カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ポスト・コロナの五島列島巡礼の旅(1)

2020-10-15 17:13:16 | 教会

 五島列島の教会巡りをしてきた。長い間一度は訪ねてみたいと思っていた願いがやっとかなった。影山さんを初めカト研の皆さんにはずっと勧められていたので、今回思い切って訪ねてみた。

 コロナ禍が治まったわけではないが旅行もできるようになり、Go To Travel キャンペーンが始まったこともあり(1)、行ってみた。この地は2年ほど前に世界遺産に指定されたこともあり良い機会であった。

 台風一過青空の秋晴れが連日続いた。文字通り観光日和であった。空の青と海の碧のコントラストが素晴らしかった。巡礼とは称しても短い旅ではあったが、ろいろな思いが湧いてきていて、まだ印象を整理できていない。とはいえ、忘れないうちにメモを記しておきたい(2)。

 長崎大司教区発行の「五島巡礼手帳」なるものを手に教会を回ったが、とにかく教会の数が多すぎて、今でもどこをどう回ったのかよく思い出せない。巡礼スタンプを押している暇もなかった。
ただ強く印象に残った教会がいくつかある。

(秋晴れ)

 


 まずは堂崎天主堂だ(3)。福江島の教会の外観の美しさや聖ヨハネ五島の聖骨(4)もさることながら、キリシタン禁教時代からの資料が保管されていて本当に勉強になった(5)。おそらくすべてが現物と思われた。
 久賀島の旧五輪教会も立ち去り難かった。古いといえばそれまでだが、教会がなぜ水辺(海岸の近く)にしか建っていないのかよくわかった。
 奈留島の江上天主堂はクリーム色と水色の木造建築のだけあって絵になる。記憶がはっきりしないが、お聖堂のなかで椅子に跪き台がついていた。まだ使っているのだろうか。
 浦上三番崩れで有名な青砂ヶ浦教会堂も観光名所のようだ。どこでも鉄川与助の名前が出てくるが、上五島を代表する教会のようだ。
 中通島の頭ヶ崎教会は外観は総石造り、中は純木造ということで、外観も内容も世界遺産の中ではピカイチの教会らしい。鐘楼らしきものも見えた。
 このほか、穿(さこ)殉教記念聖堂とか針のメンド(穴)とかキリシタン墓地とか、どこまでが世界遺産の構成資産なのかわからない観光名所もあった(6)。
 隠れから潜伏へ。キリシタンからカトリックへ。少し考えを整理してから文章化し、カト研の皆さんの批判を仰ぎたいと思う。



1 旅行代金が一人あたり2万円以上安くなり、地域クーポンも1.2万円分ももらえた。仕組みはよくわからないが、五島の経済になにかの助けになってほしいものだ。五島はカトリック信者が多い街だが(上で3割、下で1割位らしい)、歴史的には遣唐使の街だし、鯨漁の街でもあったようだ。現在過疎化の進展は急速らしい。
2 五島列島のキリシタンについてはかってこのブログで少し触れたことがある。2018年6月9日に「潜伏キリシタンと隠れキリシタン」(神学)というタイトルだった。今回の旅行で、この昔のブログで言及したことに特に変化が生まれたわけではない。
3 教会によって、天主堂、教会堂、教会という言葉が使われている。どのように使い分けられているのかはわからない。
4 26聖人の一人。わずか19歳の若者にこれだけの勇気があったことに驚く。
5 私は古文書は当然読めないが、公教、聖教、真理の本源、天主公教会、聖教理など、私は本でしか知らない、現在は使われていない言葉が、普通に用いられていたことに驚いた。
6 2018年に世界文化遺産に「登録」された。「文化」遺産のようだ。タイトルは、

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(Hidden Christain Sites in the Nagasaki Region)

構成遺産は、
1 原城跡
2 平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
3 平戸の聖地と集落(中江ノ島)
4 外海の出津集落
5 外海の大野集落
6 野崎島の集落跡
7 頭ヶ島の集落(新上五島町)
8 奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)
9 久賀島の集落
10 黒島の集落
11 大浦天主堂
12 天草の崎津集落(熊本県)

「潜伏キリシタン」 Hidden Christian という言葉が使われている点が興味深い。

 

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コロナ・ミサの平均出席率は17%くらいか

2020-10-04 13:33:21 | 教会

年間第27主日の分散ミサに出てきた。コロナ対策とはいえ、信者の聖体拝領のときでさえ、司祭は「キリストの御からだ」とは唱えず、われわれも「アーメン」とは答えてはいけないことになっている。なんか変だな、これでは霊的聖体拝領とあまり変わらないなとか思うが、緊急事態だから致し方ない。

(分散ミサ)

 私どもの教会では地区ごとにミサの曜日と時間が割り当てられている。全体で9組に分かれており、土曜日16時、日曜日7時・10時のどれかに順番に割り当てられる。
 教会の典礼委員会がミサの参加者の数を数えているので、今回簡単に集計をとってみた。興味深い傾向が浮かんできた。7月と8月の分だけを集計してみた。

 この教会の信徒数は2019年で1492名。7月の10回のミサ(一つの組が複数に分割されているため組の数とミサの回数は一致しない)の総参加者数は227名。毎回平均は23名弱となる。8月の総参加者数は268名で毎回平均は27名弱となる。比率でいうと15%と17%くらいだ。
 この数が多いのか少ないのか比較する材料がないのでなんとも言えないが、数百人ははいるお聖堂に30人位というのは「密を避ける」という点ではちょうど良いのかもしれない。
 性別比はわからない。信者全体では男女比は35%対65%だが、この分散ミサでは1対9という印象だ。圧倒的に女性の参加者多い印象だ。年齢別の集計はないが、分散ミサが特別高齢者が少ないという印象はない。高齢者が感染を恐れてミサに出ないということではなさそうだ。

 ミサの出席は時間帯によって異なると考えると、7月は朝7時のミサが計80名、10時が90名、夕方4時が57名。8月は7時が116名、10時が128名、午後4時が81名。曜日と時間帯が指定されているという点を考えても、やはり10時のミサが多い。教会に歩いて行ける人は午前7時でも大丈夫だろうが、遠くに住む信者には早すぎる時間なのかもしれない。土曜日のミサの出席者が思いがけず多いのも印象的だ。コロナ以前でも土曜日ミサの出席者は多いことがこの教会の特徴として指摘されている。ろいろな事情で日曜日のミサには出られない人がいるのであろう。

 ミサの出席は天候によっても左右されると考えて、集計し直してみる。7月は晴れの日が4回で出席者は計89名、曇りの日が3回で出席者は計79名、雨の日は3回で出席者は計63名。やはり雨が降ると数は減るようだ。8月はすべての日で晴れが続き天候の影響を測ることができなかった。

 総じて、時間帯の影響と天候の影響のどちらが強いのかは推測できないが、傾向としては午前7時のミサの参加者は少ないと言えそうだ。実際近隣の教会で日曜日は午前7時のミサを挙げず、9時と11時にしているところもあると聞く。これは主任司祭の判断らしい。ミサ後の雑談では、年寄りには7時のミサのため早起きするのはつらいという声もあった。司祭にとっては聖務日課だから同列には論じられないようだ。

 7・8月の傾向として全体としてみると、分散ミサの平均出席率は全信徒数の17%くらいのようだ。これが多い数字なのか、少ない数字なのか、コロナ以前と比べて増えているのか、減っているのか、9月以降はどう変化しているのか、また機会をみて調べてみたい。

 

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「教会の外に救いなし」は今日でも通じるのか ー教会論(13)

2020-10-01 21:02:33 | 教会


 第15章は「教会の外に救いなし」と題されている。この表現または命題は教会の宗教的排他主義を示すものとしてかってはよく使われた。最近はあまり聞かないので「またこの話か」という感がないわけではないが、岩島師は教会論としては触れずに避けるわけにはいかないテーマであろう。

 これは、Extra ecclesia nullus salus という言葉の訳語だ。extra とは、~の外 という意味、 ecclesia は「人々の集まり(教会)」という意味だ。 nullus は否定形、salus は「救い」という意味。直訳すれば no salvation outside the church とでもなる。

 これはカトリックの教導職(1)が現代に至るまで固持している思想・信仰である。この信仰についてはいろいろなところでいろいろな人がいろいろ言っているが、結局は、信徒は「使徒信条」第9条「聖なる普遍の教会・・・を信じます」だから教会に「属する」ことが要求されており、あれこれ言うものでもない。

 『カトリック教会のカテキズム』は、第2部「キリスト教の信仰宣言」第3章「聖霊を信じます」のなかで、第846項が「教会の外に救いはない」とされ、こう説明している(264頁)。

「これを肯定形にすれば、救いはすべて、頭であるキリストからそのからだである教会を通して来ることを意味します」(2)

 とはいえ、この表現は、人を躓かせかねない表現であり、正確な理解が必要だ。そのため、岩島師はこの思想についての古代から現代にに至るまで歴史的潮流を整理する。歴史的背景の理解なしにこの思想の特徴を正確に知ることは難しい。

1 聖書

 この思想の根拠は聖書の様々な箇所に見られる。

1ペテロ 3:20~ (ノアの箱舟のたとえ)
マルコ 16:16 (信じて洗礼を受ける者は救われる:新共同訳)
使徒言行録 4:12 (イエスによる以外の救いはない)

2 教父たち

 アンチオキアのイグナチオス、エイレナイオス、オリゲネス、キプリアヌス、スルペのフルケンチウスなどもこの思想を唱えている。特にオリゲネスはこのテーゼの最初の表現者と目されているようだ。

3 教導職

 第4ラテラノ公会議(1215):普遍的教会は唯一であり、その外では救われない (3)
 ボニファティウス8世(1238-1303):勅書「ウナム・サンクタム」(1302)で「教会の外に救いも罪の赦しもない」と宣言(4)

4 新たな段階

 新大陸発見の時代(15世紀末から16世紀)になると、他民族、他宗教が続々と発見される。教会は対処に悩むが、結局はこの命題を撤回しない。
 やがてトリエント公会議(1545~)が開催され、対抗宗教改革の発端となる。ここで初めて「福音の伝えられた後は・・・」の文が加えられ、「望みの洗礼」の考え方が表明される(5)。

5 その後の教導職

 ヤンセニスムに対抗するなかで、教会の発言にニュアンスの変化が起こってくる。「キリストの救いはすべての人のため」(DS2005)と主張されるようになる(6)。

①ピウス9世の回勅(1863):「やむを得ぬ事情によりカトリックを知らない者が正しく生きるなら・・・救われる」(DS2866)。だが同時に、「しかし教会の外において誰一人救われない」(DS2867)とも述べている。なにか矛盾した表現が併記されている。

②ピウス12世の回勅(『キリストの神秘体である教会』1943):「しかし、不可抗力的無知によりカトリックを知らない者も、願望によって神に認められる」。
 これは、トリエント公会議の「教会に属する望み」の表現を受けて、神の願望に従おうとする「善意」を認めている(7)。

③第二バチカン公会議

 『教会憲章』第2章「神の民について」の第16項は「キリスト教以外の諸宗教」と題されている。ここに以下のような文章がある。

「また本人の側に落ち度がないままに、まだ神をはっきりとは認めていないとはいえ、神の恵みに支えられて正しい生活をしようと努力している人々にも、神はその摂理に基づいて、救いに必要な助けを拒むことはない」(8)。
 つまり、「善意」があれば(洗礼を受けていなくとも)救われると言っているようだ。

6 問題の捉え方

 ではこの問題をどのように捉えたらよいのか。洗礼を受けなければ救われないのか。教会に属さなければ救われないのか。岩島師はこの問題にアプローチするには以下の4点を確認しておくことが重要だと指摘する。

①他の補足的観点を合わせて考えること
アウグスティヌスのアベルの教会論が示すように、洗礼は救済の必須条件ではない。
②「教会の外に救いなし」は古代中世の世界では自然な考え方だが、現代とは時代環境が異なる
③この命題は、抽象的命題なのではなく、異端への対処など具体的問題への対応であった。発言の意図を正確に知ることが重要だ。
④信仰についての教えは、歴史の中で正される。今日では、時代に合うもっと適切な表現に代えられるべきである。

 では、岩島師は、「教会の外に救いなし」と言っているのだろうか。

7 今日の問題として

①今日、キリスト教徒の人類全体に占める比率からしても、キリスト教徒のみが救われると単純に主張できない
②ピウス12世や第二バチカン公会議の教会憲章のラインで「善意に生きる人」をもって従来の命題を解決できるか。出来ないだろう。キリストの教えでは愛こそすべてだが、その愛は信仰による「心の開き」が必要である
③第二バチカン公会議の考え方「教会は救いの普遍的秘跡である」が従来の命題に取って代わりうる。たとえ意識しなくとも、人が神の恵みに達するのはキリストの恵みによる。キリストはすべての人を救った。教会がすべての人にとっての救いを示す。従って、一部の諸宗教の神学者のように、キリスト教を相対化し、他の宗教と同列に論ずることはできない。

 岩島師の立場は明快である。歴史の変化を重視し、しかも多元主義をとらない。
岩島師がこう言うのだから、これが現在の日本のカトリック教会の考え方といってよいのであろう。

(マザー・テレサ)

 

 

 だが、プロテスタントは言う。「教会の外に救いなし」は間違いで、「聖書の外に救いなし」と言うべきだ。また、諸宗教は言う。「キリスト教の外に救いなし」は間違いで、救いに関わる宗教は基本的に平等と言うべきだ。
 神学が解くべき課題は果てしない。


1 この教導職という概念も曖昧だ。明治政府の宗教政策の中で作られた制度で、神道・仏教・儒教・キリスト教・新興宗教などを統治するためのものだったようだ。具体的には神官・神職・僧侶・牧師などを含む用語らしく、キリスト教の司教・司祭・助祭だけを指すわけではなさそうだ。
2 『カトリック教会のカテキズム・要約』(2010)の第2部第3章はこの部分の要約だが、この「教会の外に救いなし」論への言及・説明はない。
3 中世には公会議が8回開かれたが、この第4ラテラノ公会議は中世教皇権の最盛期に開かれた最も重要な公会議である。イノケンティウス3世によって召集された。聖変化は「実体変化」だと公式に宣言した公会議である。
4 ボニファティウス8世はイノケンティウス3世とならぶ教皇権至上主義者として知られている。フランス王フィリップ4世と抗争し、国王権を押さえようとするが、最後は国王派によって幽閉されてしまう。
5 洗礼は「水による洗礼」が原則だが、「血の洗礼」(殉教者など)や「望みの洗礼」(受洗前の乳幼児など)もある。
6 ヤンセニスムとは、恩恵と予定についてのアウグスティヌスの教説の復興を図ったオランダの神学者ヤンセン(1585-1638)の思想。自由意志と人間の行いを重視するイエズス会と激しい論争を繰り広げる。これは「自由意志論争」とよばれる。自由意志論争(恩恵論争)にはいくつかあるようだが、ヤンセニスムもその一つといえる。なお、DSは資料番号だが、詳説は省きたい。
7 ピウス12世(1876-1958)は、第二次世界大戦勃発直前に教皇に選出され、教皇の政治的中立性を主張した。共産主義的全体主義と自由主義的資本主義の両方から等しく距離をとろうとした。神学の近代主義的傾向を批判した。ピウス10世の「反近代主義者の誓約」(1910)はまだ生きていた。聖母被昇天の教義を制定した。
8 まるで、K・ラーナーの「無名のキリスト教」(anonymous Christianity)を思い起こさせる響きである。

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