 この本の目次は以下のようになっているようだ。

第1部 キリスト教の人間観
 第1章 人間であることーその特徴
 第2章 人格的存在である人間
 第3章 聖書の人間観
第2部 キリスト教信仰を生きる
 第1章 信仰の恵みに答える生き方
 第2章 自己の成長ー過ぎ越しの神秘を生きる
 第3章 教会と共なる歩み
 第4章 カトリック信者のライフスタイル
 第5章 世の塩・世の光であれ
第3部 付録:カトリック信者の心得

 つまり、基本的には二部構成で、第一部は人間論、第二部はあえていえば秘跡論のようだ。序論に一部と二部は順番に読む必要なないと
書かれているので、この二つは独立していると考えて良さそうだ。

 師は教義学が専門とのことなので、師の神学院での講義を垣間見ることができそうだ。
ところで、教義学とは何なのだろうか。教義とはドグマのことで、教会によって正式に承認された教えのことだ。
カトリック神学は大きく見て教義学と実践神学にわかれるようだ(1)。
「教義学」は ①秘跡論 ②教会論 ③キリスト論 ④神学的人間論 から構成されているようだ(2)。
「実践神学」は ①典礼 ②倫理 ③教会法 ④霊性 ⑤司牧宣教 からなるという。
教義学と実践神学以外に神学院で講義される「その他」科目は ①聖書学 ②教会史 ③哲学的人間論 だという。

 本書の特徴は人間論にあるようだ。人間論と言っても興味深いのは、神学的人間論と哲学的人間論が区別されていることだ。区別の基準が
なにかはわたしにはわからないが、神学的人間論は神論・創造論・罪論・恩恵論からなるという。師は『信仰の神秘』ではV・フランクルや
ハイデッガーを取り上げているが、それらは哲学的人間論の範疇に入るのであろう。

 『信仰の神秘』は実は第2部が大半を占める。秘跡論と言ってよいかどうかわからないが、祈りや典礼の説明(3)が中心となっている
ようだ。つまり、入門講座といっても、すでに洗礼を受けた人向けの講義のようである。

 本書が刊行されたらきちんと読んでみたいものである。



1 阿倍仲麻呂『使徒信条を詠む』教友社 2014

(神学の相関図)

 

2 プロテスタントの教義学は ①キリスト論 ②信仰義認論 が中心で、カトリックとは組み立て方が異なるようだ
(『キリスト教組織神学事典』)。
3 師に論じてほしかったのは、「御子」の読み方だ。教会ではこれは伝統的に「おんこ」と読んできたが、新共同訳聖書では「みこ」と
読ませている。協会共同訳でも同じである(例えば、ヨハネ3:17 「神が御子を世に遣わされたのは・・・ 」は、「みこ」とルビが
ふってある フランシスコ会訳は「おんこ」とルビがふってある)。これはミサの中で長らく混乱を生んでいた。教会は今度日本聖書協会の
了解のもとで、ミサでの聖書朗読において「おんこ」と読み替えることを決定したようだ。この読み替えがミサの福音朗読に限定されるのか、
他の場所(例えば入門講座)にも当てはまるのかはわからない。現実には教会の中では両方の読みが混用されている印象がある。教会が
福音朗読を新共同訳から協会共同訳に切り替えられない理由の一つに思える。森司教によれば教皇の自発教令によって典礼式文の翻訳は
各国の司教(団)に委ねられるようになったという。「主の祈り」の変更案(わたしたちの罪をお許し下さい→わたしたちの負い目を
ゆるしてください)とならんで、検討してほしいものだ。

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結び・キリストを信じて生きる

2020-06-17 08:31:19 | 教会

 結びは「キリストを信じて生きる」と題されている。洗礼を受けた後の生き方の指針を語っているようだ(1)。師は以下の6項目を
順番に説明していく。

1 み言葉は人となった
2 再び「導入」に戻って
3 信じるものになりなさい
4 信仰を生きるということ
5 証しされていく信仰
6 洗礼を受ける

 師は言う。「言葉(ロゴス)が時満ちて生身の人間(肉)になって、人間の歴史の中に入り込んできた。それがナザレのイエスである」。
神が人間の歴史に介入する。そんなことがあるのか。あるのです。師は、それを信じるのがキリスト教信仰の根本です、と断言する。
「み言葉は人となった」を信じなさいという(2)。

 「そう言われても・・・」 受講者の声が聞こえるかのように、師はたたみかける。「あなたはわたしを見たから信じたのか。
見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:24-29)。「信じるものになりなさい」というトマスに向けたイエスの言葉を
師はくりかえす。

 信じるとか、信仰を生きるとか、それはどういうことなのか。師はルーサー・キングやマザー・テレサ、キリシタン時代の多くの殉教者
の例をあげて、説き明かしていく。まるで師自身の信仰告白を聞いているような筆運びである(3)。

 師は最後に、洗礼式における信仰宣言を紹介する。「洗礼信条」と呼ばれ、3世紀にはすでに広く定着していたようだ。「使徒信条」が
これをベースに作られたことはよく知られている。もう一度洗礼式を思い起こしてみよう。

司祭 「○○○○さん、あなたは天地の創造主、全能の神である父を信じますか」
答  「信じます」
司祭 「父の独り子、おとめマリアから生まれ、苦しみを受けて葬られ、死者のうちから復活して、父の右におられる主イエス・キリストを
信じますか」
答  「信じます」
司祭 「聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じますか」
答  「信じます」

 このあと、司祭は、「○○さん、わたしは父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」と唱えながら、洗礼志願者の頭部に
3度水を注ぐ。そして聖香油の塗油(4)、白衣の授与(5)、ろうそくの授与とつづき、晴れて聖体拝領となる。

 師は本書を次のマルコの言葉で締めくくっている。

「あなたの信仰があなたを救った」(マルコ5:34)


感想

 今までキリスト教入門講座用の小笠原師のテキストを読んできた。いろいろ学んだ。同時に、いろいろな感想が思い浮かぶ。
一番強い印象は、入門講座とはこんなにも難しいものなのかということだ。洗礼を受ける準備とは大変なことだということがよくわかった。
でも、こういう講義は、哲学の素養があるか、少なくとも関心がないと、一年間は長すぎるのではないかと思う。内容も時間ももう少し
簡略化できないのだろうか。

 カト研ではジョンストン師の話はもっと単純だったと思う。ジョンストン師が言っていたのは三点だった。①神は三位一体です
②イエスはキリストです ③いつも「聖霊来たり給え Come, Holy Spirit」と祈りなさい あとは聖霊が導いてくれます。
 合宿でも、黙想会でも、部室でも、あまり上手ではない日本語で、いつも同じ話だったのでうんざりげんなりだったが、
話はよくわかった。やがてカト研は大学紛争の中で消えたが、師の講座はその後も続いた。遠い昔の話である。

 同時に、入門講座の奉仕者(担当者)、カテキスタたちは、講座の準備が大変だろうと思った。教えることは学ぶことだとはいえ、最後の課題は
求道者を信仰に導き、信仰を共に歩んでいくことだからだ。入門講座からひとりでも多く洗礼にたどり着けるひとが生まれることを祈りたい。


1 念の為に「カトリック信者の心得ーカトリックの信仰生活とそのしきたり」を載せておきたい。これはこのブログで以前にも
紹介したことがある。『信仰の神秘』に付録として掲載されている。詳しくはカトリック菊名教会に問い合わせていただきたい。


(信者の心得)

目次は以下のとおりである(*は追加されたもの)

1 はじめに
2 典礼歴について
3 洗礼の秘跡について
4 子どもの信仰教育と初聖体について
5 堅信の秘跡について
6 ゆるしのひせきについて
7 結婚について
8 病者の塗油について
9 帰天をめぐって
10 * 種々の祝福と教会行事について
11 所属教会(籍)について
12 経済的な支援・寄与の責任について
13 * さまざまな教会活動について

 

2 「御言葉」は「みことば」と読む。「おことば」とは言わない。天皇の「御言葉」は「おことば」という。「みことば」とは言わない。
3 師は、本章でも、ヨハネ福音書における「ロゴス」、「真理」という言葉の使い方の特徴を詳しく説明している。「真理」の原語は
「アレテイヤ」でむしろ「真実」と訳すべきであり、仏教の「真実実相」という意味合いに近いと述べている。なぜここでこういう説明が
入るのか意図は不明だが、わたしの推測はこうだ。信仰が「ただ幻想や妄想の世界のことだとか、無価値なことだとして片付けてしまうのは、
果たして正当なことでしょうか。むしろ、わたしたちがより善く生きていくための呼びかけ、心の渇きへの答え」(249頁)であることを
強調したいからのように読める。また、カトリック入門講座では若者に絶大な人気を誇る晴佐久昌英師、英隆一郎師、片柳弘史師たちの
現代的な教えー今のまま、そのままでいいのですーと比べる時、小笠原師の入門講座は王道を行っていると自己主張しているようにも読める。
4 聖香油とは司教が聖別したオリーブ油。司教にのみに許された権限で聖別されたものだという。オリーブ油であって他の
動物性・植物性の油は使わないようだ。
この聖香油の塗油はつぎのような祈りとともになされる。
「わたしたちの主イエス・キリストの父、全能の神は、あなた方を罪から開放し、水と聖霊によって新しいいのちをあたえて下さいました。
神の民に加えられたあなたがたは、神ご自身から救いの香油を注がれて、大祭司、預言者、王であるキリストの結ばれ、その使命に生きる
ものとなります」。
大祭司・預言者・王とはいかにも古臭い表現だが、聖書的表現として現代にも生きており、感慨深いものがある。
5 白衣(びゃくえ)は、現在は実際には、女性にはベール、男性には小さな白い布(ネクタイみたいなもの)で、頭か肩にかける。

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だれが復活するのか ー エッセンス(8)

2020-06-15 12:41:11 | 教会

 第6章のタイトルは「死を超えた希望を生きる」となっている。われわれのからだが復活するとはどういうことなのか。
本章は2節からなり、第1節は死またはお迎えについて、第2節はからだの復活と永遠のいのちについてである。
どちらも重い話だが、入門講座が、教会の「葬儀の祈り」までカバーすることに驚いた。
入門講座などに出たことのない旧い信者さんは、教会の冠婚葬祭の典礼には詳しくとも、『儀式書・葬儀』は読んだことないのではないか。
小笠原師の説明を聞いてみよう。

1 死を超えて

 「メメント・モーリ」 memento mori という言葉をわたしも聞いたことがる。「汝、死すべきことを覚えよ」。中世キリスト教世界で
流行ったラテン語の句だと言う。現代社会は平均寿命が伸び、超高齢化社会などと呼ばれている。だが死亡率は相変わらず100%だ(1)。

 小笠原師は、マルコ8:36「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の得があろうか」をひいて話を始める。
われわれは、あれが欲しい、これが欲しい、あぁなりたい、こぅなりたいといつも思う。若い時はいいだろう。でもその歳になって、と師は
いいたいようだ。
 命(いのち)とは 「プシュケー」のことだと詳しく説明していく。プシュケーは本来は「生命の息」という意味で、人間が心(魂)を
持つ人格的主体であることを示すという。
 日本語の「寿命」という言葉は「いのちを寿ぐ(ことほぐ)」という意味で、いのちは喜ばしいこととみなす考え方が背後にあると、
興味深い説明を重ねている。

 そして、愛するとは、好ましい思いを抱くという通常の意味ではなく、「自分を与える、自分のいのちを与える」ことだという(2)。
この「いのち」の「中身」を師は、「自分の時間、才能や能力や言葉、体力や愛情、おもいやり、微笑み、祈り」などをあげ、
自分のいのちの中身が「豊かであることに驚きを禁じえません」という(3)。

 師は、「いのちの意味」と「裁き」について説明していく。聖書の解説というより、師の現代社会論のようにも聞こえる。結局、人生の
課題とは、神の前で「自分自身を全うすること」、「神と隣人を愛する生き方」を選ぶことだという。死は、敗北ではなく、寿命を
まっとうする時、救いの時なのだという(4)。

 師はさらに、浄土仏教における「お迎え」(御来迎)」が、キリスト教における「マラナタ(主よ来てください)」の祈りと同じように、
死の不安に怯える人々に深い慰めを与えていることを指摘する。マラナタは主の再臨への願いの祈りだ。師は、ミサ聖祭の「交わりの儀」で
「主の祈り」のあとに唱える「副文」を引用して本節を閉じる。これは司祭が唱えるものでわれわれが唱えるものではないが、身近な祈りだ。

「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、現代に平和をお与えください。
あなたのあわれみに支えられ、罪から解放されて、すべての困難にうち勝つことができますように。
わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。」


(葬儀)


2 「からだの復活、永遠のいのちを信じます」

 師は、この最後の節で、教会の葬儀の祈りを紹介する。洗礼によって復活のいのち(新しいいのち)を地上で生き始める者は、
死をも超えて生きる。聖書はそれを「永遠のいのち」と呼ぶ。ヨハネ福音書はイエスの力強い宣言を記している。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる」(11・25)(フランシスコ会訳)

 師の葬儀ミサの説明は興味深い(5)。二つの祈りを紹介している。

「キリストのうちにわたしたちの復活の希望は輝き、死を悲しむ者も、とこしえの命の約束によって慰められます。
信じる者にとって死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活が終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」

「慈しみ深い神である父よ、あなたが遣わされた独り子イエスを信じ、永遠のいのちの希望のうちに人生の旅路を終えた〇〇〇〇さんを、
あなたの手に委ねます。
私達から離れていくこの兄弟(姉妹)の重荷をすべて取り去り、天に備えられたすみかに導き、聖人の集いに加えてください。
別離の悲しみにある私達も、主・キリストの約束された復活の希望に支えられ、あなたのもとに召された兄弟(姉妹)とともに、
永遠の喜びを分かち合うことができますように。わたしたちの主・イエス・キリストによって。アーメン」

 この祈りでは、永遠の命への信仰と、神が用意なさる新たないのちの中で「再会する」希望がうたわれている。復活の約束は
再会の喜びの約束でもある(6)。この喜びは、教会は「聖徒の交わり」という教えの基本になっているという。

3 「からだの復活を信じます」

 さて、最後は難問中の難問、「からだの復活」である。からだの復活という神学を強調したのはパウロである。コリントの教会との
やり取りの中でパウロの神学は研ぎ澄まされていく。

 「死者はどのように復活するのか。どんな体で来るのか」(一コリント15:35 協会共同訳)と人は問う。今でも我々の周りの人々も
問いそうな質問である。わたし自身もそう問いかけたい。だが、パウロの答えは明快である。
「(そんな質問をするあなたは)愚かな人だ」(15:36)。

 これではコリント前書を読まないわけにはいかない。一コリントの1~11は「キリストの復活」、12~32は「死者の復活」、
35~58は「復活の体」について述べる。

 復活論には大きく見て、キリストの復活論とキリスト者の復活論の二つがある(7)。キリストの復活論は「史的イエス問題」が
からむので第4章でふれられた。キリスト者の復活に関しては、「体の語が全体としての人間を意味している・・・体をただ実体的にのみ
とらえるのは不適切である」(8)とされる。キリスト者・信仰者の復活には、「霊の復活」と「肉の復活」の両側面がある。
北森氏は、「霊において復活した信仰者は、終末時において復活したからだを着ることになる。これが救いの成就である」という(9)。

小笠原師のからだの復活の説明も信仰者の復活に関してである。
 師は、からだの復活とは「身体を持つ人格」の復活のことだという。師の説明は独特で、興味深い。
師は、からだとはギリシャ語のソーマ soma のことで、死によって朽ち果てていく肉体という意味と、身体としていまここに具体的に
生きる人間という意味の両方を含むという。師は面白い例を上げる。日本語で、「身の程を知る、身を切る、身を粉にする、身につまされる、
身に覚えがある」などなどで使われる「身」とは、「身体を持つ人格・身体としてある人格」のことをさしている。からだとはそういうもの
として、つまり「身」として、理解できるのではないかという。復活するからだとは「身」のことだということらしい。

 「死をもって地上の体(肉体)の在りようが終わっても、「からだを張って」実現してきたその人自身の人格としての価値(生の質)は
滅びることなないのです」という。つまり、「霊のからだ」(10)という新しい形へと変えられ、不滅の人格として「顔と顔を合わせて」
神と向き合うのだという(11)。師は、からだの復活とはこういうことを意味すると述べて本章を閉じている。



1 わたしでも、身近な人の訃報を聞くと、自分の死がそこまで来ている感覚を覚えるようになった。不思議な感覚だ。証券会社や銀行が
エンディングノートの話をしてくるようになった。かれらに無責任とそしられようと、わたしはそういうことには全く関心がない。
2 教会で老人仲間はよく言う。「人様の世話をするのが、できるのが、うれしい。人様に世話されるのは、ありがたいが、うれしくない」。
3 神学的にはそうなのであろう。これは師に特徴的な表現の仕方で、そのため師をカリスマのように称える信徒もいると聞く。他方、
社会的に見れば、このいのちが画一化され、均質化され、消費の対象になっていることのほうが問題だという議論もある。
なぜか昔のベストセラーの議論を思い起こす(見田宗介『現代社会の理論』1996、加藤典洋『敗戦後論』1997)。
4 師のこういう表現を綺麗事を言っているととってはならない。司祭は、特に教区司祭は、信徒の死という極限状態に日々直面している。
焼き場(火葬場)で神父と坊さんが鉢合わせしたり、入り乱れることは珍しくないという。「死は滅びではなく、新たないのちへの門である」
という祈りがどれだけ悲しむ人々を、信者であろうとなかろうと、力づけているかを忘れてはならない。
5 教会でも家族葬が増えて葬儀ミサも変化の過程にあるようだ。ミサの式次第は、開祭、ことばの典礼、感謝の典礼、告別式と
変わらないが、聖歌など通常のミサとは異なる。
6 師はここで、法然の歌を援用する。
「先立たば遅るる人を待ちやせむ、華の台(うてな)の半ば残して」
(愛するあなたに先立って地上を去っていくわたしですが、天国での喜びに満ちた美しい席を半分あけて、遅れてやってくるあなたを
待ちましょう)
鈴木勁介師の川柳もかきとめておこう。
「いつか死ぬ 受けとめられるか よいことと」(『福音せんりゅう』A年11月2日死者の日 ヨハネ6:37-40)
7 北森嘉蔵「復活」『キリスト教組織神学事典』(2002)
8 青野太潮「体の復活」『岩波キリスト教事典』(2002)
9 北森氏のこういう表現は基督教団系のプロテスタント神学では標準のようだが、霊肉二元論を想起させる印象もある。
10 師は「理解を深めるために」欄で、「霊のからだ」について説明を重ねている。霊のからだという言葉はパウロの言葉なので一コリント
15章を使って説明していく。結局、復活とは、朽ちていく「肉」(自然の命の体)の在りようから、「霊」(神の息吹)に満たされた
「ソーマ」に変えられることだという(240頁)。肉からソーマへということのようだ。
師はここで、「自然の命の体」を「肉」と呼んでいるが、青野太潮によるとこれはギリシャ語でプシュケーで普通「霊魂」と訳されている。
ソーマはソーマ・プネウマティコンでプネウマだから聖霊とでも訳したくなる。師は「注9」の「肉体」で、聖書では「サルクス」 sarx と
呼ばれて「ソーマ」とは区別されていると説明している。肉という訳語が不適切だということのようだ。こういう細かい議論は
師の『信仰の神秘』(近刊)でも展開される。
11 われわれは自分のことは自分が一番よくわかっているとよく言う。だが考えてみると、自分で自分のことすら十分にはわかっていない
ことに気づく。師は言う。「顔と顔を合わせて神と向き合った時、われわれは自分を巡る一切のことを知り、自分と神との関わりのすべてを
知る。パウロによれば、その時人は「驚き、賛美する」だろう」。小笠原師の説明は、求道者を、入門講座の受講者を、力づける。
ロヨラハウスで館長をしておられた外川直見神父もカト研のミサのお説教で言われたことがある。神と顔と顔を合わせて向き合った時、
「ようやったね」と認めてもらえるような人生を歩みたいものだと。

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